にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「なぜ今、仏教なのか Why Buddhism Is True(ロバート・ライト)」🥕 仏教の真実一覧

仏教の真実一覧

「真実」としてここにあげたものすべてが仏教の教義とはかぎらない。むしろ仏教思想から得られる教訓や示唆に近いものがある。しかしいずれも、神経科学や心理学をはじめとする現代科学、なかでも人類の心が自然選択によってどのように形づくられたか研究する学問である進化心理学による十分な裏づけがあると考えている。

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

 

 にんじんなりにこれを嚙み砕いたり、要約したりしてみよう。

 

 ① 人間は世界を明晰に見られないことが多く、それが原因で苦しんだり、ほかの人を苦しめたりすることがある。世界についてこのように代償の大きい謝った理解はさまざまな形をとり、以下のように仏典によってさまざまに触れられる。

 

 読み飛ばしてしまいそうだが、ここで大事なのは「世界を明晰に見られないこと」が原因だという点だろう。苦しみは世界を明晰に見ていないがゆえに起こる、こちら側の問題なのである。

 

② 人間は目標を達成することで、長つづきする満足が得られると期待しすぎる傾向がある。

 

 これを自然選択によるものだとしたのが、この本の第一章の内容であり見事な要約になっている(つまり精読の必要はあまりない)。どういうことかというと、「目標達成」に伴う快楽を準備していた種のほうが生き残ってきたということだ。そして「その快楽は長続きしない」ことも。人は快楽を求めるが、そう求めるように長い時間をかけて進化してきたのである。それは失いやすく、人はまた快楽を求め、また失い、また求める。

 

③ ドゥッカ(不満足=苦しみ)は人生に浸透している。

 

 ②から明らか。おおむねいつも不満足になるように設計されているのだ。

 

④ 『四聖諦』で明らかにされるドゥッカの原因(タンハー)は、進化心理学を背景にすれば、好ましいものへの執着と好ましくないものから逃れたいという忌避から成り立つ。忌避に関連する苦しみを消し去れば、たくさんの苦しみが消える。(第13章)

⑤ 人間は④で言及した執着と忌避に服従しがちな傾向を、瞑想法によって弱体化できる。永遠の解放をニルヴァーナといい、到達可能かは意見が分かれる。誤解してはいけない。執着と忌避から逃れたからといって、感覚が鈍くなるわけではない。むしろ、感覚との関係が改まることで、美や畏敬、思いやりなどの特定の感覚が研ぎ澄まされる。

 

 最終的な目標はやはり悟りであるが、そうでなくとも、やる甲斐はある。

 

⑥ 自然選択はいろいろな種類の感覚を人間に組み入れた。私たちはそれを「私のもの」と無批判に同一化してしまう。瞑想を通じて反射的な同一化を避けるようになれば苦しみが減るだろう。

⑦ 自己は存在しない。あなたを統御するCEO自己は存在しない(心のモジュール仮説)。

 

 複数の自己については、だれもが偽善者になる本当の理由なども参考になる。

 

⑧ 「自己の境界が消え、はじめからある意味で幻想だったように感じる経験」については実験的にも理論的にも裏づけが得られていないし、裏づけは困難である。

⑨ しかし道徳的正当性に関していえば、自己とほかの人の利益の順序づけがあいまいになるため、進化生物学的には支持される。

 ⑩ ものにはその本質があるという「本質主義」は錯覚である。本質主義は相手の苦しみを黙認したり相手を故意に苦しめたりすることに繋がりかねない。

⑪ だからこそ、そのような錯覚のうちにいること、つまり世界を明晰に見ないことは自分自身の苦しみに繋がるだけでなく、他者をいたずらに苦しめる。

⑫ 多くの仏教の教えは「条件づけへの気づき」という項目でひとまとめにできる。瞑想は条件づけに注意深くなることで、その影響パターンを自覚し変える力を与えてくれる。

 

 

 ニルヴァーナには因果から解放されるという意味と、それによって輪廻から逃れるという二つの意味がある。人の脳は自然選択によって飛び込んでくる入力にある程度反射的に反応するように設計されている。この支配の要となるのが快と不快だ。快を求め、不快を忌避する傾向にまかせるなら、まわりの世界に支配され続けることになる。瞑想はそうした条件づけを一歩引いて見ようとするものである。

 マインドフルネス瞑想は「判断しない」ことを目指す側面もある。つまり、『自分の感覚に無思慮によし悪しのレッテルをはることをせず、感覚から逃げ出したり性急に受け入れたりしない』。だからこそ、理性が働くこともできる。自分の感覚に無関心すぎるせいで感覚に振り回されることがないようにできる。私たちはある意味、自然選択という巨大な敵を相手にしている。悪者ではないが、彼は生命体の遺伝子を運ぶことに興味はあっても個人の幸福には興味はない。