にんじんブログ

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にんじんと読む「文化とは何か、どこにあるのか」

第一章 文化はどう現れる?

 ある現象が文化的なものと見えるのはどんな時だろうか。

 たとえば単なるひとつの石に対して文化的なものは感じない。だが、もしそれが枯山水の庭に置かれた石だったとしたらどうだろう。つまり物としてはまったく同一でも、背景に庭が置かれた途端に自然石から文化になったことになる。すると、文化的な成分は物理的な対象そのものではなく、ある背景となる文脈と共に現れることが帰結する。富士山は単なる山だが、それは古くからの信仰の対象・芸術活動の重要な対象・日本のシンボルといった特別な文脈で置かれてきたものであり””世界文化遺産””といわれても不思議がない。一方、火星にある山をひとつ撮ってきてどうかと訊かれたら文化的なものではないだろう。

 文化的なものには、それが何の文化なのかという分類がありうる。日本文化だとかなんだとかやろうと思えばいくらでも続けることができるだろう。そしてどういう文脈で受け取るかによって同じ対象でも異なる文化として特徴づけられたりする。つまり、そこにどんな文化が見いだされるかは対象ではなく、主観の側が恣意的に決めているのだ。とはいえ、文脈が定まればその文脈の内部で何がより適切な文化なのかを議論することは可能である。

 

第二章 文化が現れる文脈

 なにかが文化的なものとして現れるのは文脈を背景にしてのことだった。ではどういう文脈が設定されたときに、その対象を文化として見るのだろうか。たとえば土器は土の塊ではなく文化的なものである。このような土器は同時に芸術的なものでもあるが、一方、雪の結晶は芸術品にも見えるほど美しい形をしているが文化的ではない。つまり、文化はなんらかの主体が意図的に生み出すものであるということである。

 では意図という文脈が置かれればそれでよいのかといえば、そうではない。単に意図的な行動をするとか、意図的な行動によって産みだされたとか、それだけでは不十分なのだ。そこには自分や他者に向けた「表現」といった性質をもった行為が絡んでくるように思われる。たとえばブランドや服装といったものは他者に見られることを前提にして、往々にして見せることを目的としている。

 だがこれだけでもいけない。たとえばチンパンジーは明らかに<見せる>ための行動をとることができる。自分の力を誇示するために大きな音を立てたり、枝を引きずって走り回ったりする行動である。とはいえ、このことは主体の直接的働きを離れて、たとえばそこで用いられる枝が何かの表現として提示され相手に意味を持つとは考えにくい。すると、「表現」という行為には、対象の価値づけとか扱いについての規範がからんでいることがわかる。ブランド品を持つことで自分のセンスや社会的地位を示そうとする。その価値観を共有する他者がおり、そういう人々にとってはそれを持てないことは引け目になる。

 文化的対象は自他に対する表現として現れ、それは価値づけられておりしかもその価値づけは他者と共有されている。そしてその価値づけに応じたサンクションが働いてそこに規範性が生み出されている。私たちはチンパンジーが木箱を使ってバナナをとるシーンを想像しながら<あれが社会的ステータスになることはあるだろうか><枝を持っていなければ社会集団から排除されるようなことがあるだろうか>といったことを問い、チンパンジーの文化について考えることができるだろう。

 文化は共有された価値や規範性といった性格をもって、集団というものと結びついていることが確認されてきた。土器にもいろいろあるが並べてみると<縄文土器>とか<弥生土器>といった言い方をしたくなることがある。ただ当たり前のように縄文土器弥生土器も一般名であり、それぞれたった一個しかないわけではないし、色々な時期にいろいろな遺跡から出土している。私たちはその壷の背後にそれを生み出す人や集団、暮しをなんとなく感じ取っている。それは独特の形や模様などが時代ごとの「規範性」の移り行きによってその作成が方向づけられているためであろうと思われる。

 

 さて、妙な動きをやっている男がいたとしよう。それはたしかに妙であり、<おかしいやつだ>と思い通り過ぎる。するとすぐに同じことをやっている別の人間が現れたとする。今度は数人でやっている。あれはなんなのだろう。疑問に思って知り合いにそのことを話すと、なんとそれは中国伝統の健康体操であった……。

 このようなことはありうる。ここでは奇妙な行為がいきなり中国の伝統文化になってしまっている。最初はおかしいと思っていた男の動きも、他にやっている人がいることで、彼らをつなぐ「共同性」を予感していた。

 ある対象が文化として立ち現れるのは意図・表現・価値・規範性といった文脈のためであり、実は個別の対象の背後には集団があることがわかってきた。しかもその集団とは他の集団とは異なる独自の共同性をもつようなものなのだ。文化現象を直接に生みだしているのは個人だが、実際には個人を介して集団がそれを生み出しているのだという理解の仕方も可能になるだろう。果たしてこのような「文化集団」とはなんなのだろうか?

 

第三章 文化集団の虚構性

 背景に控える文化集団の境界はきわめてあいまいであり、「文化圏」「時間」「成員」のどれもがはっきりしない。たとえば私たちがなにかを日本文化だとか、関西の文化だとかいうとき、どのような特徴によってそれを捉えているのだろうか。

 しかし、文化集団にはそのような基準さえ見出しがたい。納豆や沢庵は日本文化的な感じがするが納豆を食べない人たちもいる。全員でなくても<多数>ならばよいのだと考えても、たとえば能という伝統芸能をまともに見たことのある人は少ないだろう。どういうような基準でこれが日本文化だと呼ぶのかはきわめて難しい。

 つまり文化集団というのは外延的にも内包的にも定義できないものだということがわかる。すると、文化集団というのは単なる虚構にすぎないのだろうか。

第四章 文化集団の実体性

 道路の中央分離帯は、反対車線へ侵入しないように指示するものである。また、道路の中央線はそこを踏み越えないように指示する。が、その気になれば侵入可能な状態である。この線が意味することは日本とアメリカでは通行が左右逆なので、そういう約束事が恣意的であり、実体を伴わない虚構のものといえるだろう。だがそれを無視すると交通事故が起きる。

 このような仕組みは、一種のゲームとして説明することもできる。ゲームはあるルールに基づいて実践者がプレイすることで成り立つ。ルールは恣意的なもので、合意すれば変更できるし、そうでなければならない理由もない。しかし、もしそこに社会的実践を実現したければルールに従うほかはない。違反者には何らかの制裁が与えられ、参加者には順法の感覚が成立し、内的・外的サンクションによって行為は方向づけられる。すると、ルールは参加者にとって恣意性をもたない、自らを支配する絶対的存在として客観性をもった様相で立ち現れてくるのである。

 このような構図のなかで虚構が実体化することを、「機能的実体化」と呼ぶ。虚構である文化や文化集団の仕組みもまさにこの機能的実体化にある。

第五章 文化集団の立ち現れ

 対象に対して異質なものを見出した際に、人はその背後に「わたしたち」とは異なる「あなたたち」という異なる世界を感じ取る。しかしその「あなたたち」はその範囲が特定された具体的な集団ではないのだった。慣習は集団的な実践活動を可能にする力を持っていて、そこにズレがあると相互作用がうまくいかなくなる。違和感があれば調整が必要となり、調整の過程で意識され、文化集団が実体として生み出されてくる。たとえば<それが日本文化(日本人)><それが韓国文化(韓国人)>というように。

 外国人は私たち日本人からすると考えられないような行動をとる。

 調整の仕方について整理してみよう。まずその逸脱行動がたとえば日本語の習得が不十分だったというときに起こる場合(相手個人に原因がある場合)、日本語を教えるという対処の仕方がある。ところがその逸脱行動が実はその人にとってものすごく常識的で、つまり彼を含むもう少し大きな集団の共通属性なのだとすると、ふたつの対応がうまれてくるだろう。相手集団を非常識な連中だと思うか、異質な集団だと思うかという対応の違いが。

  1.  逸脱者個人の逸脱行動 積極的対処:常識を教えてあげる/消極的対処:排除する
  2.  非常識集団の逸脱行動 ””逸脱者たち””を従わせる
  3.  異質な集団の常識的行動 規範間の調整模索/困難な場合は棲み分け。無視。

 学校内のいじめも「仲間」関係の構造化課題に対して発生する現象と見ることができる。

 文化や文化集団は、他者との関係を取り結ぶときその行為構造を成り立たせる一要素としてそのつど立ち現れる。個はそのような構造のんかで、社会的に行為することが可能になり、文化や文化集団が機能的に実体化する。人は社会的に生きるために虚構を実体化し続け、それなしには社会は成り立たない。

 文化集団は固定的実体ではなく、共に生きるためのそのつどの工夫を安定化させるために事後的にそのつど生成される。文化集団を機能化させるためにこそ、儀式というものがくり返し行われるのだ。

 

第六章 拡張された媒介構造=EMS

 主体同士が相互作用するときいろいろなパターンがある

  1.  S1 →← S2
  2.  S1 → O ← S2 (ex 犬が肉を取り合う)
  3.  S -(O1)→ O2 (ex 棒でバナナをとる)
  4.  S1 -(O)→ S2 (ex 将棋で駒をさす)
  5.  S1 →(S2)→ O (ex 八百屋で野菜をすすめられる)
  6.  S1 ー(O1)→ S2 -(O2)→ S1(ex 八百屋で野菜について話し合う)

 このように相互作用される対象は単なる物体、単なる音声ではなく何らかの意味を担っている。贈り物は単なる物体ではなく、感謝の気持ちを表すものだったり、わいろだったりするかもしれない。それは商品であり、自分は客で、相手は店主かもしれない。対象のやりとりに際しては、お互いそこに込められた意味が共有されている必要があり、扱い方もお互いに了解されていなければならない。そこで対象を媒介した相互作用に制約を与え安定化させる要素を先ほどの相互作用を理解し直す必要がある。これを人間の社会的相互作用のもっとも基本的な構造として考えられるもので、EMS構造と呼ばれる。

 「規範的媒介項」の働きをするものとしては、文法、意味のシステム、ルール、約束事、慣習、道徳、法、倫理、美意識などを想定できる。子どもはおもちゃをめぐって他の子どもとトラブルを起こすが、そのうち保育士さんなどの大人の目を気にするようになり、行動を調整するようになってくる。このような社会参照行動を経て、構造が発生してくると考えられる。規範的媒介項の内面化が済むと、集団的な活動を自律的な活動を行うことができるようになる(2,3歳)。当然ここで大人の文化が反映されてくる。

 人と人との相互作用は規範的媒介項を生成し、安定性を獲得し、トラブルに対しては調整が働いて安定性を回復させる。主体の変化や状況の変化に応じてそれは揺れ動き、常に調整をしており、社会的相互作用を可能にしていく。これが「文化によって作られる個人」と「個人によって変化する文化」というある意味矛盾した、動的な関係が成り立つ基本的な場になっている。

 

第七章 EMSと集団の実体化

 EMSは人間がそのつどの人びとの関係を動的に調整する形としてあらわれる。その構造の頂点に位置する規範的媒介項の性質について、それはしぶしぶ従うことも含めた「合意」によって成り立っていること、そして規範的媒介項はふつうズレているもので一致することのほうが例外的であるということ、相手に無理にそれを押し付けることで調整がなされることもあるということである。

 男の子と女の子が争っているケースで、女の子が絶対こうしたほうがいいといって男の子を従わせる場合を考えよう。二人はそれぞれ違う規範的媒介項を立ち上げていたが、それをもとに対立が生じていた。そこで女の子が男の子を支配して相手の行動を逸脱行動として処理し、自分の規範的媒介項を認めさせる。ただし、その女の子も万能の独裁者になれるわけではなく、彼女もまたそれに従わなければならない。もしころころと話が変われば安定的な相互作用は不可能になる。

 規範的媒介項は主体間での相互作用を安定させるために、主体がそのつど立ちあげてゆくものである。ところがそれが安定性を持ち始めると、今度は主体のほうがそれに従わなければならなくなってくるという主客の反転が起きる。これが実体化である。