にんじんブログ

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「死」についてTHINKする

 にんじんはこのところ、「死」についてよく考えます。

 

にんじんと考える「死」

 以前、『キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生』という本を読んだとき、人生というゲームについて考察したことがあります。にんじんは、人生は死を目的とするゲームだと主張する論文を拒否しましたが、今は少し違う考えを持っています。人生は死を目的としてはいません。目的をもつことを目的としています。私たちはゲームのなかで生きようとします。「私が生きている意味はなんなのか?」そう問うのも、この人生全体をゲーム化しようという傾向のあらわれのように思えます。私たちはなんの意味もない、なんの目的もない、なんの根拠もない苦しみを恐れます。「死」はその最たるものです。だから「死」をどうやって迎えるかは、理論的にも、ひとつの重大な問題になってきます。

 完全に分類することはできませんが、いくつか死に方を考えてみましょう。単純に行動するロボットAを動かしてみることにします。他にもいろんなタイプがあるかもしれません。大きく分けると、死を目的化するか、しないかです。

  •  Aは、或る条件のもとでの「死」が自分の利益になると考えるかもしれません。たとえば天国に行けるという信念をもつかもしれません。こうしたタイプは信じ切ることさえできれば死ぬのが楽です。いや、もちろん痛いし、楽ではないのですが、死に悩むことがないという意味で楽です。条件さえ整えば「やらせてくれ!」と志願するでしょう。しかし、もし人生のなかで条件が整わないことを考えると、Aは私たちと同じ苦しみを味わいます。
  •  Aは、或る条件のもとでの「死」が他者の利益になると考えるかもしれません。保険金を家族のために残すとか、わずかな食事を子どもに分け与えてやるとかです。確実にその行動が死に直結するとは限らない場合もあります。銃で撃たれそうな人の前に躍り出て身代わりになる場合も、死ぬとは限りません。また、漫画のように、強敵を前にして「先に行け」と言ったりする場合もそうです。「俺を置いていけ」もそうです。しかしだいたい死にますし、本人も死を覚悟してやっていることです。
  •  Aは「死」を単純に「終わり」だと考えています。それは、ゲームは一日一時間と言われるように、死は「その時が来た」と同じことです。この死に方がもっとも穏やかですが、この死はゲーム化されていません。本当に、「死」は終わりなのです。ただ単に、それだけです。もうゲームは終わった後なのです。Aの死には何の意味もありません。もちろんAを構成していた物質は残りますから、それはあとに影響を残すことができますが、Aがその影響を受けることは未来永劫ありません。他者の利益になることも、まぁ、ほとんどないでしょう。「死」は「終わり」です。

 私たちは最後の種の「死」を、受け入れることを拒みます。だから天国に行くとか幽霊がどうとかいうように、意味を残したがります。「すべてのものは最終的にあとかたもなく消え去る」という感覚は、意味付けを行なおうとするすべての人を絶望させます。だから、死に際して「未練がない」というのは、本当に有難いことです。にんじんは今のところ、その境地が自分の死についてベストなありかただと思っています。でも、死は常に身近にあります。未練ない境地に至る前に、そうなったらもう終わりなのでしょうか。「まだまだやりたいことがあるのに」となったときに「受け入れてください」としか言えないなんて、あまりにも寂しいことです。

 これを避けるためには「いつ死んでも別にいい」と思うことですが、どうしてそんな考え方ができるのでしょうか。そこに至るまでの時間を、「生」は用意してくれているとは限らないのです。未練がある、というのはまだやりたいことがあるということです。釈迦は欲を滅することを教えました。非常にシンプルな教えであることがわかります。でも私たちは釈迦の思想の前で止まることはできません。私たちには欲求があります。そのうえで、どうしていけばいいのか考えなければいけません。

 それは病院や医者とのかかわり方でもあります。病院は過ごし方が制限される場所です。お金も問題になります。

 

キリギリスの哲学―ゲームプレイと理想の人生
 

 

他者の死のケア

 病気になって死を待つ人にどのような声をかければよいのでしょうか。

 まず彼らは「死」を明確に意識している人々です。近い将来の、自分のほぼ確実な終わりを意識しながら生きるというのは想像を絶します。「こんなに苦しい思いをするなら早くお迎えがきてほしい」という人に、なんと声をかければいいのでしょうか? 間違いなく絶対に避けるべきことは、自分の考えを押し付けることです。自分の哲学的考察を開陳して、「さあ、死は無意味だ。OKOK」などといっても、何の役にも立ちません。もし心穏やかになってほしいと望むなら、そういう行動は慎むべきでしょう。

 『死を前にした人に あなたは何ができますか?』という本では、援助者が身につける五つの課題を挙げています。

  1.  援助的コミュニケーション
  2.  相手の苦しみをキャッチする
  3.  相手の支えをキャッチする
  4.  相手の支えを強める
  5.  自らの支えを知る

 まず第一に、私たちは、苦しんでいる人の苦しみをわかってあげられる人にならなければなりません。「苦しんでいる人は自分の苦しみをわかってくれる人がいると嬉しい」ということです。それは励ましでも説明でもなく、””聴いてくれる””ということです。本では、反復、沈黙、問いかけという三つの技法が語られています。反復とは相手の言葉を繰り返すことであり、沈黙は相手が大切なことを言うときの間を大事にすることで、問いかけは相手の思いを明確にして無意識の支えを意識化することです。問いかけがもっとも難しく、特に丁寧に学ばなければなりません。

 問いかけは信頼関係ができたあとに行うことです。たとえば「いろんなことがあったと思います。振り返ってみて支えになったものはありますか?」「これからどんなことがあると安心ですか」見えてきた支えをさらに強めるため「どんなお孫さんですか?」などと問うたりします。

 第二に、苦しみです。苦しみには答えることができるものとできないものがあります。痛みの緩和、湯船につかりたいときの身体介護・訪問入浴などです。身体的・精神的・社会的苦しみの多くは答えることができます。しかしスピリチュアルな苦しみ=自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛に応えることはできません。なんのために生きているのか、社会で何の役にも立っていない、何もできなくなっていく、どうして私がこんな病気に、といったことです。苦しみをゼロにすることはできません。最も難しいテーマです。ある意味、にんじんたちは哲学をすることを通して、この悩みに答えを出そうとしているともいえます。

 第三に、支えです。死を前にしても穏やかな人がいます。それは支えがあるからです。支えは大きく三つに分けて「将来の夢」「支えとなる関係」「選ぶことのできる自由」です。死が近い人にも夢を持つことはできます。死ぬ前に両親の墓参りをしたいというひともいます。あの世という宗教的な夢を持つ人もいます―――とはいえ、にんじんとしてはなんとなく嘘くさくも感じられます。このように「支えは人によって異なる」ので気を付けなければなりません。支えとなる関係というのは、たとえば家族や、施設のスタッフなどです。ここでも神様など宗教的なつながりを支えにする人もいます。三つめは「選ぶことのできる自由」です。これは支えを見つけるための視点です。

 ① 療養場所 ② 心が落ち着く環境・条件 ③ 尊厳 ④ 希望

 ⑤ 保清   ⑥ 役割  ⑦ ゆだねる ⑧ 栄養 ⑨ お金

 ひとつめ。どこで過ごすと穏やかな気持ちになるか。

 ふたつめ。どんなことがあると穏やかな気持ちになるか。

 みっつめ。どんなことで尊厳が奪われているか。どう解決するか。

 よっつめ。将来の夢と似ている。小さなことでもよい。

 いつつめ。身体をきれいに保つこと。どうしたいか。自分でするか誰かに頼むか。

 むっつめ。だれかの役に立つという意味。

 ななつめ。こだわってきたことを他の誰かにゆだねる。

 やっつめ。食べること。

 ここのつめ。お金の心配を取り除く。

 

 年をとると眠る時間が増え、歩く距離が短くなる。無理には起こさず、暗めの部屋で静かに眠れるようにしてあげることも大切です。

 

 

死を前にした人に あなたは何ができますか?

死を前にした人に あなたは何ができますか?

  • 作者:小澤 竹俊
  • 発売日: 2017/08/07
  • メディア: 単行本
 

 

健康と死と自由

 「にんじん養生訓」として書こうとしていた記事の序文をここに載せます。ずいぶん前に書いたものですが、生きている意味がないこと、無意味を避けるということ、人生に意味を与える大きなゲームに巻き込まれ、それから生き方=死に方につながっていくという流れ自体は今もあまり変わっていません。

 

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 健康の話をするときはいつも、自殺の話から入らなければならないとにんじんは思う。それは、今すぐ死にたい人間に健康は必要ない、ということでは決してない。仮に自殺するとしても不健康なために実行に移せずにいる人間もいるに違いない。ここで問題にしたいのは、そもそも健康など手に入れたところでどうするのか、死んだほうがいいのではないか、ということだ。このように考えることの効用は、特に「できるだけ長く健やかに」と漠然と思い描いている人々に対して根本的な自由に自覚的になってもらうことである。すなわち、今自分が自殺するのではなく生を選択しているというまさにそのことを。あなたは死んでもよかったのだが、なぜか生きているのだ。そしてこれは次のことも明らかにする。あなたが生きている意味というものはまったくなく、世界にとって主要な存在ではないということ。もちろん神的な存在に、生きるほうを選択させられているのかもしれないが、もしそうだとすると、あなたには自由というものは存在しない。だからこそ、これは根本的な自由なのである。

 私たちは生きるほうを選択してしまった。今すぐ死んでもいいのに。

 いや、私が選択したのは「死にたくない」であって、「生きたい」ではないというだろうか。つまり「死にたくはない。しかし生きたくはない」というよく聞くフレーズで表現されるような。それでもいいが、そうするとあなたは生命維持活動以外の一切をしてはいけないし、するべきではない。なにかを批判することなどありえない。そんなことは無意味だ。そして生命維持活動以外をしていないことをことさらにひけらかしてはいけない。そんなことにはなんの意味もない。このことに抗弁して「いや」と言ったとたん、「死にたくない」以上のことを表現することになる。人は無意味のなかに居続けることはできない。だからこそ、生きることを選ぶ。

 ニーチェはすべてが無意味であることを知り、そのなかに居続けることができる人間を「超人」と呼んだ。釈迦は目覚めた者のことをブッダといい、文献によると彼は実際にブッダになったらしい。「釈迦はなぜ悟ったときに自殺しなかったのか?」という問いはポイントがズレている。悟ったのだから、生きても死んでも彼にはどっちでもよかったのである。彼が行ったのは純然たる「遊び」であり、ゲームプレイである。人生はゲームだ、たしかにその通り。ただし、そのことを本当に理解している人間は(ほとんど)誰もいない。

 ならば釈迦やニーチェが正しいのか。彼らに付き従えばよいのか?

 ニーチェは「ヨーロッパのブッダになれるかもしれない」と言い、自らを釈迦とは正反対の人間だと言った。彼らの見解は自己というものが実は存在しないものであること、私のものであるという感覚も錯覚であることは共通しているが、その後の道行きが異なるのである。釈迦は欲望を否定し、ニーチェは歓迎するという点で、決定的に。だがここで言いたいのは彼らのことではない。言いたいことは次のことだけだ。「何をするべきかが示されることはありえない」釈迦は悟り、ブッダと成った。しかしだからといって、彼の言うことが正しいとは限らない(と同時に、間違っているともいえない)。それは選択に過ぎない。ニーチェにとって苦しみは存在の理由だった。『もしも、人が、それに対する意味、苦しみの理由を示すならば、彼はそれを欲する。彼は、みずから、それを探すのである。苦しみではなく、苦しみの無意味なことが人類を覆って広げられていた呪いであった』(道徳の系譜 (岩波文庫))。

 この帰結に対して、私たちは自然と倫理的な考察へと導かれるように思われる。そしてそれは実のところ、『健康』というものについて語ることとほとんど同じことなのだ。私たちが生きることを決めた瞬間から始めた根源的かつ最終的なゲームこそ、「いかに生きるべきか?」というソクラテスの問いに答えること、より正確には、答え続けることなのである。なぜ答えなければならないのか? そこに、意味はないのだが。

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

初期仏教 ブッダの思想をたどる (岩波新書)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 

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