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現代論理学(Ⅰ)論証の構造

 論証とは、命題からなる列のうち、或る一つの命題がそれ以外の命題によって立証されるものあるいは少なくともそのための証拠を提供されるものとして意図されるようなものをいう。立証を意図される命題を帰結、それ以外の命題を前提と呼ぶ。命題とは平叙文で表現できるような意味や思考内容である。たとえば「一匹の犬がいる」と「There is a dog」は異なる文であるが同一の命題であり、この点で文は命題と区別される。命題は平叙文であるから「大学に行くべきだ。行きなさい」は論証ではない。また意図されるには、立証が実際に成功している必要がないという含意がある。たとえば「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。だからソクラテスも死ぬ」と「映画がまだ終わっていない。だから眠れない」とはいずれも論証に含まれる。さらに、前提のなかには他の前提の帰結として導かれ、それが別の帰結を導く前提となっているようなものがある(非基本的前提)。複合的な論証という。

 各前提を別々の行に並べその後に帰結を記し、帰結と非基本前提の直前に「∴」という記号がつけられる様式を論証の標準形式といい、分析に使われる。各命題に番号を振り、帰結あるいは非基本的前提それぞれを下に、それぞれへの立証を意図する前提を上に書き、さらに上から下への矢印を書き、ひとつの帰結あるいは非基本前提に対して同時に働く前提には「+」の記号をつけて横に並べたものを論証図式という。

(例)①今日は火曜日または水曜日である。しかし②今日が水曜日ということはあり得ない。なぜなら③あの医院は今朝開いており、④あの医院は水曜日はいつも閉まっているからである。したがって⑤今日は火曜日に違いない。

現代論理学 (1) (マグロウヒル大学演習)

 この論証の帰結は⑤である。これを支持しているのは①と②である。②はさらに③と④によって立証されており次のような論証図式が描ける。

(例)①ベンソン一家は在宅しているにちがいない。②玄関のドアが開いていて、③車が車庫の前にあり、④テレビもついているようだ。というのも⑤窓から画面の光が透けて見えるからだ。

現代論理学 (1) (マグロウヒル大学演習)

 この論証の帰結は①であり、②~④がそれぞれ独立に裏付けている。

 

 

 

 

「マグロウヒル大学演習 現代論理学(Ⅰ)」第二章

第二章

 論証の主要な目的はふつう、帰結がおそらく真であることor確実に真であることを証明することである。

  •  論証はその帰結が基本前提から必然的に導かれるか否かによって演繹的と帰納的のふたつのカテゴリーに分けられる(その記号体系の推論規則によって云々とするのが””現代的””であろうと思われる。必然的といわれても困るが、伝統的には、こう定義される。演繹的であると意図されてはいるがそうではないものを「非妥当」といって演繹的と区別するが、特に断らない限りは同義語として扱われる)。一群の前提を承認したうえでの帰結の確率を帰納的確率と呼ぶが、いわば演繹的とはこの確率が1のものである。ただし演繹的論証において前提がすべて真であることは求められていない。前提がすべて真であるようなものを「健全」という。また、帰納的確率が十分高いかどうかは目的に応じて変わる(人の命に関わるなら90%でも足りないだろう)。

 さて、論証の良し悪しはこの目的への貢献によって量られることとなるだろう。

  1.  前提がすべて真であること。その場合、少なくとも帰結の蓋然性が高いかどうか。
  2.  関連性があること 『創造主という考えは嫌いだ。だから神は存在しない』は前提と帰結に関連性がないし、おそらく帰納的確率も低い。『羊は白い。だから、あるものが猫ならばそれは猫である』は関連性がまったくないが正しい。『あなたはこのことを証明していない。だからこのことは間違いだ』は、おそらくはそうであろうといえるが、強い関連性を持たずよい論証ではない。
  3.  全体的証拠の必要性 帰納的論証は前提をつけ加えることによって帰納的確率は変化する。だから帰結と関連するすべての既知の証拠が前提に含まれていなければならない。もし既知の証拠が帰結を反証するようなものだとしたら証拠隠ぺいの誤謬と呼ばれる。

 

 

「数学的な宇宙」第一章:実在とは何か

第一章 実在とは何か

 「あまりにも直観に反している!」としても不思議ではない。もしも洞窟に住んでいた時代の女性が本気で物質の究極的なすがたをあまりにも真剣に考えていたら彼女は生き残れなかっただろうことからもわかるように、人間が進化によって獲得した直観というものは生き残るのに有益な物理的側面だけを理解できるようにしており、ある一定以上の技術を使うと、その直感は必ず裏切られるようにできているのだから。物理学における発見はミクロ的にもマクロ的にも確実に私たちの基本的な考えに修正を迫ってくる―――私たちの物理的世界は数学によって記述されるだけでなく、数学そのものである

 万物は究極的に何から出来上がっているのだろうか、という問いは多くの思想家たちを魅了してきた。その問いに本書は物理学で挑むが、最終的にその答えを提示して読者に信じ込ませることを目的としてはいない。私たちはまずこの問いが最近の宇宙スケールに及ぶ画期的発見によってどのように変容してきたかを見て、そこから一気に原子よりも小さな微視的な世界へ赴き物質の究極の構成要素がやはりある意味数学的であることをみよう。そして最後に『最も過激かつ異論が多いとみられる考え』———究極の実在は純粋に数学的である――を説明しよう。この考え方のもとでは偶然性や複雑性もっといえば時間変化さえも、本当は存在しない、ということになる。

 

 

「志向性の哲学」 第一章

第一章

 志向性について考えるうえで、対象は必ずその作用とセットで考えられる。つまり『これは対象ですか』と問うことに意味はなく、『これはあなたが欲しいと思っているビールですか』という仕方で作用との関係を問われる。

 さて、志向性を成立させているものはなんだろうか。たとえば『実母と実子の関係』は出産という出来事があるだろう。同じように「この作用の対象はこれだ」という関係は、何にもとづいているのだろうか。たとえば<視線を向ける>という行為は案としてうまくいかない。志向性の<向ける>というイメージは単なる比喩にすぎない。では<イメージ>ならどうか。だがそもそもそのイメージが対象のイメージになっているというのはなぜなのか。では<因果的影響>はどうだろう。知覚は光が網膜に達して云々といった経路で私たちにものを見せる。だが現実は非常に複雑な因果関係に満ちておりどれ対象を特定するその因果であるのかは説明を要する。また、まったく実在しない対象やいまだ実現したことがないものについては因果的影響では説明できないだろう。それに「丸い四角」はまったく矛盾した概念でイメージすらできないが、意味不明であるわけではない。

 

 

「マグロウヒル大学演習 現代論理学(Ⅰ)」第一章

第一章 論証の構造

 論証とは、言明からなる列のうち、一つの言明が帰結として意図され、それ以外の言明すなわち前提が、その帰結を立証するもの、あるいは少なくともそのための証拠を提供するものとして意図されているような言明列である。論証であるために、前提は帰結を支持することに実際に成功している必要はない。たとえば『映画がまだ終わっていないから寝られない』はひとつの論証であるが、良い論証とはいえない。

  •  複合的といわれる論証は、論証のなかのあるひとつの帰結が別の帰結を導くための前提になっている論証をいう。
  •  合流的といわれる論証は、同じ帰結を複数の推論が同時に裏付けているようなものである。
  •  不完全といわれる論証は、述べられていない仮定・帰結をもつものである。『私の友達だったら陰口なんて叩かないでしょ』は、『あなたは友達ではない』という帰結を示唆している。

 帰結はふつう論証の最後に現れるものだがいずれの場所に現れても構わない。ただ分析のために最初に各前提を別々の行に並べ、その後に帰結を記すのが普通である(標準形式)。「したがって」「だから」といった推論表示語によってその論証を同定する。もちろん論証のなかには推論表示語をまったくもたないものがある。各言明に番号を振り、推論表示語を四角で囲って見やすくし、帰結を示す矢印と前提が同時に働くことをしめす+の記号で図式化することもある(論証図式)。

 

 

「志向性の哲学」 序章

序章

 志向性とは、意味を把握することによって、我々の思考や想像、知覚といった経験が「何らかの特定の対象についての経験」として成立していることをいう(『現象学は外在主義から何を学べるか』)。これはわれわれと「対象」のかかわりである。

  • 当たり前のことを確認すれば、ソクラテスという哲学者に憧れるとき、私たちはソクラテスという文字列に憧れるわけではなく、ソクラテスという人物自体に憧れているのである。そのソクラテスという対象はショーペンハウアーでもハイデガーでもプラトンでもなく、ソクラテスである。だがソクラテスそのものとは、いったいなんなのだろうか。私たちはいかにしてそれを特定し、関係しているのだろう。これはひとつの謎である。
  • また、私たちが対象と関わる色々な仕方(知覚や想像、願望など)のことを「作用」というが、これら例示に類するような心的なはたらき(思い浮かべる欲する、憎む、信じる……)といったリストのすべてが志向性を持つかどうかは自明なことではない。たとえば漠然とした不安な感じはどうだろう?

 私たちはソクラテスそのものに憧れるが、ソクラテスのすべてを余さず知っている訳ではない。私たちは目の前のサイコロを知覚できるが、サイコロのすべてを知っている訳ではない。裏返せば同じ目ばかりのいかさまサイコロかもしれず、また裏返して同じところを見たら電子的な技術で別の目になっているより高度ないかさまサイコロかもしれない。つまり対象そのものを捉えるといってもそれについての経験が尽きることがない。

 ならばなおさら、対象そのものとは一体なんなのだろうか。「なにが対象についての経験」を成り立たせているのだろうか。なぜその対象についての経験であって、別の対象についての経験ではないのだろうか。