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にんじんと読む論文「The Role of Experience in Empirical Justification: Response to Nikolai Ruppert, Riske Schlu¨ ter, and Ansgar Seide(Susan Haack)」

 整合的基礎づけ主義という立場は、これまでの認識論におけるよくある立場とは異なるものだ。そうでないという人が持つ誤解はとても幅広い。整合的基礎づけ主義が経験に正当化の役割をみなすとそれだけの理由で「これは基礎づけ主義の一種だ」と結論したものだ。もしかすると自分の理論が重要視され反駁の声が盛んになってきたことに喜ぶべきだったのかもしれないが、慎重に他の立場との違いを説明してきたつもりだったので、これがどの立場なのかという比較的重要でない問題に終始しこの理論が正しい方向を向いているのかといった問題に関心が向けられなかったのは残念なことだと思う。

 いい機会だから改めて言っておこう。

 『整合的基礎づけ主義は、基礎づけ主義の一形態ではない』と。

 

 整合的基礎づけ主義は、整合主義と基礎づけ主義の中間にある。経験主義的基礎づけ主義と似て経験による正当化を認める。しかも派生的信念によっても正当化されることを認める。また整合主義と同様に信念間の相互扶助を認めはするけれども、そこに信念以外の要素にも役割を認めている。整合的基礎づけ主義は基礎づけ主義が経験や派生的信念によって正当化されることを認めるし、派生的信念同士の相互依存も認めるため、ここに「基礎的」「派生的」といった区別がないことは明らかで、それはつまり基礎づけ主義を放棄することになっている。

 そうだというのになぜこの立場が基礎づけ主義の一形態だと言われなければならないのだろう。どうやら彼らはこう考えているようだ。すなわち、経験というものによる信念の正当化を認めているので、これが「基礎」であると。基礎的なものさえ特定すればそれから導かれるものは派生的と呼ばれるので、この立場は結局基礎づけ主義なのだ、と……。彼らは重要なポイントを見逃している。基礎づけ主義は信念を二つのクラスに分けることを意図しており、しかも、基礎づけ整合主義による正当化は『これからこれが導かれる』というようなものではなく証拠の編み目によるものだということを。

 もちろんある信念からある信念へ推論されることはありえる。A→Bである、と言う風に。しかしBという信念の正当化はAだけが原因ではない。もし派生的であることと推論されていることを同一視するならばそれは認識論というより心理学になってしまうだろう。整合的基礎づけ主義も経験主義的な基礎づけ主義も経験主義のひとつのバリエーションではあるが、一緒にされては困る。

 さて、経験が正当化にどのように絡むのかについては、たしかに完全に説明できたわけではない。しかし進歩はあった。出発点としたのはIrrelevance of Causation argumentであり、すなわち、経験と信念の関係は因果的であり、正当化は論理的な概念であるため、経験は経験的な信念の正当化には関与しない、というものだ。だが経験が経験的な信念の正当化に関与しないというのはおかしいと思う。すなわち、前提のうちどちらかが間違っているということだ。多くの人は第一の前提が間違っていると考え、経験が命題的な性質を持っていると主張したが、ここでは第二の前提が間違っていると考える。つまり、正当化というものは純粋に論理的というより一部因果的なものだということだ。

 そこで、信念の因果的側面と論理的な側面をS-belief(信じること)とC-belief(信じられた何か)に区別し、この橋渡しを行うことにしたのだった。このそれぞれの根拠がS-evidenceとC-evidenceと言い表され、C-evidenceには経験的C-evidenceという部分がありそれは被験者自身の経験的な状態から来るものでで、被験者がそのような状態にあるという命題から成り立つと定めた(犬のようなものが見えている知覚状態→「犬のようなものが見える」という命題)。仮定上、経験的C-evidenceは真である。このアイデアは『Defensieve Science』においては言語学習の導入によってより具体的に説明されるようになった。つまり人は何かを教わるときに観察的にも、理論的にも、それを説明されるのだということである。経験的C-evidenceは因果的にも論理的にも正当化に関わる。ただし、これはたとえば「犬」という語を学んだときのことをすっかり覚えていなければならないとか、その状態にあることを認識して犬であることを推論しなければならないとか、そういったことを言っているのではない。外在主義と内在主義という区別は役に立たない。なぜならまっとうな認識論的正当化には両方の要素がなければならないからだ。

 

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