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エピクロス快楽主義

 エピクロスによれば快楽こそが目的(テロス)である(エピクロス: 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1) メノイケウス宛の手紙)。

 ただしここでいう「快楽」とは、享楽のことではなく、身体において苦痛のないことと魂において動揺のないことにほかならない、とされる。このような快楽は「静的快楽」と呼ばれる。キュレネ派の人々はこれを中間状態という語で呼んでおり、エピクロスはこれを快楽の名で呼びなおしたことになる。このことにより彼が強調したかったことは、苦痛と快楽のあいだの””中間””などない、という点だった。苦痛がないということそのものが、中間どころか、それ自体快楽と呼んでよいものなのだ。なぜか。苦痛から解放されることは不快な要素からの自由、そしてその不在であり、たいへんに悦ばしいものであり、まさに快楽であるからだ(①苦痛から解放されているとき我々は悦ぶ、②我々が悦ぶものはすべて快楽である、ゆえに③苦痛のないことは快楽である)。

 ところがそうすると、その悦び自体はここでは快楽ではないことになる。なぜならもし快楽であるとすれば、それがまた新たな悦びを生むことになり、無限に喜びを生み続けることになるからである。すなわち「エピクロスにとって快楽とは、悦びの志向的対象」(エピクロスの快楽論 | CiNii Research)である。このことが含意するのは「快楽は、たとえそれが(精神が何かそれ以外のものへと集中しているために)楽しまれてはいなくても、やはり快楽なのである」(エピクロスの快楽論)。静的快楽はそれを考えることができる人にとってのみ、反省することによってのみ悦びの対象となる。

 これに対して私たちがよく知り、感じる「動的快楽」――味覚による快楽、性愛による快楽、聴覚による快楽、形姿によって視覚に起こる運動など――は、感覚をもたらす。エピクロス自身はこれについて、「動的快楽を遠ざけるなら何を善と考えてよいかわからない」と言っているが、これは単に直接的によく感じられるのが動的快楽だけだと述べているものと思われる。『主要教説』によれば、食事することによる動的快楽は、口になんの苦痛も経験していないがゆえに静的快楽の状態にあるために起こる、とされる。つまりは静的快楽は動的快楽に先行するという関係にあると解釈することができるだろう。