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にんじんと読む「ブッダが考えたこと」 はじめに

はじめに

ブッダは人類史に記録がある中でも、最大の思想家――かつ最高の人格者――の一人とみなされてよい。

とはいえ、私はブッダの考えがすべて正しかったと考えているわけではない。

したがって私は、自分が仏教徒であるとは考えていない。だが私は、ブッダの思想を理解することで、少なくとも彼への真摯な畏敬の念を抱くようになったし、その点では何百万もの仏教徒に劣らないと思う。

リチャード ゴンブリッチ著作2冊セット ブッダが考えたこと プロセスとしての自己と世界+インド スリランカ上座仏教史 大名著 絶版超レア

 ここで取り扱われるのはその構成要素のすべてが相互に連動している体系である。これを正しく理解するためにはそのひとつひとつの要素の意味の説明をするのではなく(時間がいくらあっても足りない)、ひとまず次のことを指摘しておけば十分である。ブッダにとっての主要な関心事は、我々が経験できるもの、意識にのぼりうるものであり、「世界」とは「我々が通常経験し得るところのもの」である。

 ブッダの教えの根本的な論点は、我々の生におけるすべてのものが変化するということであり、すなわち、我々の大部分は不変の事物を何一つ経験したことがない。しかしそのように変化し続けているとしても、そのあらゆる段階で連続性を認識していない限り我々の生が続くということもない。言い換えれば変化はまったくランダムに生じているのではない。あらゆる現象がノン・ランダムな変化を示すが、このことを表現するより簡単な方法は「すべてはプロセスである」と言明することであろう。そしてこれこそがブッダの立脚点なのである。ブッダ自身はこのことを「何も原因なしには存在しない」という命題に定式化した。

 仏教は「無我」などで知られるように個々人の連続性を否定しているように誤解されているが、実際は仏教ほど強固に個人の連続性の観念を有している宗教はない。なぜならブッダは「何も原因なしには存在しない」と確信しているので、個人の生のはじまりというものはあり得ないからだ。仏教徒は無限に繰り返される一連の生に及ぶ個人の連続性を信じている。ブッダによれば涅槃への到達によってこの繰り返される物語に終止符を打つことができる、つまり、生まれ変わることがないのだという。そしてブッダこそが最後のブッダであり、彼の前世物語(ジャータカ)は仏教文化の不可欠な部分を形成している。

 一方、数えきれないほどの生の連続のなかで今なお生きている我々は、その無限回の生を引き継いでいる。ブッダの世界観を理解するためのキータームのひとつが「カルマ」であり、それは我々の生の連続性を構成している。とはいえ、それは連続性の構成の一部分にすぎない。「我」を構成するのは五つのまとまり(蘊)であり、それぞれ『五感を介しての物理的世界との相互作用』『快や不快などの感受』『対象の同定を行う認知――統覚』『サンカーラー』『意識』である。サンカーラーとは他の蘊には含まれない精神的なプロセスであり、通常の訳では「意欲」とされる。カルマとは倫理的な意欲のことである。この意欲は決してランダムなものではなく、先行する意欲によって部分的に条件づけられている。

 ブッダは「すべての思考・言葉・行為の、肯定的または否定的な道徳的価値は、その背後にある意思に依存する」と説いた。倫理的価値が意思に存する以上、個人は自律的であり、最終的には彼の良心が最終的権限を握っている。責任をなすりつけられる神のような外的決定者はおらず、全責任を我々は負っている。人は自分自身に対して責任を有するという現代の教育と心理療法で繰り返し説かれる気づきを紀元前五世紀の昔に言い出したこと自体驚嘆すべきことである。自らの決断の責任を自分自身で負うというのは、知的判断能力に相当な重きをおくということでもある。ブッダは、師が間違ったことを述べた時、不適切発言をしそうになったときは、弟子にはそれを正す義務を負うという規則さえ設けていた。