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にんじんと読む「哲学的思考(西研)」🥕

 第五章まで。

 

 

序章 現代思想の〈真理〉批判をめぐって

 〈真理〉、つまり客観的真理(①認識関心以前の客観的な事態の存在、②それは言語で言い現わすことができる)を批判する戦略はいくつかある。

  1.  言語以前・認識関心以前に存在する「客観的現実」なるものには、そもそも私たちは出会うことができない。
  2.  真理というものは、相対的なものである。
  3.  慣習は言語化できない(「言語ゲーム」)
  4.  真理は社会的な実践と正当化にかかわる事柄である。①真偽の判断基準は社会的な規約、②この社会的規約に絶対的な基準などというものはない。

 〈真理〉批判の主張は大きく二つに分割することができる。

  1.  言語以前、認識関心以前にそれ自体として存在するとイメージされるような”客観的事実(客観的真理)”に私たちは出会えない。
  2.  あらゆる真理は、特定の時代や文化に固有な前提のもとで判断される以上、普遍的なものではありえず、根本的にローカルなものである。

 著者はこの二番目に疑問を持つ。果たして「特定の時代や文化に固有な前提のもとで」判断されたら、もう全部がローカルになってしまうのだろうか。それは相対主義に導くのだろうか。

 反例としては、数学や自然科学がさまざまな文化のなかで広く認められているということ、そして「知覚事実の普遍妥当性」である。確かに、虹の色をどう呼ぶのか・どう分けるのかはもちろん文化に依存するし、単なる机でも机のある文化・ない文化があるだろう。しかしそもそもそこに物体があるかないか、形や、色の”感じ”(どう呼ぶかはもちろん異なるだろうが)は、決してローカルなものだとは考えていない。文化によって扱いは異なりこそすれ、無視されたり気づかれていないことがあるとはいえ、少なくともその物体のあるなしは文化に依存するものではないだろう。

 

 知覚することについてもう一度考え直してみよう。知覚することはたとえば、想像することとは違う。想像の物体なら、形を変えたり消してしまったりすることができる。しかし知覚された机は、考えただけで動かせたりはしない。しかも、よく知っていると思っていても、現実の机には「こんなところがいつの間にか汚れてる!」というようなことがある。『つまり知覚された事物は、私の意図や思いこみを超え出てそれ自体としての秩序をもつもの、として経験されるのである』(p.35)

 こうした思い込みを超えた何かを示してくる事物知覚と、そしてその何かについて他人とたいていの場合に合致するということの2つが、「客観的な何か」という信念を維持しているといえる。だから特別、この信念が有害だとかそういうわけではないが、これが自然科学を絶対化したり、これこそが人間の生の意味だと言い出すと、有害になってくる。

 以上をまとめれば、

  •  客観的真理という観念が生じるのには必然性があり、そのようになる機制を理解することが〈真理〉批判の完遂には必要になってくる

 ということである。

 

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:西研
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/10/05
  • メディア: 文庫
 

 

第一章 ”学問の基礎づけ”とは何か

〈普遍学〉の構想

 フッサールは生涯、哲学は「厳密な学問」でなくてはならないと主張した(p58)。このような情熱は時代遅れの基礎づけ主義とみなされ、たとえばローティなどによって『神学的』とさえ言われ、古めかしい真理主義だとして葬り去られようとしている。

 フッサールは『デカルト的省察』において哲学者デカルトのモチーフを徹底的に展開すると宣言し、自らの目指す学を「一種の新デカルト主義と呼んでさしつかえないだろう」とさえ言っている。彼がはじめた現象学という哲学はデカルトを徹底することによって生み出されたものなのである。

 デカルトは「哲学を絶対的な基礎づけにもとづく学問にする」ことを目的とした。今の哲学にはあらゆる学問の基礎としての哲学がない。だから彼は「われ思う、ゆえにわれあり」を出発点に据えて、その哲学を打ち立てようとした。フッサールはこのようなデカルトの姿勢、つまり、

 絶対的に疑いえない出発点を定め、そこから出発して諸学を基礎づけようとしたデカルトの姿勢

 を現代によみがえらせようとした。哲学は「あれやこれやの思いつき」などではなく、徹底的に洞察したもの、つきつめたものを受け入れなければならない。デカルトは哲学するための地盤の可能性を本気で追い求めた。フッサールはだから、自分もそこから始めようとする。

 

 ところで先ほども言ったように、基礎づけ主義というのは基本的に時代遅れだとされている。実際、そういう風に言われると誰もがとうていできそうにないと思う。だから、フッサールを理解するには、彼が求めた「基礎づけ」の意味を見直さなければならない。

 デカルト先輩の基礎づけは、まさに想像通りの基礎づけである。絶対に正しいことから出発して、論理的に正しいことを導いていく……。

 しかしフッサールは少し違う。彼の基礎づけは、

 ある学問はどのような「前提」のもとに成り立っているのか、その学問の「領域」ないし「対象」の特質は何か、そこでの諸命題の正当性(ただしさ)は何に由来するか

 を理解することなのである。

 

”学問の理念”と基礎づけ

 フッサールは、学問という営みじたいがそもそも「基礎づけの要求」だという。つまり「絶対的基礎づけと正当化にもとづく普遍的学問」という理念は個々の学問的営みのなかに潜在的にふくまれている―――このフッサールの学問観をまず見てみよう。

 フッサールによれば学問とは、基礎づけによってだれもが信頼し利用できる知識を創り出すことである。たとえば「三角形の内角の和は二直角である」という判断が幾何学的に証明され基礎づけられることによって、誰もが利用できる知識の在庫ができる。私たちは必要ならばいつでも、この基礎づけに戻ってそれが正しいことを確認できることになる。学問的営みの核心をなすものは「基礎づけ」なのである。

 では基礎づけとは?

 基礎づけには二種類ある。間接的なものと、直接的なもの。間接的な基礎づけとは、すでに基礎づけられた諸判断をもとに新たな判断を基礎づける場合である。つまり結局大事なものは直接的な基礎づけなのだが、これはどのようなものだろう。

 たとえば「たしか隣の会議室にはホワイトボードがあったな」と推測する。これを基礎づけるのは、実際に隣の会議室を覗いてみることである。ホワイトボードが実際にあることが、その推測を基礎づける。難しく言えば、「ホワイトボードがあるな」という推測に対して、まさにホワイトボードがあるという事態それ自身が現前している。事態それ自身が現前していることをフッサールは明証という言葉で呼ぶ。あらゆる判断はこうした明証によって充実され、基礎づけられる

 もちろん、明証は覆ることがある。隣の部屋にヘビがいたという判断をせっかく基礎づけたのに、よく見たらロープだったということは容易に考えられるだろう。しかしそれでも、「じっさいに事態そのものを見ている」という感触に従って確かめたということには違いない。間違いはありうるが、少なくともわたしたちがなにかを正しいと思うのは上のような基礎づけのプロセスを踏むのである。

 明証には、見たり触ったりといったような経験的直観と、もうひとつ、本質直観がある。本質直観について考えるには、たとえば幾何学について考えるのがよい。たとえば「三角形の内角の和が二直角」なのは何故だったかな、と思ったとしよう。いろいろ考えていると、とある図が浮かんできて、ああそうだったと納得する。このときもやはり、空虚だった信念が事態そのものの現前によって充実されたといえる。ただ、これは知覚とは違う。

 

 まとめると、

  1.  学問には基礎づけの努力が含まれている
  2.  基礎づけは、判断にその根拠・理由を与えること
  3.  基礎づけは、明証によって判断を充実することによって行われる。
  4.  明証には、経験的直観と本質直観の二種類がある。

 

 学問のめざす「絶対に万人に妥当する真理」とは、批判を拒みうけつけないという意味での「絶対化」された真理であってはならない! むしろ、だれもがそこに参加してみずから洞察することができ、そうしてみるとその明証性にある種の完全性が伴っていてそのただしさを決して疑うことができなくなる、という意味での”絶対性”でなくてはならない。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

  学問は、権威や権力が「真理」を独占する宗教などとは違い、一人一人の洞察・納得を通じて共通な世界像を作り上げる。そのために必要な手続きは、基礎づけである。だれもが判断を明証的に確かめ、納得することができる。それが学問である。

 二つの方法

 デカルトは『省察』において、二つの異なった方法を用いている。

 一つは、意識体験の反省にもとづく方法である。そもそも「われ思う、ゆえにわれあり」という基本命題も、反省することによって導かれた。デカルトの記述を読んだ人も、やはりその是非を自分自身の体験に向かって問うことになる。思いだしつつ、あぁ確かにそうだなと思って、記述に賛成する。

 このような方法は、誰もがあとを追うことができ、場合によってはデカルトの記述を訂正することも可能にするだろう。

 デカルトが開始したこのような作業の意味あいをより一般化してみれば、それは各人が各人の意識のありようをみずから確かめては報告しあうことによって、”意識一般に共通する記述”をつくりあげようとする営み(言語ゲーム)である、ということができるだろう。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

 

 ところでこのような報告のやり取りは、「相手の意識と私の意識に共通な構造がある」という信念・確信を育てる。もちろん他人が自分と同じように感じているかは大きな哲学的問題となる。しかしその確信は私たちがやりとりをするための土台となる非常に基本的な信念の一つであることに違いはない。

 この方法には次の前提が含まれる。すなわち、

 各人がつくりあげる世界像は多様でも、どの意識にも共通な構造――事物知覚や数学的な認識、また善悪や美醜をもつことなど――が存在しているはずである。その構造は自分じしんの意識体験を一つの実例としながら、相互に確かめあっていくことができる

 というものである。

 

 他我の存在や、意識の同型性を前提とするのは哲学的には安易とはいえないだろうか……と思うかもしれない。しかしこの方法において、この前提を有することは問題とはいえない。この方法は、『各人の洞察にもとづく共有』という新たな次元を発生させる。しかも、それによって他我や意識などについてやり取りし合うこともできる。

 また、そもそも他我の存在や意識の同型性という問いは原理的に解答不可能である。誰も他人の意識のなかに入り込むことはできない(入り込めたとしてもそれはもはや自分の意識だから)。むしろ問題とすべきなのは、厳密に証明できないのに何故信じ切っているのか、ということである。何かの存在を客観的に証明するのではなく、何かの存在確信の成立の仕方を問う(デカルトはまだ客観的に証明しようというレベルにあり、そのために「神の存在」を持ち出さなければならなかった)。実際、他我の存在や意識の同型性の確信について、フッサールは詳細に分析を行っている。

 くわえて、これ以外の方法はありえない。たとえば考えたものを読んでもらうときも結局、相手と自分が大体似たようなもんだと思ってそれを公にする。相手が自分とまったく違う世界に生きていたり、そもそもゾンビだったりしたら、文章なんて読んでもらおうとは思わないだろう。

 

 もうひとつの方法は、意識の場を出発点としてその外部を推論していく、というものである。しかしこの「内から外へ」という方法は大きな難問を残してしまった。主観と客観の一致問題である。

 フッサールは意識体験の反省的記述(①)を推し進めていった結果、次の結論に至る。:「真とは、意識の外にそれ自体として存在する客観と”一致”することなどではない。真とはそもそも、意識の内部で生じる確信なのだ」。主観の外に客観的現実が存在すると思っているから、どうしたら一致するだろうと悩んでしまうのである。

  しかしこの解決は、やはり気味悪く感じられるだろう。わたしたちが意識なんかしなくても、客観的なものはわたしたちに関係なく普通にあるように思われるからである。フッサールはそういうものを無視して、客観的現実を否定するのだろうか?

 もちろん、フッサールは否定しない。彼が言いたいのは、そもそもその意識を超越した客観的現実とやらも意識のなかで信じられている、ということである。この確信成立の問いは「超越論的問題」と呼ばれ、フッサール哲学の核心をなす。

 

※この説明だと「結局否定してるじゃねえか」という気分になるかもしれない。しかしたとえば知覚というのは想像と違って自分の思い通りにはならないものだったから、すべてを自分のなかで始末してしまう観念論とは異なることは指摘しておかなければならないと思う。

 

”学問の基礎づけ”とは何を意味するか

 われわれはもはや、フッサールの「絶対的・究極的」な基礎づけが何を意味しているのかを理解することができる。それは、なにかを批判の免れた真理として権威づけることではない。だれもがみずから反省しながらそれを洞察できること(普遍洞察性)と、およそ考え得るあらゆる疑いを根拠なきものとしてあらかじめ排除するような明証(必当然的)であることのふたつが「絶対性」の意味である。

 必当然的については説明が必要だと思う。明証というのはいつも疑いの余地を残すものだったが、たとえば「われ思う、ゆえにわれあり」というものはそういう疑いを徹底的に排除していった結果残ったものである。そういう明証は、ふつう明証に残される疑いの余地をできる限り消すような特別な明証である。それをフッサールは「必当然的な明証」と呼ぶ。

 この「絶対性」は個々人の洞察を禁止したりはしない。

 

 この普遍洞察性と必当然的であることを求める姿勢をフッサールデカルトから学んだが、デカルトは客観的現実を証明しようとしている立場にある。だから、彼のそうした方法は打ち切って、大きく方向転換しなければならない。デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を数学の公理のようなものとして扱い、外部を推論して行こうとした。しかしフッサールはそうしない。

 フッサールにとって意識とは、推論の出発点ではない。意識は、あらゆる対象や世界がその意味を獲得していく場なのである。彼はさまざまなものの意味と、それが存在しているという確信(「存在妥当」)がいかにして成立するのかを問うていく。デカルトのように、外に向かって推論して行こうとはしない。

 

 デカルトの基礎づけは、お墨付きを与えようとすることであり、

 フッサールの基礎づけは、その真理性の意味を理解することである。

 

第二章 〈生〉にとって学問とは何か

人間の全生存に意味はあるか

 学問なんて生きる上でなんの役にも立たない、という敵意のあることをフッサールは感じ取っていた。物理学などの諸学はこれまで多くの成果をあげてきたが、むしろ成果をあげればあげるほど、人間の生の意味を削り取るようなはたらきをすることがある。自分なんてこの宇宙においては取るに足らない、時間的には一瞬で消えてしまう存在であって、しかも物理学的な法則に従って生きている……結局なるようにしかならないし、このことを押し進めると、人間にはそもそも「進歩」なんてものはないんだろう……公正で豊かな社会をめざしてやってきた人間の努力はすべて無駄で、学問なんか別になくってもよかった……という深い絶望である。

 科学には実証がつきものである。それ自体にはなんの問題もないが、「価値判断を切り捨てて客観的にものをみることこそが厳密性なのだよ」とも言いがちである(実証主義)。だから、科学はわたしたちの生きることについては答えられない。その問いを最初から排除してしまっているからだ。真理についても、科学は答えない。実験や資料で答えられないからだ。

 

 現象学は、ありとあらゆる現象を取り扱う。現象学は、価値や規範に関する問いを、だれもが参加し確かめ合うことができるような仕方で、共通のまな板の上に乗せようとする。

 

自然科学の成功と「二元論」のもたらす困難

 真・善・美の問題が切り捨てられていった原因を、フッサールは歴史的に追っていく。実証主義的な学問理解を定着させたのは、まずなにより自然科学の圧倒的な成功にある。自然科学こそが世界の真相を解き明かす、という信頼感は現代でさえごく普通に存在している。

 自然科学は、世界を「数学的な法則の支配する宇宙」とみなすことによって可能となる。この前提をもとに打ち立てられたニュートン力学の体系は、自然界を支配する数学的な法則(運動方程式)によって物理現象を記述した。そしてこれが、「さぁ、どんどん世界の秘密を発見していきましょう」という感覚に火をつけた。世界は法則を有しており、人間はどんどんとその秘密を暴き出していくというストーリーは、こうしたバックグラウンドのもとに築かれていったわけである。

 

 しかしその楽天的な世界観は、物的世界と心的世界の分裂を生み出し、「主観と客観の難問」をはじめとする困難がたちはだかってきた。決定論的な世界観で、この世のすべてはおのずからすべて定まると言っているうちは得意でいられるのだが、そうすると行為の善悪というのもないことになる。また、心という実体のなさそうなものがどうして物的なものと関係を持てるのかという心身問題もある。

※実際、大学で学問をやっている人と話をすると「我が学問こそは」という風に来る。心の問題を結局物理学の問題にすぎないと思っている唯物論者もいる(「思う」というのも物理学の記述に還元できるという)。カルナップという哲学者は本気ですべての学問が物理学におさまると思っていた。そして、「心」の問題は、世界観の把握のために当然ぶつかる課題なのに「心理学者におまかせ」という人もいる。これは学になる以前の問題である。

 

現象学の課題

 自然科学の語る「客観的真理」の、その意味を問わなければならない。

 あらゆる実証科学は、唯一の客観的世界があると世界信念を当然の前提とし、実験によってその理論の客観性を保証できる、とする。

 しかし実験も、一種の知覚に他ならない。物理学においても、知覚された事実における検証が必要とされる。だとすれば、物理学的世界よりも、知覚によって与えられる具体的・日常的世界(「生活世界」)のほうが根源的である。まず生活世界が与えられ、そこに生じる物事を合理的に「説明」するために科学が登場するという順番になっている―――だから「客観的世界がまず存在して、その客観的真理を問う」という客観主義の見方からの転換をしなければならない。

 その転換先のことを、フッサールは「超越論主義」と呼ぶ。これは客観的真理の意味を経験する生に向かって問うことである。あらゆる対象と世界の存在妥当とその意味は生活世界において形成される。物理学的客観的真理とは何かを理解するためには、生活世界からどのようにして物理学が成り立ってくるかを理解することである。そして、「唯一の客観的世界」などという信念がどこから生じて来て、どうして維持されているのかを問うことでもある。

 

 この問いに答えるためにフッサールが用意した方法は「現象学的還元」と呼ばれる。

 

第三章 何のための〈還元〉か(1)——体験への”内圧”

 何のための〈還元〉?

 現象学的還元とは、現象学の方法的核心である。

  1.  わたしたちは自然に現実世界が確かに存在し、事物がそこに属しているということを信じている(世界信念)。世界の存在は日常生活の土台であるし、学問の土台でもあるような、大前提である。
  2.  しかし厳密な学としての哲学を求めるならば、この世界信念を一旦保留しておかなければならないだろう(「エポケー=判断停止」)。私たちはこれによってすべてを失うのだろうか? そうではないとフッサールは言う。
  3.  私たちの手元には「意識」が残る。一切の事物や自然というものは意識体験の経過のなかで意味と存在様相を獲得してくるのである。意識はそのような場であり、世界というものについての判断を保留したとしても、意識は残る。
  4.  そのような意識は、世界の一部というようなものではない。たとえば、その意識には身体がない。身体はあるかどうか疑わしいものとして厳密のためには保留しておかなければならないだろう。このような意識のことを「純粋意識=超越論的主観性」と呼ぶ。

 ……と、このように常識的信念をエポケーすることによって純粋意識の存在を露わにする作業こそが現象学的還元である。では次に問題になるのは、当然「純粋意識」って一体なんなのかということだと思われる。

 上のような、身体を持たない純粋意識の説明は、幽霊のようでかなり気持ち悪く感じられるに違いない。率直に言えば、現象学が極端な独我論だと勘違いされてきたのは当たり前のようにすら思える。しかも残念なことにフッサールの説明が下手でわかりにくかったおかげで余計に誤解が進んでしまった。

 どうしてフッサール現象学的還元をし、その立場に立つべきだと言ったのだろうフッサールに可能性を感じその後ろに続いた人々でさえ、超越論的主観性なんてしろものはキツイと感じていた。だが冒頭に書いたように現象学的還元は現象学のコアに属するものであり、彼が何故そんなことをしたのかを理解しないことには現象学がはじまらない。

 

 彼が現象学というものに対して与えた説明に沿って、純粋心理学というものから見ていこう。彼は現象学というものをブレンターノの記述心理学から出発することで築きあげていったのである。

純粋心理学の立場

 フッサールは、心というものを研究するに際して、自然科学とは違ったアプローチが必要だと考えた。心は大脳生理学などによって解消されるようなものではなく、物的な因果関係によっては説明されないようなものだという観点である。

 フッサールは問う。:

『どういう種類の経験が「心的なもの」を私たちに経験させるのだろうか』

 事柄に向かっているとき、私たちは心というもののことなんて考えていない。ただそこでは事柄だけが意識されている。それなのになぜか私たちは心というものの存在を考える。そうさせるものは一体なんなのだろうか。

 たとえば「あの時私はこんな風に感じたんだよ」と言うことがある。こういうときは、私たちは自分の心的体験をはっきり捉えている。またあるいは、目の前の理不尽な上司に対して怒りを感じる時、その情動を振り払うことができないとき、私たちは心の存在を意識する。

 このように、人が心的なものを意識するのは、自分の体験を見つめ、体験を体験として意識するとき、つまり「反省」というものによってである。反省こそが心的な体験を与えてくれる。そうである以上、フッサールはこの反省というものを見ることによって、心的体験のありかたを探求していくことになるだろう。

 

志向性と総合

 心的体験(=現象)の本質性格は、志向性と呼ばれる。志向性とは、意識はいつも「~について」の意識であるということを意味する。意識というものは単に眼前にあるものを映し出すスクリーンではなく、焦点があり何かに向かっているものだ、と主張しているのだ。*1

 志向性は、「総合」というはたらきをもつ。たとえばあるサイコロを見るときのことを考えよう。ぱっと見ただけでも、たとえばサイコロはすべての面が見えているわけではないし、遠くで見たり近くで見たり角度を変えたりしたらどんどんと見え方(パースペクティブ)が変わっていくだろう。しかしどれだけ変わっても、わたしたちはそのパースペクティブのそれぞれを、同じこのサイコロのいろんな見え方なんだと考える。つまり、どんどんと与えられてくるパースペクティブを、「同じサイコロについての意識」という仕方で総合していっている。

 この総合というはたらきもまた、誤解されてきた。「形や色感覚が与えられてそれを組み立てて対象の像が成立すると言いたいのか?」と思われたのだ。しかし実際には、机の上にある白いものは、最初から「サイコロ」として捉えられている。たとえ裏が見えなくても、あとで4,5,6の目しかないイカサマサイコロだとわかっても、ひとまずはまともなサイコロだろうと予想されることになる。

 このことからわかるのは、きわめて実在的に見えるものでも、それは思い描いたものであり意味的なものだということである。「うん、たしかにサイコロだね」と思っても、裏返したら1の目がなかったりするかもしれない。でもそれをあらかじめ予想してかかっている。私たちが捉えているのは「意味」である。

 フッサールは意識対象を「ノエマ」といい、注意を向けたり価値評価したり等々といった意識作用一般を「ノエシス」という

 たとえばあなたはこの記事を読みながら、「にんじんは何が言いたいんだろう」に焦点を合わせていると思う。この志向のもとで文章が総合されていって、だんだん「にんじんの言いたいこと」がわかってくる。しかしあなたの考えたその「言いたいこと」はあなたの思い描きだから、読み直したら相当イメージが変わるかもしれないし、他人とは読みが異なるかもしれない。

 材料が同じでも、成果物は変わってくるかもしれないというわけだ。志向された「にんじんの言いたいこと」がノエマであり、そこに総合されていく作用がノエシスである。ノエシスノエマは志向性の二つの側面といえる。

 

心理学的‐現象学的還元

 私たちは哲学などしようとは思わず自然的態度をとっているとき、サイコロは客観的に存在していてそれが色んな仕方で目に入って来る、と考えている。わたしたちが知覚する以前にもサイコロは存在しており、それ自体としてしかじかの特徴を備えている、と思っている。

 ショッピングをしていて、人だと思って近づいたらマネキンだった、としよう。これを第三者的に見れば、「それはもともとマネキンだった。でも遠目に見て人だと勘違いしてしまった。近づいてみて、マネキンだと気づいた」ということになる。だが当人からすれば、人だと思って近づいたんだからマネキンだったわけではない。「人だと思って近づいたら、あらかじめしていた予想が裏切られてしまい、その結果としてマネキンの現われとして捉え直されることになった」のだ。

  こうした体験によりそっていくなら、やっぱり自然的態度は一旦忘れなければならない。現象に立ち戻るためには、自然的な判断を中止しなければならない。これは心理学的-現象学的還元と呼ばれる。それが単なる現象学的還元ではないのは、この還元によって得られるのはまた「純粋意識」ではないからである。二つの還元の違いをもっと詳しく知ることは一つ課題として残る

 

 心理学的-現象学的還元を行ったのち、フッサールが次に行おうとすることはやはり、そこに一般的な構造を見出すことである。一般性の取りだしを形相的還元、あるいは本質観取ともいう。

 純粋心理学は「心理学的-現象学的還元」ののち「形相的還元」によって一般性を取りだすことだ。

 

第四章 何のための〈還元〉か(2)——超越論的問題

 純粋心理学はあくまで「心の記述」をする。しかしフッサールが目指したのはあらゆる学問の基礎である。純粋心理学はより深められなければならない。その決定的な歩みこそが、例の超越論的主観性であり、現象学的還元である。

 掘り下げるにあたって、深く関係してくるのが「超越論的問題」と呼ばれるものである。この問題にこたえようとするとき、純粋心理学は超越論的現象学となる。だからともかく、この超越論的問題について考えよう。

 

 謎の提示

 超越論的問題は、自然的態度を変更することによって生じる。

 私たちはふつう、事物が客観的にあることを信じている。しかしその態度を変更することによって、たいていのものは意識のなかで成立してくるものになる。それが「机」であることもそうだし、そうした「机」がたしかにあるという確信も、意識が形成した。……ここにモヤモヤとした感じがある。たしかに意識が作り出したというのもわかる一方で、確かにそこに実在しているということもまた正しいと思われる。

 私たちはいわば二つの世界を生きている。ひとつは私から見える世界である〈実存的世界〉と、もうひとつは確かに存在していると思われる〈客観的世界〉。このどちらが真の世界であるか、ということで観念論vs実在論の対立が生じてくる。フッサールはどちらかに与することはせず、こう問うてみせた。

  •  なぜ二つの世界が相互排他的にあらわれるのか?
  •  この二つの世界はどのようにつながっているのか?
謎の解決と超越論的問題

 フッサールのアプローチは意識からはじまる。客観的世界が意識されようがされまいが存在している、という信念自体が意識のなかで成立するからである。なぜこのような信念が生じてくるのだろう。意識を超越した客観が、意識においていかに確信されるのだろうか? これが超越論的問題と呼ばれる。

 意識を超越してそれ自体として存在している対象を超越物といい、

 そうした超越物の確信を生み出す意識を、超越論的主観性と呼ぶ。

 そして超越物の確信をつくりだす働きを解明しようとするとき、純粋心理学は超越論的現象学へと変わる。純粋心理学における心理学的‐現象学的還元は、いまだに「世界の中に心がある」という考えを残しているが、超越論的問題を考えるときはもっと徹底してエポケーを行わなければならない。世界を含む一切の超越物の確信を成立させる場としての意識を、超越論的主観性と呼ぶわけである。

 

  1.  超越論的主観性において一切の超越物の確信が生まれる
  2.  いかにしてそのような確信が生まれるのかが、超越論的問題と呼ばれる。
  3.  超越論的問題を扱う純粋心理学は超越論的現象学となる。そのとき、心は「世界内部の心」という意味を失う。 

具体的には、超越論的問題とは次の二つの問題として捉えられる。

  1.  客観性の妥当条件・確信条件の問い
  2.  客観性の意味と根拠への問い

 

 

第五章 いかにして〈現実〉は形づくられているか

知覚の特権性は何に由来するか

 客観的現実が存在するという信念がつくりあげられる特別な意識体験は「知覚」である。たとえば「あの教室にマイク設備がある」ということを確かめるのには①記憶②証言③見に行く、ことなどがあるが、結局は知覚に頼っている。「設備があった」ことを確かめるのにはもはや実際に見に行くことはできないが、証言や資料を用いることができる。それを確認するのもやはり知覚である。また、科学理論が客観的現実に一致しているだろうという確信を得るためには実験をするだろうが、実験は知覚によって確認される。

 フッサールが知覚という言葉を用いる時、それは①想起(過去の状態の思い描き)、②予期(未来の状態の思い描き)、③想像(まったくの思い描き)との区別が念頭に置かれている。知覚は現前化(対象を現に与える働き)という働きをもつが、想起・予期・想像という働きとははっきり区別される。もし目の前の机が知覚か想像かという確信が持てなければ、私たちに現実というものは持ちえないだろう。

 そのような区別を、わたしたちはどのような基準で行っているのだろう。

 第一に、知覚には想起や予期などにはない、ありありとした感じがある。この具体的でありありとした感触のことをフッサールは有体性と呼ぶ。

 第二に、想像などの場合には机を消してみることができるが、知覚の場合には消してやることができない。知覚された対象には、動かしがたく向こうから現れてくるという感触がある。人だと思ったらマネキンだったというとき、知覚というものはわたしたちの良きを叩きのめすほどのふてぶてしさを持っているのである。

 第三に、想起や想像の場合には、そもそも実物でないものを思い浮かべているという感触が確かにある。今のは想像だったのか知覚だったのかなどとはほとんど悩むことがない。机を見ているとき、私たちは机という表象を受け取っているなどとは思っていない。まさに、その机を見ている、と思っている。このことを主観客観図式としてみれば、知覚においてはふたつが確かに一致したものとして受け入れられているのである。

 第四に、ここに居合わせている他の人にも同じものが見えているはずだ、という確信が伴っている。もちろん遠視やら乱視やらで見え方は違うだろうが、自分とおなじこのナニカを認めてくれるだろうと思っている。

 

 知覚の特権性をまとめれば、

  1.  現実それ自体がじかに与えられるという感触を伴う
  2.  だれにとっても同じように知覚されうるという信念が伴う

 

 では通常は知覚できない電子や原子などの「仮説」はどのように客観性を持っているのだろうか。このことは別個に議論する必要があるが、ひとまずは、それは二次的に認められているもので知覚が一次的なものだという結論だけ書いておく。

 

知覚が確証されるための条件

 知覚が基盤にあることがわかっても、知覚すれば即ち現実だという確信を得るというわけではない。知覚はひとつのパースペクティブから別の面も含めた「机」を志向し、実際にぐるぐる机を回ってみることで、どんどんと総合していく。たまに予想を裏切って机の裏に「カス!」と落書きされていたりもする。

 別の面も含めた「机」があらかじめ受け取られているが、それは身体をこう動かせばこういう風に見えるだろうという、運動感覚(キネステーゼ)と対象の現われの相関の予想も含まれている。実際に身体を動かしてみてだいたいの予想通りにハイハイと「机」が総合されていくことを、フッサール調和的な経験によって証示されると呼ぶ。逆に机が予想を裏切って来ると対象の確信は大きく訂正されるだろう。知覚の確証のためには、体験の調和的総合という条件が必要なのである。当たり前のように、しばらくの間はうまく行っていても、次の瞬間にはとんでもない裏切りに遭うかもしれないが。

※運動感覚と対象の現われの相関、などなどを生まれたての子どもが知っているとは思えない。子どもはこれを日々自覚的に、無自覚的に学んでいく。

 

知覚の”背景”としての時間的・空間的世界

 調和的な経験が確信を強めることは理解できるが、それじゃあこれだけで十分なのかというとそうではない。たとえば家に帰ったら、そこにパンダがいたとしよう。パンダはばたばたと走って逃げて行ってしまった。

 リアルパンダは普通、居間にはいない。そんなものを見たら心底戸惑うことだろう。このような体験が最終的に現実として妥当するかどうかは、後続する体験がそれに調和して行かなければならない。一緒に居た人が「パンダじゃん……」と言ったり、あとでニュースで「パンダが脱走しました」と見たりすれば、現実になっていくだろう。逆に「パンダなんているわけねえだろ」と言われたり、一緒に居た人さえ「何をびっくりしてるの? パンダ? 私たち二人だけだったじゃん」などと言ったり、ニュースにすらなっていなかったらさすがに夢だと思うだろう。

 このように、単独の経験としていくらパンダがありありと居間で茶をすすっていようが、そもそも自分が抱いてきた「現実」と調和しなければ、その知覚が現実とはみなされない。逆に言えば、どんな知覚体験もその背景として現実に関するイメージをもっており、それによって支えられている、ということになる。もう少し詳しく見よう。

 

 知覚は、時間的な脈絡の理解(記憶)によって支えられている

 目の前に机があると一口にいっても、その机は先週Amazonで購入してクロネコさんが運んで来てくれたものだ。だからこそ、持ち主であるニンジンさんは友達がおらず誰も訪ねてきていなくてもその机を確かなものとして扱っている。それに机を見ているわたしたちは、どこかから、この場所に来た。つまり、どんな知覚体験のさいにも、どのような時間的経過を経て現在の知覚に至ったのか、ということを了解している。そして必要ならそれを呼び出すことができる。

 過去の記憶が現実だったことはどうだろうか。記憶を掘り起こし、一緒にいった人や、何をしていたかを確認するだろう。まったく思いだせないとすれば、現実かどうかは疑わしい。時にはその体験がいつ起こったか、そういうことも考えるに違いない。わたしたちは自分の体験をストーリーにしていて、なにかあれば記憶をもとにそれを確かめ直している。

 さらに、この現実は空間的な秩序としても理解されている

 机は部屋のなかにあり、ワンルームで横には隣人が住んでおり、〇〇町であることもわかっている。このようなことも、現実を支えている。部屋にいて、次の瞬間には職場にいるなんてことがたびたび起こっていたら、現実とは思わないだろう。

 

 以上のことから、客観的な現実においてさまざまな体験をしてきた、というよりも、これまでの体験が首尾一貫してきたからこそ動しがたい現実の秩序があるという確信が形づくられ維持されてきた、とわかってくる。私たちは幼い頃から現実を作り上げて来た。矛盾が見つかれば、それをうまく調和する説明を考えてきたりもした。久しぶりに行った町で、あったはずのレストランがなくなっていたら、瞬時に消えたとは誰も思わない。マズかったから潰れたんだろうとか考える。

 

 私たちは「現実がひとつである」と信じて疑わず、最終的には調和されると確信している(レストランが消えたのにはワケがあるはず)。世界信念は、生を貫くもっとも基本的な地盤なのである。

 もろもろの体験がじっさいに相互に調和する(ツジツマがあう)からこそ、唯一の堅固な現実があるという信念は持続する。また逆に、この信念があるからこそ、私たちはもろもろの体験を調和させようと努力する、と。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

 他我と相互主観的世界

 そして以前からたびたび登場しているが、現実世界を支えているのはみずからの体験だけではない。他人が「パンダがいたよな」と言ってくれたり、「あそこのレストランは潰れたよ」と教えてくれたり、「本日未明、パンダが動物園から逃げ出しました」と報じてくれるのは、他人である。教科書に載っていることももともとは赤の他人が体験したことである。現実は、直接経験の世界を超えて、拡大している。

 こういうことが可能になるのは、「世界信念」ももちろんだが、他者も自分と同じ世界に生きているだろうという「同一世界」信念のおかげである。同一世界なので、他者の言うことはわたしにとっても大きな意味をもってくる。

 

 そうすると他我が問題になってくるが、フッサール式に「わたしたちは他我というものをどう体験しているんだろう」と問うてみる。フッサールはこれに対して、通例通り他我という確信を一旦エポケーし、原初的な状態に戻る。そして最終的に他人にじぶんを投入することで、自分みたいなものとしての他我を得た。しかしフッサール他我論には痛烈な批判が多数寄せられている。

  1.  他人というのは自分の似た動きをする似たモノのことでしょう。それって自分の動きを客観的に、外側から把握してるってことでしょう。しかも似てるってわかるんだから自分の形もわかってるよね。原初的状態に、そんなことがわかるか?
  2.  他者に自分を入れ込んだら、それって他者か?
  3.  そもそも自我の成立は? 自我の成立には他我が絡んでいるのでは?

 フッサール他我論の難点は、他我の意味がまったく存在しないフィクションからはじめたからだと著者は主張する。フッサールはそれを「固有領域」と呼んでいたが、そもそもそんなものはどこにも存在しないし、だれも経験したことがない。私の生はつねに他我と関わって営まれている。*2

 簡単に結論だけ述べれば、

 他我の存在をわたしたちが確信するのは、言葉やふるまいによって示される他者の世界経験がわたしの世界経験と一致するからである。

 しかしこのことは、もう少し議論を深めたほうがいいだろう。他我の議論は現象学におけるメイントピックとして扱われている。

 

 以上まででわかったのは、客観性にはいくつかのレベルがあるということ。

 ひとつは知覚によって与えられるわたしの体験からくる客観世界であり、もうひとつは自他の体験が総合されることによって登場した「それ自体として存在する客観的世界」である。そして第三に、物理学の語る客観世界がある。これらはひとつ下の段階が基盤となって成立している。その意味で、物理学などの学問は二次的、三次的なのだ。

 

*1:もちろん、志向されている何かの背後にももちろん何かがあるし、それが見えていないわけではない。志向されているものと、その背後にあるものには関係があるのだが、ここではこれ以上言わない。ただ、考慮されていることだけ注意しておく。

*2:それを言い出したら世界信念をエポケーするのもフィクションじゃねえのか、という気もする。赤ん坊のときに体験しているからそうでもないんだろうか。でも覚えてないからなぁ