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にんじんと読む「善い学びとは何か」

第一章

 学びとはなにか、学ぶことの価値とはなんなのか。

 学ばれるものを知識と呼ぶことにすれば、知識には以下の三つの種類が考えられる。

  1.  命題的知識 かくかくしかじかであるという知識
  2.  ノウハウの知識 ピアノを弾くなど、ある活動のためのスキル。ピアノを弾くことができる人でも、ピアノに関する命題的知識を持っていなければならないわけではないしなぜ弾けるのか説明できる必要もない。
  3.  どうようなものなのかの知識 たとえば料理教室に通う生徒がお手本の料理を試食しながら味を舌で覚えること。ノウハウの知識とは異なり、態度や行為で発揮されるものではない。

 ここでは学び方として、「問答を通じて考える」ことに限定する。それは知識の獲得や理解の深まりなどを目指して問いと答えのやり取りを通じて考えていく実践のことである。この学び方はソクラテスなどにもみられるように、古くから知識獲得と深い理解のための主要な方法だった。問答を通して人は自分が気づいていなかったことに気付いたりする———しかし、このような学び方は、たとえばGoogle検索やAIに質問して知識を得ることと比較して、どのように位置づけられるのだろうか?

 本書の結論を先取りして伝えておこう。以下ではこのことを詳しく見ていくことになる。

 善い学びとは、学ぶ者が固定観念を中性化できるようなもののことである。

 固定観念の中性化とは、ある人が自分の反省だけで気づけないほど凝り固まった見方や考え方について、それが一つの個別の見方や考え方であることを認識することである。それは同時に、別の見方や考え方があるという可能性の認識を拓くことである。

 なぜこれが善い学びといえるのかについて、2つの観点「どうして私にとって善いのか」「どうして社会にとって善いのか」から答えることができる。前者からは、このような学びを通して個人が自由な認識主体となることができる、後者からは、このような学びは社会における認識的不正義を是正することにつながり、良い意味での認識的多様性を認める社会の実現に貢献する、という答え方ができる。

 問答という方法は、認識論においてはそれほど注目されてこなかった。

 注目されていたのは「正当化」という概念で、私たちの信念がどのような条件を満たすならば正当化されていると言えるのか、その条件に関心がもたれていた。正当化は認識者の信念にかかわり、問答は認識者が気づいていない知識の発見に関わる。だから、獲得された信念が正当化される文脈と、知識が発見される文脈は区別されるだろうと考えらえる(正当化文脈と発見文脈の区別可能性は科学哲学の中で議論されている)。

 問答には三つの基本的特徴がある。

  1.  問答は目標の問いに答える探求プロセスの一環として行われる実践であること 問答の目指す目標には様々な種類がある。たとえば患者は病気に対処するという実践的目標をもって病院を訪れる。だがここで注目したいのは、何らかの認識的善を目標とするものである。すなわち、単に知ることに重きをおくものである。問答はそのような問いに答えようとすること(探求)のプロセスの一環である。探求は他にも様々なプロセスがある。たとえば先行研究の検証、実験、調査、データ収集、分析、まとめること。
  2.  問答は一連の議論の連鎖からなる 問いと答えのあいだには論証的なつながりがある。「乳がん早期発見の手だては?」「一定年齢で無料検査がいい。~~というデータもある」「他のがんはどうなっているでしょうか」ただし答えの理由は明示されていない場合もある。また、問答は多くの証言に依拠して行われる。証言とは、他者からの得られる伝聞や報告である。私たちには理解することの難しい内容でもそれを呑み込まなければならないこともある(認識的依存)。依存して信じられた命題の集合を前提と呼び、常にその適切性が問題として提起されうる。
  3.  問答は知識や情報の要求と応答として、一人ないし共同で行う関係的な認識行為 問うことはその文脈において知識や情報を求めることであり、答えることはその要求に応答することである。問答は一人でも、複数でも行うことができる。しかしたとえ一人で行うとしても、その問いをもったきっかけは自分以外のものだろうし、教科書など多くの人々の証言を参考にするだろう。

 問うことの主要な目的は当然相手に関連情報を求めることである。しかしそれと同程度か、あるいはそれ以上に、問いそのものを吟味することに従事することも多い。誰かとあるトピックについて話しているうちに、自分が本当はなにを追求したいのかはっきりしてくる経験がだれしもあると思われる。このことも、問答の認識的役割の本質的な要素であろう。

 問いには前提が伴う。たとえば、<乳がん予防に有効な対策とは>という問いは、乳がん患者の増加や何らかの対策が必要であることを前提としている。もし乳がん患者が誰一人おらず対策が必要だと誰も思っていない状況でこのような問いを発してもその問いかけの意味は小さくなるだろう。そしてこうした前提を持つ問いに対して直接の回答を与える回答者も、その前提を共有していることになる。すなわち、対話者はその問いの前提にコミットしている、ということになる。つまり、問いの前提を構成する命題が真であることを受け入れている。

 問いを設定すること、それは探求の枠組みを与えることである。より正確にいえばそれを構成する諸前提をも含んで探求する枠組みを与える。その問いは問答のなかで明確な問いへと置き換えられていく。それは前提を吟味することでもある。つまり問答の役割は問いを設定し、明確にし、洗練させていくことを通じて(「問いほぐし」)、問いとその前提からなる探求の枠組みを創り出し、それを組み替えていくことである。

 このことから探求と問答の区別について次のように結論づけられる。

 探求とはある認識的目標を見定め全体としてその獲得に向かっていく実践であるのに対して、問答はそのような探求の一部として、探求の枠組みを創成し、組み替える役割を果たす実践である。

 

 この問いほぐしの社会的次元について考えよう。

 たとえば患者が病院で診察を受け、処方された薬を決められたとおりにのんでいたとする。患者は世話になっている医師のいうことを受け入れるとしよう。医師が信念Pを持っており、医師がPを患者について伝える時、患者にとってその医師の証言がPを信じる理由になる時、医師は患者に対して認識的権威がある、という。

 ところがどうも今回は体調がすぐれない。いつもと違う気がしますと伝えると医師はもう少し様子をみようと応じる。すると患者はどれほど不審に思っても彼の言うとおりにするかもしれない———ここにはひとつの問答があるが、日常的には参加者同士の非対称的な社会関係によって影響を受けている。この例はどちらかといえば否定的なものであるが、肯定的影響も考えらえる。良い教師は子どもの真摯な態度に応えて問いほぐしを続けてくれるだろう。

 このような問答の社会性、すなわち様々な社会関係のネットワークの中で行われるということを考慮しよう。肯定的・否定的の両面から見る必要がある。ある場合においてはその人の社会的地位によって知識の主体として正当に扱われず様々な不利益を被ることがある(「認識的不正義」)。

 次に問いほぐしの身体的次元について考える。問答とはそれぞれの仕草・表情・肉声・ふるまいを感じその問いに応答するように触発される。たとえば子どもの真剣なまなざしは対話者を気にかけさせ、問いに気を配るようになり、応答関係に入り込んでいく。

 

 

 問いほぐしというものの認識的・社会的な位置を見てきた。次は教育的次元について考えよう。問いほぐしと学びの関係について見るために、①問いほぐしのスキル習得、②知識を刷新し理解を深める手段であるということ、③問いほぐしのプロセスでの学びの経験という、問いほぐしの三つの特徴を強調しておこう。

  1.  問いという言語形式を適切に用いるようになるためにはスキルが必要
  2.  問いほぐしによって、新たな知識を得たり、知識を刷新し理解を深めることができる。問いほぐしによるこのような学びの機会は学校だけでなく日常生活にあふれている。
  3.  問いほぐしは知識を得たり洗練したりする手段であるだけでなく、それ自体が学びのプロセスである。誰かとの問答で得られる知識は専門家の証言や雑誌などからも得られるかもしれない。しかし交流会などでの探求を通して、それ以前には気づかなかった疑問点を自覚したり、別様なアプローチの可能性を模索できるようになる。知識獲得自体の結果の有無にかかわらず、それ自体が学びになっているのだ。認識的観点からのみ問いほぐしを考えると、問いほぐしは「知識獲得・刷新」の単なる手段であり、対話者がどのような経験がしたのかは単なる苦労話にすぎない。だがそれを教育的観点からみると、そのような経験が学びの主体の変容にとって独特の意義をもつ。問答のなかで考えあぐねたり、なんと答えていいかわからなくなったり、別の言い方をすればよかったと思うことは、当の問題を解決するために必要なことについて考えなおしを促すだろう。

 以上のように、問いほぐしは認識的手段であるだけでなく、学びの経験を積み重ねるプロセスである。私たちは問いほぐしを通じて学びについての優れた行為者へと成長していく(有徳な行為者)。

 さて、徳認識論は、知覚・感覚器官や性格特性など、知識を獲得する行為者の諸特性に着目することで様々な認識論的問題を検討する認識論の分野である。そこで「知的徳」とは、真理・知識・理解などの認識的善の獲得に貢献する人の諸特性のことをいう。ではそれは一体どんな諸特性なのか。一方では知覚・感覚器官や認知能力を、一方では性格特性を、知的徳だとみなす立場がある(信頼主義/責任主義)。

  •  信頼主義では、知覚・感覚器官や認知能力が知的徳であるとは、それらの通常の機能を発揮できる環境で、認識主体が信頼できる割合で真なる信念の獲得に成功することである。信頼性とは、偽なる信念よりも真なる信念を獲得する割合が高いことだが、どの程度の割合を求めるかは意見が分かれる。知覚・感覚器官や認知能力は認識的善獲得のための信頼できる手段・道具である。
  •  責任主義では、知的徳とは性格特性のことである。たとえば知的探求心の強い人はいろいろなことに疑問を持ち解決方法を考えるし、注意力のある人は、実験中の事故に注意し手順を確認し入念に点検するだろう。つまり行為者を適切な場面で知識を獲得したり理解を深めようと動機づける性格特性のことだ。だからたとえば詐欺師は詐欺をうまくするために最新の注意を払うが、詐欺師の動機は金品なので知的徳があるとはいえない。あるいは、実験の準備に最新の注意を払う人の動機が、<さっさと帰りたい>であった場合は、その注意力は知的徳とはいえない。/さらにこれ以上のことを求める立場もある。たとえば実験の準備に最新の注意を払い認識的善を求める人だったとしても、その人は集中する経験があまりなく意に反して注意力散漫になってしまうとしよう。これは知的徳があるといえるのだろうか。知的徳が単に動機付けだけでいいのか、傾向性まで求めるのか、という問題である。
  •  さらに別の立場として、知的徳とは信頼主義と責任主義の両方を満たしたものだとするものがある。もしも集中して取り組み認識的善を求めているとしてもその人があまりにもミスが多くきちんとしたデータが全然得られない人は、知的徳があるとはいえない、というわけだ。ここで重要なのは、信頼主義と責任主義は互いに相容れないものではなく、同時に取り入れることができるという点である。

 少なくとも学びという文脈においては、知的徳の対象は性格特性であろう。つまり「問いほぐしによる学びに関連する知的徳」はまず責任主義の捉え方をする。だから問答においてもそれが認識的善に向いていることが重要である。たとえばAさんとB子さんが問答しているとき、B子さんは星の輝きに興味があるのに、Aさんは<ずっとB子さんと話をしていたいなあ>という動機だったとすると、Aさんは問いほぐしによる学びの動機づけを持っているとはいえない。

 また、ここでは動機だけでなく傾向性も要求されるだろう。問いほぐしは一つのことについてある程度まとまった時間、考える営みであるからだ。さらには、実際に信頼できる割合で問いほぐしが成功する必要がある。あるとき二人の会話がうまくいき、星について深く考えられたとしよう。だがその成功が今回かぎりのことであり、他の機会では全然失敗してしまうとしよう。つまり彼らは動機付けや傾向性は持っているが、まだまだ有徳な行為者としては不十分なのだ。以上の三条件が「善い学び人」の基準といえる。

 だが当たり前のように、問答に参加する人が全員これを満たすわけではないし、満たしていなければならないわけではない。私たちは問答を通して、動機づけられ、安定して行為できるようになり、成功の割合を高めていく。ここに問いほぐしの教育的な価値がある。

第二章

 哲学は固定観念や常識を疑うことからはじまると言われる。

 この固定観念とはそもそも一体なんなのか。どのような認知状態なのか。自分で反省して気づくことができるようなものなのだろうか。そしてもし固定観念が個人では捉え難く反省だけでは修正が難しいとしたら学びの価値にとっては深刻である。

 固定観念は次のような特徴があると思われる。

  •  固定観念の内容は総称文で表現される 複数の個体や出来事について、その特性を一般化して述べる言明。過度に一般化されたり、細かい場合分けがされていない場合が多くみられる。
  •  固定観念には正当化されているものがある 何らかの仕方で正当化されていることも多い。たとえば「物体が重いほど水に沈む」という小学生は、それを自分の知覚経験から帰納した結果形成してきたものかもしれない。たとえば「地動説」という仮説を私たちは信じているが、それは自分で実験したわけではないし日常的な知覚経験で確かめられるものではない。それは教科書や科学者の証言によるものである。
  •  固定観念は記憶力などの認知内容を制約し、判断内容や行為の選択に影響を与えうる
  •  固定観念の多くは無自覚にもっているだけではなく、個人の反省だけで気づくのは難しい 非明示的な固定観念は当人がそれに気が付いていないもののことであり、意識的にそれに対して注意を向けることができない。そしてほとんどの固定観念は非明示的である。

 個人の認知状態が固定観念に盲目であるということを定式化しておこう。人物aが或る見方や考え方Pに盲目であるとは、aの認知状態ではP以外の考え方が存在しないということである。このことを反対からいえば、「Pはaにとって単独の考え方である」といえるだろう。なぜなら他の考え方との比較を絶しているためである。

 これに対して、「Pがaによって個別的である」とは、aによってPが他の可能な見方や考え方の一つであることである。Pがaにとって選択肢のひとつになるのだ。

 さて、固定観念の中性化とは、単独だった考え方を個別化することとしよう。個別化とはつまり、その見方や考え方に問いがあることを認知し、学び直されるべき事柄として把握することである。これを行うにあたっては、問いを設定し吟味し洗練していく問いほぐしによる学びが有用だと考えられる。

 善い学び人の三条件を第一章で考えたが、これを教育的観点から見る時、やや強いのだった。学ぶ者は問答に参加する以前から卓越した学び人である必要はない。様々な問答に参加し経験を積み重ねることで、以前よりも少しでも固定観念を中性化するように動機づけられ、必要な行為を遂行し、信頼できる割合で中性化を達成できるようになる。そのような学びは単なる信念の修正にはとどまらない。これまでその固定観念によって制限されてきた認知が自由になり、別の考え方を想像したり、判断を柔軟化したり、可能な行為の幅を広げていく(認知的変容)。

 すると善い学び人とは、固定観念を中性化しようと動機づけられ、固定観念の問いほぐしに必要な行為を発揮し、中性化に信頼できる割合で成功する者だといえるだろう。教育者は彼らの認知的変容を促さなければならない。

第三章

 固定観念の問いほぐしとしての学びの観点において、教育関連概念がどのように捉えられるのかをみていこう。たとえば「探求心」である。これはふつうには、問いに次々答えていく欲求と考えられている。しかし探求心はあっても、それが持続できるかは自然なことではない。自然な探求心から発揮される行為は散発的であり、一時的である。探求対象は変わりやすく、特定のものに焦点が定まらないことがあるし、探求心の動機は単純に気分である。いったいそれをどう育めばいいのか。

 このための教育法のひとつとされているのがソクラテス的教授法」である。これは簡単な問いから質問していき、ひとつひとつ答えさせることで目標の知識や理解に到達させるものである。だがそもそも探求の対象が絞られていない相手にこれをやったところでどうにもならない。なぜ相手はずっと探求の対象を変えないと前提できるだろうか? この前提を満たすためには、この教授法が見落としている教える者と学ぶ者の間の関係について見る必要がある。

 

 問答は社会関係のネットワークのなかで行われ、対話者の間での社会的な力関係は非対称な場合が多い。問いほぐしにおいて教育者は学ぶ者と対等ではない。そこでの教育者の役割は「ソクラテス的お手本」と呼べるようなものであろう。

 お手本とは、その人の継続的な言動によって特定の能力やスキル、あるいは、性格特性を強調して示す人物のことである。ここでは探求心のような性格特性を示すお手本に焦点を絞ろう。問いほぐしに従事する教育者はお手本として、自分の問いだけでなく他社の問いにも関心を払いながら考える姿を子どもとかかわりながら顕著に示すことで探求心を示す。これを「ソクラテス的お手本」と呼んだのだ。

 だがお手本だけでは持続には充分ではない。問答に慣れていない者は見当はずれのことを言ったりする。教育者はその点を配慮していなければならないし、自分で問いほぐすための適切なアドバイスをしてやれないなら生徒はどうしていいか困ってしまう。つまり問答に従事する姿を見せるだけでは駄目なのだ。

 

  •  まず教育者は信頼されていなければならない(ソクラテス的権威)。前に認識的権威としての「医者」を説明したが、教育者は専門家ほどの専門的知識やスキルをもつ権威として信頼されていなければならないわけではない。問いほぐしの文脈で認識的権威がある人というのは良い対話者として問いや応答について信頼がおかれている人である。ソクラテス的お手本としての教育者のソクラテス的権威は、学ぶ者のニーズに対する配慮(認識的ケア)をすることによって培われる。
  •  生徒のレベルに合わせて質問の仕方を変えたり、具体例を出すように求めたり、他の見方や考え方の可能性を示唆するよな事例を示すなどである。あるいは生徒が安心できるように、安心して問えるようにする必要もある(情動面の認識的ケア)。生徒のもっている背景知識や理解力に応じた適切な学びの環境を示唆することも必要である(環境面の認識的ケア)。

 

第四章

 前章では、探求心の育成としてソクラテス的教授法を挙げ、そこではさらに教育者との信頼関係や認識的ケアが大切だと論じた。ところで、問答は問いと応答の繰り返しであるため、批判的思考力が欠かせない。次はこの批判的思考力の育成に焦点を当てよう。

 批判的思考力は理由評価と批判精神から構成されることは多くの研究者に受け入れられている。前者は理由を考える能力、理由と主張の結びつきの強さを評価する能力、演繹や帰納といった推論力、類比的説明など論証するために必要な技能であり、後者は、批判的に思考するよう導かれる傾向性、そのような心の習慣性、理由を考えようとする動機、公平に考えようとする公平性等の性格特性である。

 理由には証拠力・証明力がある。たとえば<排気ガスオゾン層を破壊する><オゾン層の破壊は地球温暖化につながる><従来型の車から排気ガスが出ている>ことを知ったとき、或る人は<従来型の車の運転は地球温暖化につながる>と考え、電気自動車に買い替えるかもしれない。この買い替えの理由における証拠力は、諸前提の妥当性の程度であろう。証明力とはそうした理由がもつ行為者を動機づける効力のことである。シーゲルは、理想的な批判的思考者というのは証拠力を評価することに卓越していて、その理由に動機づけられる者のことだと言った。

 だがそもそも批判的に思考しようなどと思うのはなぜだろう。

 理由が提示される仕方は、私たちの情動や感覚を触発することがある。たとえば登場人物が様々な事柄について意見を交わしあう絵本や童話を読むことは、子どもに理由を考えるように誘うかもしれない。あるいはリアルな現実を映像で見ながら理由を提示することで物語に引き込まれ理由を考えるよう強く動機づけられるかもしれない。

 絵本や童話は、批判的に思考しようという動機要因の候補となる。それらを用いて「理由」を魅力的な仕方で提示することは子どもに情動や感覚を喚起する。だがすべての情動や感覚が批判的思考の動機になるわけではない。小さい子どもにとってキャラクターはそれぞれ異なる合理性を示す手本でありうる。彼らが理由を考える姿はまだそれに慣れていない子どもたちにとってよい手本になる。

 

第五章

 この章では知的自律性について考える。自律性とはどんな事柄も他人任せにせず自分自身で考えることだとされてきた。知的に自律しているとは<証言をそのまま信用せず自分でチェックせよ>ということなのだろうか。教科書の内容をすべて洗い出したり、物事の仕組みについていちからすべて自分で確かめなければならないのだろうか。自分で正当化したからといって疑いないわけでもなければ、人間にすべてのことをカバーすることなどできるわけがない。知的自律性というものに適切な認識的依存を組み込むのが自然なのだ。

 個人にとっての通常の認識環境において、その個人にとって正常な視覚や聴覚機能や、記憶などの認知能力を用いる状況を「デフォルト状態」と呼ぶ。この状態において私たちは感覚器官や記憶力、計算力などを用いて前反省的に獲得した信念を信じる。たとえば視覚などは十分に信頼できる情報源となっている。もちろんこのデフォルト状態には目の良し悪しや体調、経験、周囲環境によって異なるがいちおう信頼できるソースであるといえるだろう。次に「認識的誠実性」とは、新たな信念を獲得した時にもし不協和が生じそれを察知したならば反省能力を行使しようとする傾向性のことである。

 知的に自律している者とは、認識的誠実性をもち、必要な場合に反省的に熟慮することで不協和を解消して心的状態の調和を保つように促される者のことではないかという案が浮かぶ。これを自己管理としての知的自律性という。彼はデフォルト状態に対する信頼があるが不協和を察知すると反省的に熟慮しバランスを取り戻そうとする。この自己管理としての知的自律性は、認識的権威の証言をある程度認めることができる。もしそれが各自の自己反省を満足させる限りで、である。

 ただし、不協和は心的なものであり、きわめて個人主義的なものだといえる。それに不協和が生じないのは凝り固まった固定観念を持っているためだと言える場合もあるだろう。そのような人を知的に自律していると呼ぶわけにはいかない。そこで私たちは再び問答に立ち戻る。それは問いに対する応答責任である。