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論理学の哲学

真であること・必然的であること・確実であること

「9は3の倍数である。9は3の倍数であることは真である」

 真であるということは単に冗長な表現にすぎないのだろうか。この点についてはまた議論することにして、上の命題から真であることと必然性の区別をしよう。もし真であることと必然的であることがまったく同じ意味であったと仮定する。するとたとえば「9は3の倍数である」のならば、「9は3の倍数であることは必然的である」ことになろう。ところで命題に登場する各名辞をそれと意義の等しい他の表現に変えても真理性は変わるはずはない。そこで日本の中部地方にある県の数は9であることから、「中部地方にある県は3の倍数である」が得られる。そしてもちろんここから「中部地方にある県は3の倍数であることは必然的である」ということになる。だが明らかに、中部地方にある県が3の倍数であることは偶然的であり、そうでないこともありえた。よって真であることと必然的であることは同じではない。

 また、必然的であることと確実であることが同じ意味であったと仮定しよう。だれかが「もうじき雨が降るのは確実だ」といったとする。彼は未来のできごとを直接に観察できないのだから、今なしうる観察と一定の自然法則によってそう結論している。自然法則が仮にまったく必然的なものであったとしても、彼のなしうる観察がすべて尽くされており見過ごされているということは保証されない。ところで「もうじき雨が降るのは必然的である」ことは仮定から明らかであるが、保証されない以上、そうであることもありえたのであるから、必然的であるとはいえない。

 

 なにかが確実であるということは、その時点での認識事情によればすべてがなにかの真理を裏付けるということにすぎず、それが別様ではありえないという必然性まで含意するわけではないし、しかも、真であることすら保証していない。

 一方、なにかが必然的であるということは、なにかが必ず真であるということである。真であることはもちろんその何かが可能であることを含意する。つまり必然性ー可能性は真理性の強度を加減しているのであり、確実性は完全でないにせよ、真理性・必然性と意味論的に分離している。

 

 

分析的必然性

 なにかが必然的であるということの意味は、もしなにかでないとしたら矛盾するという意味で別様でありえないということである。つまり矛盾律を下敷きにした概念であり、ここでいう矛盾律は「前提とされる」というよりも、もしも何事かを語りたいのであれば従わなければならない規範である。

 さて、分析的な言明は常に必然的であることがわかる。それはたとえば「独身者は未婚である」というものであり、偽であることは不可能であり、「明日は雨だよ」などのように偽であることがありうるような種類のものではない。分析的言明とは、その真理がそれ自身の意味にもとづいているような言明である。

 一方、自然法則などはどうだろうか。これは因果的必然性と称され、たとえば「砂糖は水に溶ける」であったりするが、このようなものは別様ではありえないというほどの必然性はない。自然法則を自然法則とするものはなんだろうか。たとえば私たちは住んでいるマンションの電灯が夜七時につくことを自然法則とは言わない。それは単なる規則性という以上のものであり、すなわち、砂糖は水に溶けることが自然法則であるのはそれが砂糖という物質の化学的構造によって説明されるためである。つまり自然法則は科学的説明(現象と科学的構造の連関)の体系の中に組み込まれている。だからもし水に溶けなければそれは砂糖とは異なった化学構造をもつといわれるし、化学構造が異なるものを砂糖とは呼びはしない。ゆえに砂糖が水に溶けることはそれが砂糖と呼ばれる以上「必然的」なのだが、それは水に溶けないものを砂糖とは呼ばないということ———つまり分析的必然性に回収されるのである。

真理とはなにか

 真であるとか真理とかは一体なにを意味しているのだろう。ここで問題としているのは言明の真理性であって、たとえば「この事件の真相」であるとか「偽札」といったような意味での真理(対:一面性/見かけ上の)ではない。

余剰説から

 アリストテレスによる説明は「何かあることが成り立つという言明は、そのことが成り立つちょうどその場合に真である」ととりまとめることができる。すなわち「pという言明が真であるということはpであるということ」である。真理の余剰説論者が訴えるのは、そもそも真であるというのはこの同値性に尽きるものであって、単なる言い換えにすぎないのだということだが、言明が言明と呼ばれうるのはそれがなにかを知らせ、提示するからであり、これゆえに依頼文や疑問文から区別されるのである。すなわち、言明とは真であるとか偽であるとかと相手に提示し、相手はそれが正当なものであるかどうかを問うことができるような要求を持つ。余剰説によって抜け落ちるのはまさにこの点であろう。これは真であることを真であるとして認識すること、検証すること、真理基準を持つことと、真であることの違いでもある。

 もちろん私たちは「真理」と「真理として認識すること」を混同してはならない。言明は、その認識論的な筋道、どうやって検証すればいいのかわからない場合でも真でありうる。このことは正しいとしても、私たちがその提示されたところの言明を理解するというのは、その言明が真ならば何が成り立っているかを知っているという場合に限られる、つまり、言明を理解するとは、その言明がどうすれば検証できるのかを知っているということなのである。

 同様に、なにか述語が理解できるとは、それが対象に当てはまるのはどのようなときなのかという基準を私たちが所持している場合に限られる。真であるという述語に関しても、それを理解したというためには、そこには認識基準を含まなければならない。

一致説から

 真理に関して一致説・対応説の古典的定説はこうだ。「真理とはものと知性との一致である」すなわち「認識とその対象との一致」。だが一致とはなんだろう。このような考え方がまっとうなものであるのは、ここでいわれている知性あるいは思想といったものが客観的な仕方で理解される場合に限られる。というのもここで問題となっているのは『言明内容』-『現実』だからである。そこで次のように言い換えよう。

(1)「言明によって主張されているpという事態が真であるのは、その事態がそれに対応する現実的事態(対応する事実)と一致する場合かつその場合に限られる」

 一方に思想あるいは事態を、一方に現実を想定し「一致」「対応」を持ち出す。だがもし言明が真であって現実的事態と一致しているというのであれば、主張している事態はまさにその現実的事態にほかならないのだから、こうも再定式化できる。

(2)「主張されている事態が真であるのは、それが現実的事態すなわち事実である場合かつその場合に限られる」

 主張されている事態が真であるのはそれが事実の場合だという。これは非常に穏当な主張だが、私たちはこれによって、言明が真であることを確かめるためにそれがあらわす事態が事実であるかどうかをチェックすればいいことになるのだろうか。その事態が現実的事態であるという性質を帰属させるかどうかを吟味すればよいのか? そうではない。私たちがその事態を事実と呼ぶのは、その事態が真だからであって、逆ではないのだ。つまり、私たちがその事態が事実であるかどうかを知りたいならば、そのときはその事態が真であるかどうかをみなければならないのである。

 そうすると私たちはもはや、右項つまり事実である=事態が現実的であるという定式を見直さなければならない。現実的であるという性質が事態に帰属すると記述するのではなく、まさに単に、現実にそうであるということにしてみるのだ。

(3)「pということは真であるとは、現実にpである場合かつその場合に限る」

 

 例えば、雨が降っているという言明を考えよう。

(1)言明が主張している雨が降っているという事態が真であるのは、その雨が降っているという事態に対応する現実的事態と一致する場合に限られる。

(2)主張されている雨が降っているという事態が真であるのは、雨が降っているという事態が現実的である場合つまり事実である場合に限られる。

(3)雨が降っているということが真であるのは、現実に雨が降っている場合その場合に限る。

 このように見直されてきたわけだ。ここに残された『現実に』ということが、「pが真である」ということを単に「p」の言い回しを長くしたものだと言わせない要素である。

タルスキによる言語論的見解

 今までは事態という抽象的対象について考えて来たのであるが、タルスキは真であるとか偽であるとかを語るのは単純に「文」についてなのだという前提に立つ。ゆえに、

「『p』は真であるとはpである場合かつその場合に限る」

 という。鍵かっこがついているのはまさにそれが文であるからである。ところでこのようなことを定式化できるのは鍵かっこなどをつけることができるからで、話し言葉の際にはちょっと困る。そこでそれも含めたより一般的な形で再度定式化しよう。

「Xが真であるとは、pが真である場合かつその場合に限る」

 Xは対象言語の文をメタ言語的に表示するものを表しており、pはその対象言語文をメタ言語に翻訳したものを表している。対象言語が英語であり、メタ言語が日本語であるならたとえば、「itとrainという二つの語から成る英語の文が真であるのは、雨が降っている場合かつその場合に限る」ということになるだろう。

 このことからわかるのは、これはもはやすべての文がどのような条件で真となるのかを述べるようなものではないということだ。もしも私たちの作れる文というものが有限であるならば、ひとつひとつ個別の真理条件を並べ立てれば、真であるということをそれぞれの場合場合に分けて記述することもできるだろう(真であるとは、もしそれが文①の場合……、文②の場合……)。だがふつう、言語によって作れる文には限りがない。

 だがもしも文というものの作り方が決まっているなら無限の文だろうが取り扱うことができる。たとえば命題論理学において、論理式とは回帰的に定義されるのだった———まず命題記号P,Q,R……を用意し、¬と→という結合子を持ってきて、「命題記号は論理式である。pが論理式なら¬pは論理式である。p,qが論理式ならp→qは論理式である。論理式は以上で作られるものである」としたのだ。どんなに論理式が複雑になっても、順番に真理条件を確認していくことでどういう場合に真になるかがはっきりする。人工言語を使うことは前提として、順番にこう定めていく。

  1.  対象言語の単称名辞すべてに対応する人工言語メタ言語)の対象リストを作成
  2.  対象言語の一般名辞すべてに対応する人工言語メタ言語)の概念リストを作成
  3.  単称名辞と一般名辞との合成によって文がつくられているとするならば(Fa)、その文が真となるのは、単称名辞によって表示される対象が一般名辞のあらわす概念のもとに属するちょうどその場合である。
  4.  ある文がp∧qという構造をもつならばその文が真であるのはpが真でありqも真であるちょうどその場合である。
  5.  ある文が¬pという構造をもつならばその文が真であるのは、pが偽であるちょうどその場合である。
  6.  ある文が∃xΦ(x)という構造をもち、Φ(x)の意味が表現Φの中に変項xがあらわれるということであるならばその文が真であるのは、xのかわりに具体的に単称名辞が現れることによってもとのΦ(x)からは区別される文のうちの少なくとも一つが真であるちょうどその場合である。

 これによって真であることは回帰的に定義されたことになる。だがこれは単なる翻訳にすぎないのではないだろうか。真ということを理解するために私たちはこれによってなにか一歩でも先に進めたのか?

 まずある構造を備えた文が何に依存して真になるのかをこの定義は説明している。また回帰的定義は自然言語にも十分適用可能である(デイヴィドソン『真理と意味』)。さらに現実との結びつきは③によって示されている。もちろん現実との結びつきを有する文は単称述定文だけではないが、それ以外の文の結びつきはここに立ち戻らせることによって認めることができる。

結論

 しかし③が現実との結びつきを有するものであったとしても、

「その文が真となるのは、単称名辞によって表示される対象が一般名辞のあらわす概念のもとに属するちょうどその場合である」

 という文からは単称名辞と一般名辞がどの対象どの概念を表しているのかが明確ではなく、これだけからはどのようにして文が真であると認識すればよいかは明らかではない。この点を補うのが①と②のリストなのである。だが、「太陽」が太陽を表す、と述べるのは最初からその対象が何かをわかっていない限りは無意味だろう。第一の考察によって学んだことによれば、真であるという述語を理解するためには、それがどのようにして知られるのかについての認識基準を持たなければならない。すると、このリストについては別の説明が必要だということになる。

 

 さて、私たちは単称名辞がどの対象を表しているか知るために何を必要とするのだろう。そもそもまず、その対象を同一のものとして特定できなければならないだろうし、もしそれが時空的対象の場合は時空中で同一のものとして特定できなければならない。

 つまり、単称名辞がどの対象を表しているかを知っているとは、その名辞の特定規則を知っているということなのである。また一般名辞が何を意味しているのかを知っているとは、それがどのように用いられるか、それが対象に当てはまるかどうかの基準を所持しているということである。

 以上から、③を次のように再定式化することができる。

「Faが真であるのは、aの特定規則を遵守することによって得られた結果にFをその使用規則に従って適用できる場合かつその場合に限る」

 たとえばシェーネベルクの市役所は赤いという文が真であるのは、シェーネベルクの市役所として特定可能な対象に赤という一般名辞がその使用規則に従って適用できるちょうどその場合である。

 

 

命題とはなにか

 命題とはなんだろうか。この論理学的な基本概念は、歴史上さまざまな呼び方をされてきた。たとえばそれは「判断」であったり、「思想」「事態」「命題」「言明」などである。ここに見いだされるのは論理学に対する心理学的/存在論的/言語論的見解だ。いずれの見解にも強弱があり、判断というのは一つの心的作用だといわれたりすることもある。たとえばピタゴラスの定理はそれを考えている数学者の一つの思考である。あるいは事態というものを言語的なものに頼らないで説明できると主張したり、そもそも言明とは言明文のことであり抽象的対象としての””言明””””命題””などの存在を否定したりする。ウィトゲンシュタインは論理的学論考において「事態とは、諸対象の結合である」といったが、これは強い形の存在論的見解といえる。

 しかしともかく、私たちは命題というものを言明文の形で問題としている(言明と言明文は区別しなければならない)。アリストテレスの『命題論』も文の定義からはじまる。ここで彼が文の最小要素、つまり文の意味を担う最小の単位として選んだのは、名前と動詞であった。

 アリストテレス文を名前と動詞から組み立てたことは、その後の論理学史に甚大な影響をもたらした。彼の創始した古典的な論理学がかなり後世まで使われていたので、だいぶ長い間、その影響下にあったことがわかる。この大きな理由についてはあとで書くとして、まずは簡単な疑問から検討しよう――語と文はどう違うと考えられていたのだろうか? たとえば一語文だって文といわれるではないか。この点に関しては、「文は最小の了解単位である」と言い方ができるだろう。すなわち、語と文の違いは、何かを理解させることができるということである。一語文が文と言われるのもまさにそのときである。そうとはいえ、これは明らかに文の最小構成要素が名前と動詞であることは帰結しないのだが。

 さて、さらに深堀りすれば、『理解させる』とはどういうことなのかがあいまいだ。アリストテレスは自分なりに文を定義したあとで、文というものをいくつか区別する。たとえば依頼文「ペンをとってくれ」は文だし、自分がどのようなことをしてほしいのかを理解させようとしている。命令文もそうだし、疑問文もそうだ。だがこれらのことは私たちが問題としようとしている命題・言明・判断を表す文とは異なる。この点に関しては、言明文においては「なにかを理解させる」というなかでも「なにかを知らせる」という機能を持っていると説明される。そのような文に対しては相手方はそれが正当なのかどうか、真偽を問い得る。言明文はそれがそう述べられてある通りにそうなのだと相手に知らせるのだ。

 だから言明文から言明あるいは命題などへと踏み出すことはしごく当然のことである。私たちは字面を問題としているのではなくて、それがそうであるのか、それを問題としているからだ。

分析判断とはなにか

 分析判断の例は「独身男性はすべて結婚していない」で、このことはいつも真である。なぜなら独身男性ということが意味しているのは結婚していない男性ということだからだ。このことは私たちの経験に全く依存せず正当化できるという意味で、ア・プリオリと言われる。当然、「分析判断はすべて必然的真理でありア・プリオリである」ことは真である。ここで予想されることはこの命題の逆も成立することだが、哲学者カントはそこを認めなかった。すなわち、ア・プリオリで必然的真理にも関わらず分析判断ではないようなもの(総合判断)が存在するといったのだ。そしてこれが『純粋理性批判』の中心にある。

 さきほど分析判断を例示したが、このことは分析判断が何であるかを説明したものではない。カントは分析判断を『述語概念が主語概念に含まれているような判断』としたが、実は『それが否定的なものであれ肯定的なものであれその判断の真であることはつねに矛盾律によって十全に認識できる』とも説明していた。問題にしなければならないのは、その反対が矛盾を含意するが述語概念が主語概念に含まれていないようなものが存在しないかどうかということだ。そしてその答えとしては、「存在する」と言わざるを得ない。

 たとえば、『すべての人間は死ぬ、かつ、すべてのギリシャ人が人間であるならば、すべてのギリシャ人は死ぬ』である。これがもし間違っているとすると死なないギリシャ人が存在することになるが、ギリシャ人は人間であり人間は死ぬので、そのギリシャ人は死にかつ死なない存在になってしまう。だがこの矛盾は概念関係から生ずるものではない。というのも概念を別のものに差し替えてもまったく問題ないからである。ではなにから生ずるかといえば『すべての』『ならば』『かつ』の意味である。

 そこで私たちとしては分析判断をより包括的にこう規定できる。

「分析的に真(偽)である文とは、それの真(偽)であることがそれの意味にもとづいているような文のことををいう」

 言明文とはなにかがそう述べられてある通りにそうなのだと主張し、そうである/そうでないという可能性のうち一方をとるものであった。分析判断はその意味でまったく何も主張していない。それは同じことを繰り返す同語反復である。

 さて、改めて言い直せば、分析判断には「内容語の意味にもとづいて」のものと、「論理形式にもとづいて」のものがある。論理学研究は後者について行われるもので、論理的妥当性という概念も後者によって定義される。つまり、分析的真理と論理的真理は前者が後者を包含するとはいえ、別物である。残された問題は内容語と論理形式をいったいどうやって区別しているのかだろう。

矛盾律という規範

 なにかが必然的真理であることは矛盾律にもとづいている。というのも、それが必然的であるというのはその反対が矛盾することだからである。だが矛盾律はいったいなににもとづいているのか。これに新たな根拠を持ち出すことは新たな根拠づけの問題を引き起こす。私たちに問いうるのは矛盾律の必然性がどの点に成り立っているのかである。矛盾律はいつも「前提」され、それ自体が説明されることはあまりない。

 矛盾とは、誰かがある事態が成り立っているといい同時に成り立っていないと主張することである。これはいつも「pかつ非p」という形式をもつ。別の言い方をすれば、二つの互いに矛盾対当の関係にある言明が同時に真であることはできない、ということになる。p,qが矛盾対当の関係にあるとは、pが偽であるちょうどその場合にqが真であるような場合である。

 しかしところで、矛盾律というものは成り立っていないのではないだろうか。あるものに対して同じ述語が帰属したり帰属しなかったりすることがありうるのは当然のことなのだから―――こうした批判のために、アリストテレスは「同一の観点で」という限定をつけた。これはたとえば「同時に」である。他にもチューリップが赤と紫の中間ほどの色をしているときにこの花は赤いという言明が大まかすぎるような場合にも、赤くもあり赤くもないといいたくなるだろう。つまり場合によってはより精密な規定を設けなければならない。このように考えすすめると、いったいどれほど「同一の観点で」に振り回されることか知れない。後から後から論難され、常に後手にまわり、もはや矛盾律を堅持することは好みにさえ思える。

 そうとはいえ、矛盾律の反対者はともかく、何らかのことを語っている。何かを語るということは何かを理解させようとすることである。この点を糸口にして、矛盾律について改めて語ってみよう。アリストテレス曰く、『何かを理解させようとすることは、何か特定のことを語るということであり、述定文において何か特定のことを語れるのは、述語がなにか特定のことを意味する場合に限られる。ある述語が何か特定のことを意味するならば、それは同時にその反対のことを意味することはできない』。述語の規定性を信じ切っているが、そもそもそれが一義的なものであるかははっきりしない。ひょっとするとすべての述語はあいまいなもので、反対がありえないというほどにはっきりとしたものではないかもしれない。

 彼は述語がそれ自体でまとまりを持っているかのように語ったが、ストローソンは述語と言説のなかで対象との関連において果たしている機能に注目する。その機能とは、それによって対象を分類(比較・区別)することである。だからもともと『それはしかじかだ』『それはしかじかではない』を明確に対比することは、述語の意義に属している。述語を適用することは境界を引くようなものだ。理解させるという語りの意義は、境界線のあちらではなくこちらだということであり、このときにのみ相手に何かを知らせ、理解させることができる。矛盾律は、私たちが完全に規定された言語を持っていることを前提するものではないが、一定の状況下ではより厳密に線引きするように要請する。述語のより厳密に規定されたあり方は、矛盾律を介して徐々にもたらされるものなのである。矛盾律は実在についての法則ではなく、言語表現の意味(「ない」「かつ」、述定の形式の意味)にもとづいている。このことの妥当性、必然性は、もしそうでなければ何も語ることにはならないという意味であり、それ以上ではまったくない。

真理値ポテンシャル

 対象について考える前に、まずはフレーゲの意味理論から始める。

 先に意味と意義を区別しておこう。たとえば<明けの明星>と<宵の明星>はそれぞれ金星を意味するのだが、これは同じ意義を持っていない。だが、明けの明星と宵の明星がそれぞれなにを意味しているのか知らずに、これらの表現を理解することはじゅうぶんに可能である。つまり、<明けの明星>の意味とは金星であり、””明け方の空にひときわ輝く惑星””という意義を持っている。意義というのはその指示対象がどのようなものとして示されるのかを教えている。

 意味を「真理値ポテンシャル」を用いて説明してみよう。なにかの真理値ポテンシャルとは、そのなにかが組み合わされて文全体の真理値を決めるような、各々の部分表現が潜在的に持っている真理値への寄与のことである。

 たとえば<イエナの戦いの勝者はコルシカ島出身である>という文を考えよう。この文が真であるかどうかを知るためには、まず<イエナの戦いの勝者>が何を意味しているのかをしらないといけないし、<コルシカ島出身である>がどのような対象について真になるのかを知らないといけない。前者の場合、それはナポレオンである。つまり<イエナの戦いの勝者>の真理値ポテンシャルはナポレオンであり、これがわからなければ文の真理値もわからない。一般的にいって、文法的な主語の真理値ポテンシャルはその指示対象であるといえる。

 述語の場合、ナポレオンに関しては<コルシカ島出身である>は真であり、アルキメデスについては<コルシカ島出身である>は偽になることがわかる。述語の真理値ポテンシャルは、どの対象に当てはめればそれが真か偽かがわかる、というものである。つまりそれは指示対象から真理値への関数ということになる。

 では文の真理値ポテンシャルとはなんだろう。<イエナの戦いの勝者はコルシカ島出身である>を部分として含むような複合文の真理値について考えなければならない。たとえば<文>かつ<文>の真理値を決めるものは、それぞれの<文>の真理値である。とすると、<イエナの戦いの勝者はコルシカ島の出身である>という文の真理値ポテンシャルは、この文の真理値だということになる。

 これらの考察を受けて、次のように説明される。

意味とは、真理値ポテンシャルである」

  •  主語表現の真理値ポテンシャルはその指示対象
  •  述語の真理値ポテンシャルは、どの指示対象に対して真であるか偽であるかということ。
  •  文の真理値ポテンシャルは、真理値

前提:タルスキ流の真理規定

  •  <イエナの戦いの勝者はコルシカ島の出身である>という文の真理値を知るために、どうして<イエナの戦いの勝者>がナポレオンを意味していると知らなければならないのだろうか。→ これはイエナの戦いの勝者である「あのお方」でも別によい。ともかくその指示対象が誰なのかわからなければ真偽を答えようがない。

 文の真理値がその構成要素である主語と述語からわかるだろうというのは、一つの真理観を前提としている。それはタルスキ流の真理規定である。

構文論)そこには、まず或る集合がある{g,c,p}。そしてWがある。文というのはW(・,・)を先ほどの集合の要素で埋めたもののことで、今の場合九つある。ここにさらに論理定項である¬と→を定めており、¬WgcやWgc→Wpcなどを構成することができる。

意味論)g,c,pをグー・チョキ・パーと解釈しよう。Wxyはxはyに勝つであると考える。するとそれに応じてWxyのそれぞれに真理値が付与でき、真になるのはであってそれ以外は偽となるだろう。そこで一旦文法のほうへ戻って改めてこう定義する。Wxyが真であるとは、(xの解釈、yの解釈)が{(グー、チョキ)(チョキ、パー)(パー、グー)}の集合に属する場合である、と。

 そうであるから、Wxyの真偽を求めるためにはx,yがグーなのかチョキなのかパーなのか知り、かつ、W(・、・)を真にするような外延{(グー、チョキ)(チョキ、パー)(パー、グー)}を知らなければならない(この外延を知っていれば当然偽である外延も知ることになる)。自然言語の場合はかなり複雑だが、「ナポレオン」だろうが「あのお方」だろうが、ともかくその表現が指し示す基本的なところに戻らなければならない。真理が定まっているのはg,c,pに対してではなく、グーチョキパーに対してなのだ。

チェックポイント

 D(g)=グー、D(c)=チョキ、D(p)=パーと考える解釈Dは私たちにとって自然なものである。Wもやはりまったく自然に定まった。しかし真理値ポテンシャルにとって興味があるのは「文の真理値」だけである。たとえばD'(g)=チョキ、D'(c)=パー、D'(p)=グーとズラしても、述語Wを真にする外延は変化しない。つまりWgcは相変わらず真であるが、gの””意味しているもの””はグーなのかチョキなのかわからないのである。

 

「真」の多義性と真理論の目的と方法

 真という語は日常的に使われさまざまな意味、用法、使用場面がある。文に使われることもあれば名詞に使われることもあり、価値判断を含む場合もあればそうでないこともある。そこで真理についての理論を構築するうえでは、どの視点における真理なのかについて明確にしておかなければならない―――ここで問題とするのは、文を対象とする述語的用法における「真である」であり、この真理論において目指すのは「””~が真である””とは、~~が成り立つときかつその時に限る」という定義を与えることである。

 定義と呼ばれるものは三種類ある。実質的・約束的・辞書的である。

  1.  実質的定義 被定義項の本質的意味を定義項で言い換え、説明する。「人間とは理性的動物である」。正しかったり、間違っていたりする。
  2.  約束的定義 新しい語を導入したり、既存の語に新しい意味をもたせようとするときに使う。正しいとか、間違っているとかはない。
  3.  辞書的定義 現在どのような意味をもった語として用いられているかを述べたもの。用法を正確に記述しているかは問題が残る。

 ここにおいて目指されるのは約束的・辞書的なものであり、すなわち、提案された真であるという言葉の意味が現実の用法と一致するようなものである。このことは、一般にみられる用法・意味と見比べることと、真であるという言葉が有しているであろう形式的条件を満たすことによって検証する。

真であることの要件①:現実の用法との一致

 さきほど真であるという述語の外延、つまり「Xは真である」を満たすXがなにかという問題について、簡単にそれは文であるとみなした。しかしふつうそれは<信念>とか<判断>とか<命題><事態>といったものに対して適用されるとするのが一般的であり、これは真であるという言葉に対するひとつの態度を示している(論理哲学入門 (ちくま学芸文庫) 第一章)。そうとはいえ、信念、判断、命題といったようなものはいずれにせよ文の形で表現されなければならず、ここで外延を文であるとするのはそれほど不自然なことではない。ところで”Snow is white"という文は英語においては真とみなされうるが、日本語においてはそうではない。そもそも日本語からすればそれは文ですらない。このことを留意しておこう。

 さて、たとえば「雪は白い」という文が真であるのはどのようなときだろうか。それはもちろん雪が白いときであろう。もしもこれを満たさないようなものは、私たちは決して真であるとは呼ばない。

文「雪が白い」が真であるのは、雪が白いときに限る

 違いは鍵かっこで囲まれているかいないか、しかない。「雪が白い」というのは別の言い方もできる。たとえば””Snow is white””という文は、アルファベットを通常の順序で並べたときに、「最初の語はアルファベットの19、14、15、23番目の文字からなり……から構成される文」といえる。これをXとかけば、

Xが真であるのは、pときに限る

 と、上の定式を一般化できる。*1

 真であることの定義に要求される要件としては、①この形の同値文すべてが肯定できるような仕方で真であることが用いられること、そして、②真理の定義からこの形の同値文のすべてが導出されるということがある。この二つを実質的適切性条件と呼ぶ。

 

 それならば、上の定式をそのまま真であることの定義にしてしまえばよさそうなものだ。つまり、文1に対して真であるを定め、文に対して真であるを定め、……といつまでも繰り返せばよいのである。普通の言語は文が無限個あるので、

すべてのpに対して、「p」が真であるのは、pときに限る

 とすればよい。だがこれはパラドックスを引き起こす。それは「私の言葉は嘘である」の真偽を考えるときにあらわれる。もし本当だとすると嘘だし、嘘だとすると本当のことを言っていることになる。

※ところで、なぜパラドックスを避ける必要があるのだろう。それは矛盾しているからである。なぜ矛盾していてはいけないのだろう。それはなにも言ったことにならないからである。もしそれがそうであると述べたいならばこれを守らなければならないという規範にしたがっている。ポイントは、p∧¬pがありえないということを前提しているわけではない、ということだ。

真であることの要件②:パラドックスを避ける

 パラドックスを生じさせる言語Lの条件は以下のとおりである。

  •  (意味論的に閉じた言語)LはLに属する表現、たとえば文を含むのみでなく、その表現の名前をも含み、さらに、Lに属する文に対して適用される「真」という語をも含む。またそこではXが真であるのは、pときであるという形の同値文がすべて肯定される。

 より詳しく言えば、

  1.  Lはそれに属する表現(”snow")のほかに、その表現の名前(アルファベットの19、14、15、23番目の文字からなる語)をも含む。
  2.  Lはそれに属する文のほかに、その文に適用されるべき「真」という語を含む。
  3.  Lでは、Xが真であるのはpときであるという同値文がすべて肯定される。

 そして当然のように、1,2がなければ3などありえないので、パラドックスを避けたいなら1,2のいずれかが拒否されなければならない。この二つに見られることは、つまりある言語表現と、その表現について何かを主張する言語表現があるということだ。たとえば雪については、「雪」という漢字について語ることもできる。

 すると意味論的に閉じた言語にしないようにするためには、言語について語る言語(メタ言語)と言語(対象言語)をはっきり区別して、混じらないようにしないといけない。二種の言語が同時に含まれるような言語を用いると、意味論的に閉じてしまう。真偽はメタ言語であるが、『Sは真である』は真である、と語ることもでき、対象ーメタの区別は相対的なものである。私たちとしては、どの「階層」にある真理述語なのかをはっきり把握する必要がある。

 真理の定義はメタ言語において構築されることがわかった。くわえて、先ほど「真である」ということの定義がもつべき実質的適切性条件も明らかにした。まずわかることは、

Xが真であるのは、pときに限る

 であるから、対象言語に属する任意の文はメタ言語に属さねばならず、Xを構成できるほどに語彙が豊富である。また、「……であるのは…ときに限る」という表現を含む。このことは、メタ言語は対象言語よりも豊かでなければならない、といわれる。

 

 

*1:このように一般化することのひとつの理由としては、「雪は白い」は真であることの定義のうちに雪が出てくるので循環定義だという疑いを晴らすためだと考えられるが、x<yの定義にx,yが出てきても循環ではないように、それほど心配するものではないと思われる。