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にんじんと読む論文「Problems at the Basis of Susan Haack’s Foundherentism(Nikolai Ruppert, Riske Schlu¨ ter, and Ansgar Seide)」

 Susan Haackの基礎づけ整合主義が、当初意図されたとおりに、基礎づけ主義と整合主義の問題点を克服したものであるのか、また、BounjourやPeter Tramelが指摘したように単に弱い意味での基礎づけ主義にすぎないのではないかということを議論する。

基礎づけ整合主義は基礎づけ主義か?

 Haackが自らの立場を基礎づけ主義に分類することを拒むのは、「基礎的信念」「派生的信念」という区別に彼女自身強い疑義があり、これこそが基礎づけ主義の本質であると彼女が考えているからである。

 彼女は基礎づけ主義を次のように特徴づける。:

(FD1) Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified independently
of the support of any other belief;
and:
(FD2) All other justified beliefs are derived; a derived belief is justified via the
support, direct or indirect, of a basic belief or beliefs.

 すなわち、(1)いくらかの正当化された信念は基礎的である。その意味は、他の信念からの支持を受けずに独立に正当化されるということである。(2)その他の正当化された信念は派生的である。その意味は、直接的あるいは間接的に、単数あるいは複数の基礎的信念によって正当化されるということである。

 Haackの立場は、自身が特徴づけたとおりに、まさに基礎づけ主義である。

 彼女は経験という非信念的な要素が正当化に関与すると認めている。そうすると基礎的な信念のうちこれによって正当化されるものは、他の信念からは正当化を受けていないので基礎的信念だということになる。

 次に派生的信念だが、この派生的信念というのは基礎的信念によって正当化されるものだが、純粋に信念だけによって正当化されるという意味では派生的信念というものはない。そこには必ずどこかの本で読んだことがあるといったような経験的な証拠が絡んでいるからである。Haackとしてはこれによって基礎的と派生的の区別があいまいになると考えているようだが、経験の支持を一部受けるとしても、別に基礎的/派生的を捨てる理由にはなっていない。

 彼女は信念の一部分を特権化することを基礎づけ主義とみなしているが、それよりも、単純に特権化すること自体が基礎づけ主義であるというべきだろう。Haackは経験こそそういったものだと考えており、その意味でまさに彼女のいう「一方向性」を維持している(基礎→派生)。つまり、Haackの立場は基礎づけ主義の一形態である。というのも、信念は経験によって正当化されるが、経験は信念によっては正当化されないからである。つまり正当化の経緯はすべて、経験に帰着する。

 基礎づけ整合主義は経験主義的な基礎づけ主義である。

経験による正当化

 経験が正当化を与えるというのは、単純には受け入れることができない。なぜなら、正当化というものは論理的な過程であって、信念と違って命題的ではない経験は単なる「因果関係」に属する対象であって、「論理的関係」であるところの正当化とは相容れないからである。だから、経験というものを命題に引き上げる、いわば拡張子の変更のような一種の操作が必要である。Haackもこの点について熟慮しており、そのうえで理論を作り上げた。

 Haackが提案するのは、信念の二重側面である。信じるということには、何かを信じているという状態と、信じられた何かという二側面がある。前者をS-belief、後者をC-beliefという。C-beliefはS-beliefの内容である。状態については因果関係の世界にあり、他の信念や経験によって正当化される。たとえば「目の前に犬がいると信じている」ことは、犬のようなものが目の前に見えているという経験や自分の眼が正常に働いているという信念によってある程度正当化される。一方、信念の内容は命題的な構造を持ち、他の命題との推論的な関係にある。ここで正当化されたS-beliefが、C-beliefの正当化に関与するという理屈になる。

 S-beliefを正当化するものはS-reasonと呼ばれる。S-beliefはS-reasonによって因果的に正当化されている。pという命題に対するC-reason(Sではない)は、pという命題のS-beliefを支持するS-reasonの内容を指す。たとえば「誰かがフロリダに住んでいると信じている」というS-beliefは「Haackがフロリダに住んでいると信じている」というS-beliefが原因になっているとしよう。このとき、もうひとつの側面である「誰かがフロリダに住んでいる」というC-beliefは「Haackがフロリダに住んでいる」というC-reasonによって支持される。・・・

 

 さて、C-beliefを正当化するのは(1)C-reasonとの推論的関係、(2)因果的に指示されるS-reasonと、経験的S-evidenceに対応する経験的C-evidenceであるとハークはいう。ただ、ここで問題としたいのは彼女の言う経験的C-evidenceである。

 たとえばピーターが自分の感覚にもとづいて「目の前に木がある」と信じている場合を考えよう。Haackによれば、その信念を正当化するための経験的なC-evidenceは、感覚そのものの内容ではなく、「ピーターは目の前に木を見るという感覚的な状態にある」という言明文である。この文に関しては正当化の問題は生じないとHaackがいうのは、真である感覚的な経験の記述だからでそれだけが経験的なC-evidenceとして数えられるからである。

 だが、この経験的なC-evidenceは主体にとって利用可能なものなのだろうか。彼は推論においてそれを用いるのか。それとも必ずしも利用可能ではなく主体がそれとは認識せずに信念の正当化として働くのか。Haackが支持するのは後者だが、しかしこれは彼女の立場に「外在主義」を持ち込むことになる。ところはHaackは外在主義に否定的なのである。彼女は「証拠」が主体によって認識されていないのは直観に反するといって外在主義を批判している。ただ一方で完全な内在主義者ではなく、つまり、S-beliefの世界では内在的に、C-beliefにおいては外在的に、正当化する―――しかしもしそうだとすると、私たちにはもはや経験が信念を正当化するプロセスを追えなくなってしまう。

新たな定義

 Haackは『Defending Science—within Reason: Between Scientism and Cynicism』において、経験的C-evidenceを主体がある経験状態にあることを述べた命題で定義することを取りやめる。新たに強調するのが、知覚的相互作用と言語学習である。とはいえ、これはあまり十分な説明とはいえない。

 たとえば或る日に「これは水だ」と教えてもらった人が、二日目に教師なしでその液体に出くわしたときに「これは水だ」と信じるのはなぜだろうか。それは「これは水だ」ということと自分の経験を結び付けただけでなく、この経験を記憶しており、二日目には昨日との類似点に気づかなければならない。このような認知プロセスのいったいどれが、正当化されていなければならないのだろうか。

 また記憶されている信念の正当化はどうやって行われるのだろうか。Haackは以前までの定義では知覚の「痕跡」という言い方で経験を広く解していたが、言語学習においてはこれを正当化する方法は見当たらない。

 しかも、ハークが好んで用いるクロスワードパズルの例は、この定義においてはもはや通用しない。経験的C-evidence=パズルのヒントは今や非概念的なものになってしまった。パズルというたとえ話をどうやって維持するのだろう。

結論

  •  基礎づけ整合主義は、Haack自身の特徴づけに照らすと彼女の意図に反して、基礎づけ主義となる。
  •  非信念的な要素=経験による正当化についてHaackは十分に説明できていない。

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