にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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英語についてメモ

英語についてメモ

【英語は「配置」のことばです】

 三人称単数とか接続詞とか鬱陶しいのを除けば、基本的には並べただけです。

Tom loves John.(トムはジョンを愛しています)

John loves Tom.(ジョンはトムを愛しています)

  日本語はテニヲハなどの助詞(接着剤)がある言語です。誰について話をしているのかなどは助詞を見て判断します。でも英語は場所で判断するのです。つまり日本語を使う我々はものとものをくっつける感覚で話しますが、英語話者は置いていくのです。だからたとえば、上の英文をそのようなつもりで読んでみてください。よくファンタジーなどでたどたどしくしゃべるキャラがいます。「オレ、ヤル、ソレ」というような感覚でやるとわかりやすい気がします。「トム。ラブズ。ジョン」

【英語の一単語は「ひらがな」です】

 リスニングで苦労したことはあるでしょうか。あるいは、Please talk slowlyなどと頼んでみたのに一切ゆっくりしてくれないように感じたりしたことはありますか。

 上の例文””Tom loves John""でもそうですが、英語話者はこれを、日本語でいうところの「とらじ」というぐらいの軽さで読みます。誰も「トム」「ラブズ」「ジョン」などとはいいません。「トム」「ラ」「ジョン」ぐらいです。つまり一単語がほとんど一音に対応しているため、ゆっくり話してくれと頼んでも通じません。

 

 

 

家紋のことをちょっと調べる

 紋章(もんしょう、Coat of Arms)とは、個人および家系を始めとして、公的機関組合ギルド)、軍隊の部隊などの組織および団体などを識別し、特定する意匠又は図案である。

紋章 - Wikipedia

  特に日本のものを家紋と呼ぶ。にんじんが調べたいのは日本の紋章である。

 

 紋のおこりは『伊呂波引定紋大全』(盛花堂)という紋帳の序文に述べられている。けれどもこれが専門の研究書に引用されることはほとんどないという。その説によれば、神代の昔、物品を交易する市を開いたとき、その物品が混ざらないように目印を付け始めた。Aさんが持って来たものには柏の葉を結び、Bさんなら蔦の葉を結ぶ。これが紋所(=紋章、紋)のはじまりである―――紋は人と物を結び付ける記号として発生したという考えはおそらく正解に違いない(家紋の話 (角川ソフィア文庫))。

 日本最古の模様は、いまのところ、縄文時代の土器だろう。縄文時代は-14000年~-1000年のあいだだっただろうとされている。独特の網目模様がみられる「縄文文化」の時代である。とはいえ、縄だけだったわけではない。粘土をこねて土器を作り、焼いてしまうまえに貝や魚の骨、植物、そして紐などを押し付けた。この頃にはもう自然を加工して人類なりのカタチを作るようになっている(施文具の誕生)。とにかく模様に対するこだわりはすさまじいもので、この頃、ほかの世界を見回しても類例がないほどである。これを一万年も続けてきたのだから、こだわり具合がすごい。土器と同時に土偶なども作られており、呪術的な意味合いがこめられていた。つまり単なる装飾ではなかった。なにかの記号だった。

 弥生時代縄文時代終ー2世紀頃)になると、弥生式土器がつくられるようになる。縄文時代の奇抜なデザインに比べると洗練された感じがするだろう。大陸との交流によって青銅器や鉄器といった技術がつたわってきた。しかしこの新技術が人々の生活を乱し、世が荒れてしまった。二世紀後半に邪馬台国が成立し、「銅鐸」が各地で一斉に埋められた。弥生時代にはやっていた銅鐸はこの時期に一斉に姿を消している。それと同時に縄文期から続いてきた模様のほとんどが消え、渡来した仏教美術が主流になった。

 やがて時は流れ、平安時代遣唐使の制度がなくなり、大陸風の模様が趣味にあわなくなってきた。仏教的な臭いも気になるというのでどんどんと形を変えて行った。彼らが好んだのは、自然の風景や木や草花、身近な鳥などの小動物だった。これらの模様がそののちの紋章の基礎をなすものとなっていく→公家の乗用車といえば「牛車」。当時も今の車事情と同様に、駐車場はごった返していた。どの牛舎も華美に飾られていて、自分の牛車がどこにあるかわからない。それで特定の模様を牛車に記すことにした。それが子や孫まで引き継がれると家との結びつきが強くなり、象徴となる。ここに家紋が生まれる。家紋は育てられ、徐々に形が洗練されていく。

 

 

 

家紋の話 (角川ソフィア文庫)

家紋の話 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:泡坂 妻夫
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫
 

 

 

にんじんと読む「実在論と知識の自然化(植原亮)」🥕 実在論の基本的枠組み

 少々先走る部分もあるが、第一章と第二章を読み終えたいま、改めて第一章と第二章を振り返ってみたい。実のところ、第二章の記事は中途半端である。こうなったのは、読み進めるうちに自分の理解の浅さがはっきりしてきてしまったからだ。

 この記事では実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用という本の第一部『実在論の基本的枠組み』の内容を要約しつつ、自分なりにまとめなおしてみよう。

 

 

そもそもの問題意識

 Twitterでその本はなにが面白いのかと聞かれ、やりとりするうちに、自分の理解の浅さがわかった。そもそも「実在する」ということを問題にするのはなぜかという意識が、にんじんには欠けていたのだ。あれほど主観と客観について記事にしながら情けないことである。

 媒介説という括りで紹介するよりも、カントの哲学理論のほうがうまく実在の問題を補足できるように思われる。彼は岩崎武雄氏の表現するところの「認識論的主観主義」を掲げ、認識が対象に従うのではなく対象が認識に従うのだという転回を成し遂げた。これによって対象というものの構成には実はわれわれが関与しているという話になり、いろいろな難点を克服することになるのだが、大きな問題も生まれた。それは、結局のところわれわれは『ものそれ自体にはたどり着けない』という帰結をもたらしたことだ。というのも、対象というものはそれ自体から触発されてわれわれが作り出した素材をこねくり回すことで生み出されたものなので、こねくりまわさなければ対象と出会うことさえできない。つまりわれわれの関与がなければ何かと出会うことさえできない。これによって「現象界」に閉じ込められ「物自体界」へのアクセスが完全にシャットアウトされることになってしまったのだ。

 物自体といったようななんだかわからないものがあることは理解できる。しかし、本当に存在するところの世界、われわれが消え失せたあとも、生命体がすべて消え失せたあとに残る世界がどんな風な形をしているのか、……まったくわからないのだろうか。

  • われわれは走り回る犬を見て、犬が走り回っていると考えている。しかし実のところ、それは勝手な区切りにすぎないのかもしれない。犬はそこにはいないのかもしれない。ふつう、あなたはボールの上にのって揺れているゾウを見て、ボールゾウという新種だとは思わないだろう。あれはボール、あれはゾウなのだ。しかし実はあれはボールゾウなのかもしれない。
  •  言い方を変えよう。「物自体界」というわれわれを触発するなにかがあることは間違いない。しかしそれがどういう形をしているのかがわからない。たとえばそこにゾウがいるとしよう。だがあなたが勝手にゾウを区切っただけで、そんな風に切り離せる何かではまったくないのかもしれないではないか。そもそもあなたはあなたという外部との区切りをもっているつもりかもしれないが、それは幻想なのかもしれない。世界はモザイクであり、そのモザイクがうねうねとまったくの不規則に動いているだけなのだが、われわれがちょっと濃くなったところをゾウだとかペン立てだとか適当なことを言っているだけの可能性がある。だいたい、あなたはペットの次郎と朝に挨拶を交わすとき、「おはよう次郎」というかもしれないが、なぜ彼が次郎だと思うのだろう。われわれが勝手にそう思いこんでいるだけで、彼は次郎ではないのかもしれない。もともと次郎などいなかったのかもしれない。

実在論 v.s. 規約主義

 まず区別しておきたいのが「次郎」と「犬」である。次郎は〈個体〉であり犬は〈種〉である。なにが本当に実在するのかと問うにあたっては当然個体から話をはじめるだろうと思いきや、この本は〈種〉から話がはじまる。まずはその点を注意しておかなければならない。

  •  先ほども書いたが、次郎という個体は昨日の次郎と同じであるとは限らない。しかしわれわれはそれを次郎と呼ぶ。ここに〈種〉との連続性を見るのである。だから〈種〉を考察の最初におくのは、個体について考えていないからではなく、個体ー種という区別が連続的であるからなのだ。

 さて、規約主義者は「犬」というまとまりを人間がかってに拵えた取り決めにすぎないと主張する。これはワンワン鳴くあの生物をわれわれが犬と呼ぶのは、四月一日をエイプリールフールと呼ぶのと本質的には変わらないということだ。犬の半分と猫の半分を合わせたものを「ドキャット」という名前で呼ぼうが今と同じように「犬」「猫」と呼ぼうが、それは人間の勝手な都合であり、どちらが有用かどうかで決まる(ドキャットには、ゴールデンレトリバーは入るが柴犬は入らなかったりする)。

 実在論者が提示した包括的な自然種(実在する種)の理論はボイドが提唱したものであり、次の三つの特徴を持つ。

 

【自然種とは?】
  1.  性質群の恒常性 ある自然種に属する個体は、単一の性質ではなく、それに特徴的な性質の一群として出現する。しかもそうした性質は、いわば単なる寄せ集めとしてひとまとまりをなしているのではなく、外部に変化が生じてもそれに耐えうるような安定したひとまとまりをなしている。
  2.  帰納的一般化の成立 恒常的性質群の中に含まれる性質のそれぞれについては、帰納的一般化ないし、その個別的な適用としての因果的説明および予測が成立する。
  3.  カニズム その基礎となる一定の構造ないし基底的メカニズムが存在している。

実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

 

  まず第一には「犬」という種に属する個体の諸性質は、安定したひとまとまりをなしているということである。言い換えれば、自然種はまず恒常性のある性質群としてあらわれる。ちょっとした変化などにさらされても、簡単に変わることはない群である。しかしもちろん、この恒常性は厳格なものではなく、あくまでも一定の範囲で性質が一群となって出現すれば十分である。

 第一の条件が全体として安定したまとまりをなしているといっているのに対して、第二の条件は個々の性質について法則なり一般化が成立していると述べている。カラスはたいてい黒いし、トラは黄色地に黒い縞模様がある。水の場合であれば一気圧100℃で沸騰するのだ。

 第三の条件「メカニズム」。なぜ水が100℃で沸騰するのかなどの個々の性質、そしてその性質群が安定的であることはH2Oという微細構造によって説明される。もし水がそうした構造をもたなければそもそも水がそうした性質をもつものたちとしてあらわれてはこなかっただろう。このメカニズムという第三の条件が、自然種というものが「雑多な寄せ集め」ではなくなるきわめて重要な要件になっているのだ。このメカニズムもまた恒常的な性質のなかに組み入れられ、それによって中核的な性質とそこからの派生的な性質を区別するようになるだろう。

 「実在性」というものはこうした性質の強さや結びつきの緊密さである「理論的統一性」によって捉えられるのだ。逆にいえば、単なる規約によって定まる種はこのような特徴をもたないことになる。

【自然種の特徴、実在性】
  •  (規約種)たとえば一グラムのものであればすべて集める「一グラム種」というものを考えよう。これは明らかに第二の条件を満たす。なぜならそこに含まれるすべての個体には一グラムであるという法則が存在するからだ。しかしこの種に属する個体をいくら研究しようが、これ以外の性質は見つからないだろう。もちろん、一グラム種の個体はすべて質量をもつのだが、それは経験的に見出されるものではない。《つまり、一グラム種には、帰納的一般化を成立させるような性質が経験的探究を通じて続々と見出されていく、という可能性がないのである》(実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用 p60)。
  •  (規約種)たとえば「東京都民種」というものを考えよう。この種に属するすべての個体は住民票は東京都にある。しかしそこに属する個体にそれ以外の性質を見出すことはないだろう。もちろんこの種に属するすべての個体はホモ・サピエンスであるから、それにまつわる安定した性質群も、DNAといったメカニズムも見出されるに違いない。しかしそれは、「東京都民」を単位としているために成立していることではない。これはむしろ「ホモ・サピエンス」という自然種の性質やメカニズムが東京都民にも見られるというに過ぎない。つまり、これを固有の一単位としなければ説明できない要素があるわけではない。

 この二つの例からわかることは、規約種というものをいくら調べても無数の性質が見つかることはないし、他の実在的対象に寄生したものしか見つからないということである。実在的対象には無数の性質(もちろん可能な性質すべてから見ると限られている)が経験的探究によって見出されるのだ――――自然種と規約種の明確な区別

 そしてこの実在的対象の明確な区別こそが、「実在性」というものを「理論的統一性」を通してみることを許す。なにしろ、理論的統一性には、先に見たように程度の差があるものだからだ。たとえばトラは黄色地に黒の模様が入っているものだが、時には、真っ白のトラがいることもあるだろう。そのような例外を許し、実在性というものにも程度の差を認めるのが、理論的統一性である。

 モザイクのもやもやとした世界に戻ろう。スパッと切れてしまうような実在的対象もあれば、境界面があいまいでふわふわしたものもある。切り方は人によるので、その点では規約的であるが実在していることには変わりない。たとえばヒトの人差し指というものをどこ部分から指と呼ぶか1,2mmぐらいの違いがあったところで、指というものがあるには違いがないみたいなことである(要するにあいまいなのは境界線だけということ)。

 

【メカニズムについて】
  •  次に考えたいのは「目」の問題である。たとえば「ヒトの目」というものは自然種と認めてよいものと思われるが、しかし、一般にそれを「目」としてしまうことはよいのだろうか。犬にも目があるし、鳥にも目があるが、それらすべてに共通するメカニズムなどあるのだろうか。これについては次のように答えることができる。

たしかに鳥類、翼竜、コウモリの翼はメカニズムにある程度共通性はあるものの、完全に同じではない。つまり異なる内的構造がある。だが、外的構造:発生上の制約や進化に関連する条件まであわせて考えれば、翼の基底的メカニズムと呼びうるものが見つかるかもしれない。

スワンプマン

 スワンプマンとは、沼の朽木に雷が落ちたことからまったくの偶然により生じた哲学者デイヴィドソンの物理的複製のことである。つまり「こういう例を考えてみよう」というひとつの仮想である。スワンプマンはデイヴィドソンとまったく同じように振る舞うし、内的構造も完璧に同じである。しかし進化的・歴史的起源についてはもちろん共有していないため、起源論的にいえば異種である。

 デイヴィドソンホモ・サピエンス種である。しかしスワンプマンはどうだろうか?

 

 いま何が問題になっているのかを整理しよう。あなたは沼地から生まれたわけではない。これは間違いない。だがスワンプマンは沼地から生まれた。これははっきりいって研究の余地がある。その探求からいえば、スワンプマンをホモ・サピエンスだとみなして研究するのは無理がある。/一方で、スワンプマンは完璧にホモ・サピエンスと構造が同じである。「人間の体ってどうなってたっけ?」と来れば、スワンプマンを解剖しても同じ結果が出る。少なくとも生物学的には彼はホモ・サピエンスであり、よって、彼をホモ・サピエンス種だといってもよいと思われる。どういう風に発生したかはともかく、中身が同じなのだから。

 そうだとすると、探求領域によって自然種というものは「じゃあこういうことで」という取り決めが働いていることになる。つまり結局のところ、規約主義が正しかったというわけだ。

 

 だが探求領域によってなにを自然種だとみなすかが揺らぐことは、規約主義にとって有利に働くものではない。世界との因果が生じるありかたはひとつではないし、われわれはあらゆる角度からそれに接近することができる(つまり理論がどうであれ種自体が揺らぐことはない)。さらに、そのそれぞれの見方によって、「スワンプマンってホモ・サピエンスだよね」といえたり「違うよね」と言えたりする。当然のことである。

 理論によって階層構造が変わったとしても、それはわれわれが恣意的にどうにかできることではない。スワンプマンを今日からトカゲ種に入れよっか、といった妙なことはできない。

 

 

実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

  • 作者:植原 亮
  • 発売日: 2013/12/19
  • メディア: 単行本
 

 

にんじんと🥕 夏目漱石「三四郎」を読み進める 第一章(前) 女

第一章(前) 女

 舞台は明治41年、西暦1908年。主人公の小川三四郎は福岡県京都(ミヤコ)郡真崎村出身*1で、東京帝国大学に入学が決まり、上京する汽車の中にいる。三四郎はまず福岡から門司(モジ:北九州)に向かい、連絡船に乗って下関(シモノセキ)へ入りそこから汽車に乗った*2

神戸駅 - 兵庫駅 - 鷹取駅 - 須磨駅 - 塩屋仮停車場 - 垂水駅 - 舞子仮停車場 - 明石駅 - 大久保駅 - 土山駅 - 加古川駅 - 宝殿駅 - 曽根駅 - 御着駅 - 姫路駅 - 網干駅 - 竜野駅 - 那波駅 - 有年駅 - 上郡駅 - 三石駅 - 吉永駅 - 和気駅 - 万富駅 - 瀬戸駅 - 西大寺駅 - 岡山駅 - 庭瀬駅 - 倉敷駅 - 玉島駅 - 金神駅 - 鴨方駅 - 笠岡駅 - 大門駅 - 福山駅 - 松永駅 - 尾道駅 - 糸崎駅 - 三原駅 - 本郷駅 - 河内駅 - 白市駅 - 西条駅 - 八本松駅 - 瀬野駅 - 海田市駅 - 広島駅 - 横川駅 - 己斐駅 - 五日市駅 - 廿日市駅 - 宮島駅 - 玖波駅 - 大竹駅 - 岩国駅 - 藤生駅 - 由宇駅 - 神代駅 - 大畠駅 - 柳井津駅 - 田布施駅 - 岩田駅 - 島田駅 - 下松駅 - 徳山駅 - 福川駅 - 富海駅 - 三田尻駅 - 大道駅 - 小郡駅 - 嘉川駅 - 阿知須駅 - 船木駅 - 小野田駅 - 厚狭駅 - 埴生駅 - 小月駅 - 長府駅 - 一ノ宮駅 - 幡生駅 - 下関駅

三四郎の通りすぎた駅。下関から】

山陽鉄道 - Wikipedia

  神戸駅まで着いた三四郎は、そこから東海道本線へ移り(明治28年には既に山陽鉄道と直通になっている)。新橋駅を目指す。新橋駅は当時の東海道本線の始点であった。

 女が三四郎の乗る車室に入って来たのは京都駅である。彼女は少なくとも広島へ行ったのだが、京都で途中下車しており用を済ませてあらためて乗って来たのだ。この汽車が名古屋留まりでもうすぐ名古屋に着く予定なのだが、予定より四十分も遅れてしまう。もともとの到着時刻は午後9時30分。三四郎は女といっしょに宿屋をさがして名古屋の町をうろうろする。

 女と一晩過ごす。女は名古屋駅からは三重県四日市に向かう鉄道「関西線」に乗るから、東海道本線をさらに進む三四郎とはここでお別れである。

【にんじん読書】

 小説である以上、想像するしかないのだが三四郎は恐らく四列シートに座っている。とろんとした目をあけると目の前に座っていたじじいと女がなにか話している。このじいさんは京都ー名古屋間で乗って来た「田舎者」なのだが、すぐあとに名古屋まではじきだと話しているところを見ると、このじいさんは岐阜県あたりで列車に乗ったのではないか(いまと当時で東海道本線がどう変わったのかはわからないが)。

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 女は里へ帰るつもりをしている。というのも大連へ出稼ぎに行った夫からのたよりも仕送りもないからである。じいさんにそのエピソードを語り、じいさんが汽車をおりていったあと、女は車室から出て行った。三四郎は便所だろうと思う。彼は起きているあいだじゅう、女のほうをちらちら見ている。

 三四郎は窓際に座っていたのだろう。女はもともとちょっとずれて座っていたに違いない。彼女は席に帰ってくると、今度は正面に座ったものだから、三四郎は驚いた。それでじっと外なんか見てる。三四郎は弁当をむしゃむしゃ食っていたが、食べ終わったので窓から弁当を捨ててしまう。なんてやつだ。現代で考えるととんでもないことをしでかす三四郎の悪行が災いして、窓の外に首を出していた女の顔面に弁当が直撃してしまう。もしかすると汁がかかったとかそんなことだけかもしれない。「ごめんなさい」「いいえ」と会話がある。女は額をぬぐっている。

 にんじんなら間違いなく席を立つところだが、三四郎は座ったままでいる。これぐらいドシンと構えたいもんだ。女は何を思ったのか、弁当ぶつけられたにもかかわらず名古屋で三四郎と宿をともにしたいと言い出す。降車後、断り切れずなぁなぁで歩き出す三四郎。外はすっかり暗くなっている。でも三四郎からするとちょっと助かったかもしれない。彼は地方でエリートだったから東大まで行くのだが、地方を出てみればなんでもない田舎者のひとりにすぎない。あれだけ誇らしかった学生帽も頼りなく、女からどういう目でみられているかを気にしている。

 三四郎は女の身元など知らない。そんな女と宿屋ではいっしょの部屋にされてしまった。落ち着かず、日記も手につかない。風呂に入っていたら女も入ってきて背中を追流ししましょうかなどといってくる。ライトノベルならここらへんで挿絵がくるところだが、半ページでサービスシーンは終わる。まぁ女がどういう格好なのかはわからない。たぶん、三四郎はそちらを一切見なかったのだろう。

 ところでライトノベルとかアニメとかでラッキースケベに慣れているわれわれにとっては、女が風呂に入ってこようがなにしようが別に当たり前のイベントとしてスルーしてしまうのだが、一体全体この女は何を考えているのだろうか。どうも挙動がおかしい。会ったその日にきれいめの女と一夜をともにするってどういうことなんだ。で、この女は別れ際にとんでもないことをいう。「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」しかもにやりと笑うのだ。三四郎はわたわたと慌てながら、汽車が出発し、本をひっぱりだして、落ち着いてからようやく考え出す。

二十三年の弱点が一度に露見したような心持であった。親でもああ旨く言い中てるものではない。……

 三四郎が適当に開いていたベーコンの本はなんと23ページ。ところで三四郎はこのあと輝かしい自分の未来をいろいろ妄想して元気になると、本を閉じてしまう。三四郎は反省とかそういうことをしない。「あぁ~嫌だったわ~アァ~ン」とは思うのだが、すぐに別のことが頭に浮かぶ。読者はみな三四郎である。

 

学生と読む『三四郎』 (新潮選書)

学生と読む『三四郎』 (新潮選書)

  • 作者:石原 千秋
  • 発売日: 2006/03/16
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

*1:真崎村は架空の地名で、京都郡は実在した。漱石の弟子である小宮豊隆の故郷

*2:この鉄道は明治34年開通、明治39年山陽鉄道会社から鉄道国有法によって国有化された

にんじんと読む「無戸籍の日本人(井戸まさえ)」🥕

 どうして無戸籍になるのか。逆に、まずそもそもどうすれば戸籍を得られるのか。

 それは「出生届」である。病院か助産師がいつ生まれたかなどを書きこみ、父母についての情報を記入する。この提出は出生から14日以内と決まっている―――この出生届が出せていないと、無戸籍になる。

  •  戸籍がないと住民票は作れない。
  •  戸籍がないと健康保険証は作れない。
  •  戸籍がないと選挙権もない。
  •  戸籍がないと銀行口座も、携帯電話も使えない。パスポートも作れない。
  •  戸籍がないと身分を示すものが一切なく、就労は困難を極める。

 成人無戸籍者たちが身を寄せる場所としてありがちなのは、水商売、ラブホ、パチンコ業、風俗業など。無戸籍当事者は裁判や役所にアプローチする方法を知らないので、社会の片隅でひっそりと生きるほうを選ばざるを得ない。

 

 どうして無戸籍になるのか? それはには主に四つの理由がある。

  1.  「民法772条」の嫡出推定
  2.  親が出生届を出さない(戸籍制度反対、出産しても出生届を出すことに意識がのぼらない、意図的に登録を避ける)
  3.  親が無戸籍(記憶喪失、認知症、家出で戸籍に辿り着けないか放棄している)
  4.  皇族

無戸籍の日本人 (集英社文庫)

  民法772条によると、離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子だと推定される。それを否定するためにはどうしても元夫の介入が必要であるため、関わりたくない人は出生届が出せない。これは離婚後300日問題と呼ばれている。離婚後300日問題 - Wikipedia

 

 

無戸籍の日本人 (集英社文庫)

無戸籍の日本人 (集英社文庫)

 

 

にんじんと読む「実在論と知識の自然化(植原亮)」🥕 第二章

第二章 理論的問題

 前章で示した自然種の特徴づけは、それぞれの自然種ごとに程度差を許す。たとえばトラという生物種にあらわれる諸性質は、その種に属するすべての個体に常に出現するわけではない。性質のまとまりとしての安定性には強弱が見られるのである。実在性というのはメカニズムなどを含めた理論的統一性のことだといえるのだが、そうすると実在性にも強弱があることになる。

だが実在性に強弱があるというのはおかしいのではないか。問題があるのはあくまで理論のほうで、実在は実在としてはっきりあり、そこに程度差はないはずだ。

 まず理論的統一性が低いとしよう。ただし、ここで問題になっている統一性の低さは、経験的探究が十分に成熟した段階でのことである。もしも理論がまだまだ未熟のときに統一性が低いとはいっても、研究する余地がまだあるよねという話なだけで、実在性の話とは何の関係もない。まだ一丁目しか行ってないのに町のことがわからないといっているようなものだ。

 成熟した段階での理論的統一性の低さについて、やはりこちらとしては「実在性が低いんだね」と応答するだろう。つまり世界には実在性のいろいろある対象にあふれているわけだ。世界を切り分けるにあたって、スパッときれいにいくものもあれば、いかないものもある。あえて切り分けようとするとそのやり方に規約が入り込むかもしれないが、手の指をどこから指と呼ぶかみたいな話で、そこがどうであろうが指自体の実在に揺らぎはない。《いずれにせよ世界は、おおむね相互に独立している実在的対象によって区切られうるとしても、完全に原子論的な姿をしていると考えるべき理由はないのである》(実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用 p46)。

 だが反論者としてはそもそもスパッと切り分けられないものを実在などといっていいのかという話をしているのだから、これにどう答えればいいのか考えなければならないだろう。そのために「多型実現可能性」を備えた種について考察することにしよう。

 

【多型実現可能性】

 恒常的性質群が恣意的なグループ分けだという批判にこたえるのが「メカニズム」であった。メカニズムは表面的なものを飛び越えて個体同士のつながりを明らかにしてくれる。場合によっては表面的な類似性は乏しくても基底的なメカニズムの点から同じ種だと分類される場合もあるだろう。

 しかし時にはメカニズムが共通していないにも関わらず同種に分類されていたり、複数のメカニズムを基礎にひとつの種が実現されている場合がある。生物器官としての「翼」は物理的な実現の仕方は生物種によって異なり遺伝的な基礎もさまざまでありうる。にもかかわらず、それは「翼」である。また、人間・タコ・イカなどの「目」も相当違いがあるのにやはり「目」と呼ばれている。その他「痛み」、「貨幣」……。以上の事例はどれもメカニズムの異なるにも関わらず同種として分類されている。

 

  •  まずふつうに考えられるのはこうした種を自然種として扱わないことだろう。だがそれは典型的な規約種である「独身者」と、「貨幣」を一緒くたにすることもである。独身者に限って共通して観察される表面的性質は乏しいと思われるが、貨幣に限っては硬貨や紙幣など共通のものが見つかる見込みはある。また独身者については因果的説明があまり成立しないのに対して貨幣に対しては経済学上の多くの法則が成立する。そこで「中間種」という自然種と規約種のあいだの新しい区分を設けることが考えられる。これを中間種説と呼んでおこう。
  •  今度は自然種として扱うパターンがある。メカニズム(諸性質を説明する微細構造)の一致は見られないもののそれ以外の二条件は満たしているわけだから、一定の理論的統一性はあるとみなす。とはいえ、全部の条件を満たしていないのに自然種と言い切ってしまうとなるとさっきまでの話はなんだったのかということにもなる。それについては、自然種であることの必要十分条件のように三条件をみなしてはいけないと応じられる。自然種と規約種のあいだには明確な境界線などなく、連続的につながっているのだ。とはいえ、そうすると今度は実在しているとかしないとかいったところでなんの意味があるんだという話にもなってくる。よほど極端でなければある程度は実在していると言い張るんだからやはりさっきまでの話はなんだったんだということになる。
  •  そういうわけで次は「本当はメカニズムあるんじゃないか」説が出てくる。翼についても、たとえ内的構造として共通のものがないとしても発生上の制約や生態的条件などの外的要因を含めれば捉えられる可能性はある。こうして考え方を広げてみると、単に内的メカニズムがあるだけでなくよそ様と関連したメカニズムがあればあるほど強固な実在性をもつことだろうと思われる。

 

実在論の新展開

実在論の新展開

  • 作者:河野勝彦
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本