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「志向性の哲学」 序章

序章

 志向性とは、意味を把握することによって、我々の思考や想像、知覚といった経験が「何らかの特定の対象についての経験」として成立していることをいう(『現象学は外在主義から何を学べるか』)。これはわれわれと「対象」のかかわりである。

  • 当たり前のことを確認すれば、ソクラテスという哲学者に憧れるとき、私たちはソクラテスという文字列に憧れるわけではなく、ソクラテスという人物自体に憧れているのである。そのソクラテスという対象はショーペンハウアーでもハイデガーでもプラトンでもなく、ソクラテスである。だがソクラテスそのものとは、いったいなんなのだろうか。私たちはいかにしてそれを特定し、関係しているのだろう。これはひとつの謎である。
  • また、私たちが対象と関わる色々な仕方(知覚や想像、願望など)のことを「作用」というが、これら例示に類するような心的なはたらき(思い浮かべる欲する、憎む、信じる……)といったリストのすべてが志向性を持つかどうかは自明なことではない。たとえば漠然とした不安な感じはどうだろう?

 私たちはソクラテスそのものに憧れるが、ソクラテスのすべてを余さず知っている訳ではない。私たちは目の前のサイコロを知覚できるが、サイコロのすべてを知っている訳ではない。裏返せば同じ目ばかりのいかさまサイコロかもしれず、また裏返して同じところを見たら電子的な技術で別の目になっているより高度ないかさまサイコロかもしれない。つまり対象そのものを捉えるといってもそれについての経験が尽きることがない。

 ならばなおさら、対象そのものとは一体なんなのだろうか。「なにが対象についての経験」を成り立たせているのだろうか。なぜその対象についての経験であって、別の対象についての経験ではないのだろうか。