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「論理哲学入門」ch.2

第二章 文、言明文、言明、判断

 論理学というものを考えるうえで、その基礎概念として存在論的なもの・心理学的なもの・言語論的なものをおく時代がそれぞれあった。現代は「言明文」が基本であるが、これに対応する存在論的概念は「事態」であり、心理学的概念は「判断」である。事態は「命題」とも呼ばれ、言明文で表されている当のものを表現するときに使われる「言明」もまたこれに相当する。一方、判断と一口にいっても「判断すること」は心理学的だが「判断されるもの」という意味でこの言葉を用いるなら「命題」と同じことになる。かように、これらの概念はゆるやかなつながりを持っている。どの立場を表明していたとしてもまったく素朴に別の立場のものに依拠していてもおかしくはないのである。ゆるやかでない場合のそれぞれの見解を注記しておく:

  •  強い形の存在論的見解:言語的なものに頼らないで事態がなんであるか説明できる。論理哲学論考『事態とは、諸対象の結合である』。
  •  強い形の心理学的見解:言語的なものに頼らないで判断がなんであるか説明できる。カント『判断とはさまざまな表象に関する意識が統一されていることの表象である』
  •  強い形の言語論的見解:言明文はあるが言明はない。

 存在論的見解の優勢だった古代においても、言語的なものに立脚している。たとえばアリストテレスの『命題論』は「文」に関する定義からはじまる。ところで彼のこの文の定義は現在に至るまで強い影響を与えている。すなわち名前と動詞を意味の最小単位とし、それを繋げたものが文なのである。この定義によると一語文は存在しない。だがたしかに「ペーターは」と言われたところで何が言いたいかはっきりしないのもたしかなことだ。だが「火事!」は立派にその役割を果たしているのではないか?

 むしろここでの誤りは『何かを伝えること』『何かを理解させること』のために名前と動詞のふたつがどうしても必要だと考えた点にあるのであって、文というものをそもそも『何かを伝える』という意味論的機能によって理解するならば一語文について考えることも許されるだろう。なにかを理解させようとするならばたとえ語であろうが「文として」機能しているのだ。しかし文にはさまざまな種類があり、必ずしもすべての文が何かを提示してくるわけではない。いわば私たちが語りたいのは文は文でも「言明文」であって、このような種類の文は依頼文や命令文や疑問文などとは違って、その人の言うことが真か偽かを問うことができる。

 以上によって文一般に関する漠然とした意味論的説明と、言明文の範疇に属するかという意味論的基準を手にしたことになる。

 ゆるやかな意味での存在論的見解や心理学的見解は、命題や判断について説明する際にこうした言明文の概念から出発する。たとえばフレーゲは言明文の「言いたいこと」「内容」「意義」のことを「命題」と呼び、言明文からそれをあぶりだす。たしかに私たちが言明文について考える時考えているのは、言明文の字面ではなくて中身であるから、言明文から言明・命題・思想に踏み出すのは自然だと思われる。フレーゲは言明文の構成要素が「内容」+「主張すること」と考え、疑問文の構成要素が「内容」+「要求すること」と考え、文のいくつかを区別しているがこれは厳密には正しくない。なぜなら「私はいま北海道にいます」という言明文は誰が使っても内容は同じだが、博多にいる人が使うのと北海道にいる人が使うのとでは異なるからだ。よって正確にはそれが発言される状況も加味して、思想というものを意義と状況の二因子の関数であるとみなさなければならないだろう―――さて、彼はこうした回り道をすることで「判断」というものにも位置を与える。判断するとはある思想を真と認めることである。判断という概念を判断すること(=判断作用)によって説明する意図がみられる。