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にんじんと読む「入門講義ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』」🥕 途中まで

論考とはなんだったのか

 ウィトゲンシュタインは「前期」と「後期」に大きく分けられるが、そこには連続性がある。彼は哲学を治療として捉え、哲学的問題を問題としてしまうのは言語に対する誤解のせいだと診断する。哲学者たちはなにか意味のある議論をしているわけではなく、問題も答えもそもそもがナンセンスだというわけだ。

 論考という「哲学の書物」をどう理解するかについて、いろいろ解釈がされてきた。論考はいきなり、世界は成立していることがらの総体である、と始まるように形而上学的である。それは彼自身がナンセンスだと断じる対象なのだ。そこでたとえばピーター・ハッカーは『論考』が最後に「私の諸命題を葬り去る」ように書いていることから、こう結論づける。『論考』自身形而上学であり、捨て去る対象であり、最終的に放棄されることでこそ意味を持つのだと。放棄はされるが、ウィトゲンシュタインが生みだしたナンセンスは私たちに言語や世界についての本質に気づかせてくれるのだと。

 しかしそうするとナンセンスのなかにも啓発的なものと啓発的でないものの区別があることになってしまう。そこでコーラ・ダイアモンドやジェームズ・コナントは、『論考』というのはただのナンセンスで、別に啓発的なものでは特にないと主張した。『論考』はただのナンセンスであり、それを認めなければならないのだと。その代わり、この本はナンセンスを口にすることによって、これを読む者を反省させる、という。要するに反面教師みたいなもので、ウィトゲンシュタインの身をもってそれを演じていることになる。だがこう解釈すると、序文において「本書に現わされた思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる」という言葉が理解できなくなってしまう。

 そこで著者が提起するのは「ガイド」役としての論考である

 ウィトゲンシュタインが問題としているのは、私たちがどうしてもナンセンスな哲学的問題を口にしてしまうことだ。本来ならば、そういうことを口にする奴がいるたびにそいつに注意をしてやるのが一番だ。それこそが””厳格に正しい哲学の方法””なのだ(6.53)。彼は論考において「命題の一般形式」を導き出し、この正しい哲学の方法を実践する道具を開発した………だからこそ『問題はその本質において最終的に解決された』という言葉に繋がる。

 論考は記号言語の研究だった。

 この解釈の難点は明らかに、論考が著者自身によって最後にナンセンスだと放棄される点である。しかしこの点は、この書物のナンセンスの扱われ方に注意すれば問題ない。啓発や反面教師の解釈が間違っていたのは、そもそも論考のなかにある「ナンセンス」には””あのほらけ””のようなまったくわけのわからないだけのものもあれば、ガイドとして機能するものもあるということだ。たとえば因果法則や倫理的言明が後者の例になる。因果法則は「ものごとには原因があるよ」というが、ウィトゲンシュタインの分析ではこれは命題の一般形式をもって記述できないナンセンスなものである。しかしそれは私たちを法則的説明へ促すガイドとなる。同様に、論考において書き綴られてきたことは、彼自身が生み出した命題の一般形式をもって記述できない。だがそれは単なるナンセンスではなく、記号言語へと読者をガイドする役割を持っている。

 

 誤解してはならないのは、ウィトゲンシュタインが「最強の記号言語を開発!」したと言っているわけではないということだ。論考自体は特定の記号言語を与えている訳ではなく、その作成は私たちに委ねられている。たとえば論考内において「対象」「名」という言葉が一体何を指し示すものなのか問題となることがある。対象というのは単純で存在し続けるものであり、名は必ず対象を表すもの………なのだが、もしウィトゲンシュタインという人物がケンブリッジのお偉いさんが捏造した人物なのだとすると常識的に対象とされている彼でさえ対象でなくなってしまう。

 ふつうのコミュニケーションにおいて、ウィトゲンシュタインはもちろん対象として名として扱われる。しかしひとたび「そいつって本当にいたんすか?」と言うやつが現れるやいなや、そういう取り扱いはできなくなる。この二つの対話場面における記号言語はウィトゲンシュタインという人物の分だけ異なったものになるだろう。つまり対話のたびに記号言語の作成に促される。

 

 

 

そこで彼は記号言語を精密に研究することで命題の一般形式を見つけ出すことにした。

 

論考の中身①

 論考の記述は独断的である。著者の解釈によると、冒頭の形而上学的記述は「語り、考えること」に伴う常識の明示化が目的になっている。前理論的な考えをあぶりだし、

  •  世界は成立していることがらの総体である。
  •  世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

 世界はモノの寄せ集めではない。なにしろモノを単に集めてきただけではそこに無数の組み合わせができてしまい、いま目の前にある世界が出来上がらないからだ。

 世界が事実の総体であることがわかると、それに反する事態は成立していないこともわかる。事態というのはものの結合であり、私たちはこれによって世界の可能なあり方について考えることができる。成立している事態が事実である。つまり事態とは「成立/不成立」が問題となるようなものである。

 ものとものとの組み合わせが無数にある、といっても「ポチは営業中だ」などと言うことはできない。対象は事態に登場する可能性込みで存在する。この可能性を「対象の形式」と呼ぶ。さらにウィトゲンシュタインは対象が単純でありそれ以上分解できず、それが存在しないというようなことが考えられないものであることを要請する。

 

 次に、彼は「思考」に踏みだす。像である。像は模型であるといわれる。たとえば部屋の模様替えをするときに、本当にタンスを動かすよりも紙切れにタンスと書いたほうがよいだろう。紙切れに書かれるタンスや机、観葉植物などは対象の代理をしている。しかし〈タンス、机、観葉植物〉というリストだけではもちろん駄目で、像が像として成立するためには対象との対応だけでなく要素間の関係がきちんと描写されたものでないといけない。つまりタンス、机、観葉植物が模様替えであるためにはその空間的関係が現実の空間的関係と共通していないといけない。たとえばタンスが上側にあるというのは現実の部屋の北側にあるということだ。―――このような現実と像が共通してもつ関係の可能性のことを写像形式という。

  • 〈北海道、滋賀、沖縄〉の位置関係といって滋賀をてっぺんに持ってきたらそれは誤っている。しかしそのような像はつくりうる。像は正誤関係ないのである。像の真偽を知るためには、現実を見てみなければならない。
  •  像は自身の写像形式を写し取れない。つまり「位置関係」のようなものは要素に現れない。「 下 ↑ 上 」という像は上と下がたてに並んでいるところを表すとしよう。しかしこれがもし「上 ↑ 下」なら、下のほうが上側に来てしまう。つまり位置関係が要素に入っていないからといって、要素に組み込んでみても、結局””こういう風に並んでいるから””という仕方での提示が不可欠になる。

 事実の論理像が思考である。論理像とは写像形式が論理形式である像だ。地図は二次元的な位置関係にかかわる写像形式、楽譜は音の高低や時間的進行などを表す。このように特定の写像形式は像によりけりなのだが、『論理形式』だけは像が像である以上必ず持っていなければならない。たとえば地図においても、市役所が駅の北にありかつ北にないようなものを書くことはできない。楽譜においても、ドの次がミでありかつミでないようなものを書くことはできない。

 すべての像は論理像なのだから、思考とはなんらかの事態についての像を作ることである。