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近代哲学の根本問題「主観/客観」

 

近代哲学の根本問題

 ピュロン主義者が言ったように、目の前にパソコンがあるという単純なものでさえも知識とは呼べないかもしれない。知識とはこの世界における確かなことである。パソコンがあるというのは疑いをさしはさむ余地がある。もう知識など求めるのはやめて、ただ現れるのに従うべきだ。

 そこへデカルトが来て「パソコンが見える、と私が思っている」のは正しいだろうと言い出す。彼は心的なもの(観念)に独自の位置を与え、ドレイファス&テイラーが『媒介説』と呼ばれる理論を生みだした(実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス))。しかしそこに、必然的に、問題が生まれる。「パソコンが見えると君がいくら言っても、パソコンがあることは帰結しないよ」。

 内的/外的で世界を区分してしまった以上、受容の側面と自発の側面に分かれる。この二つの矢印によって、いくつもの問題が発生してしまう。

  •  一般に考えられるところでは、パソコンは蛍光灯の光を反射してわれわれの目に入り……といった因果的連鎖を経てわれわれに受容される(「どのように受容されるか問題」)。
  • 人はそこから得たものを理性によって総合することで世界についての知識を得ていく(「どのように実在に達するか問題」)。
  • しかしもちろん理性は何をしてもよいわけではない。世界についての知識を得るためには完全に自由であるわけにはいかない。自発性は受容したものと関係するはずだ(「受容性と自発性の関係問題」)。

 極端な立場では、「外的実在があるという発想自体違うんじゃないか」とか、「自発的な主体なんかいるのか」といった解決策を出すこともできる。主観と客観のどちらか一方を消してしまえばこの問題は生まれないからである。しかし大抵の場合、哲学の歴史は主観と客観を調停するために動いてきた。

 ライプニッツとヒュームは極端な立場に立つ。

 たとえばライプニッツは〈モナド〉という、原子とは種類が違うすべてのものの最小単位を考え、それが蠢いているのが世界なのだと考えた。主体も実はモナドたちの集まりに過ぎず、経験は錯覚である。

 たとえば、ヒュームにとってすべては経験である。要するに「内から外へ」の自発性のベクトルなどない。推理によってたしかな知識を得ているつもりかもしれないがそれは単なる習慣による連想にすぎない。やかんに火をかけたら沸騰するのばかり見てきたから、やかんを火にかけるところを見たら沸騰すると思いこみ、それが「因果」だと考えてしまうだけだ。

 これを調停しようとしたのがカントである。

 

現象学入門 (NHKブックス)

現象学入門 (NHKブックス)

  • 作者:竹田 青嗣
  • 発売日: 1989/06/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

カントの解決

 カントは認識がその物自体に到達することをあきらめる。それは原理的に不可能なのである。しかしカントは、自然科学を保証するために現象の探究というものは確かな知識に到達しうるのだということを示したかった。そのために彼が行ったのは「認識論的主観主義」への転換である。それは以下詳述するようなものであるのだが、結論からいえばカントのこの「批判的転回」は、デカルトのいう内側と外側という図式をより複雑なものとして受け継いでいる。

 カントが示したのはデカルトのいう「我」という初手が、その時点で多くの対象とのネットワークの上にいることである。観念とはいってもそれを独立な出発点として扱うことはできないのだ。経験主義者はよく単純印象というそれぞれ独立な粒子のようなものを考えたが、カントはこの「入力の原子論」とでもいえるような基礎づけを葬り去る。

 しかしこのカントの功績にもかかわらず、彼はデカルトの伝統を受け継いでいる。もはや内/外というデカルトの区別はカントにおいて複雑なものとなり、その境界線は「カテゴリー形成作用」において引かれることになる。もしこのカテゴリー形成作用なるものを介さないならば、われわれは一切の知識というものを得ることが出来ない。

【認識論的主観主義という要請】

 認識には二通りある。経験的認識と先天的認識である。

  •  先天的認識とは、一切の経験から独立な認識という意味である。
  •  経験的認識は決して必然性と普遍性を持つことができない。即ち、何故事象がその性質を持つか、又、将来においても常にそうであるか、などはわからない。

 経験的認識が必然性と普遍性を持たないならば、それは真に学問性を持った認識であるとはいえない。従って、先天的認識こそ学問的に重要な意義を持つ。しかし、先天的認識のすべてが学問的に重要な意義を持つわけではない。カントが重視したのは「先天的総合判断」である。

  •  あらゆる判断は「AはB」という風に、主語と述語を持つが、この関係によって二通りに分類される。分析判断と総合判断である。分析判断とは、主語の内に既に述語が含まれている判断のことで、総合判断とはそうではない判断のことである。例えば「物体は延長をもつ」というのは、物体という以上延長(ひろがり)を持つのは当たり前であるから、分析判断とみなされる。

 分析判断は主語を分析すれば導かれるため、経験を必要としない。だがこれは自然科学が求めるものではない。なぜなら分析判断はあたりまえなので、知識を拡張することがないからである。従って、総合判断こそ、学問的に意義がある。先天的総合判断はわれわれの知識を拡張するものであり、かつ、必然性と普遍性を持つ

 では、先天的総合判断はいかにして可能なのだろうか。一切の経験から独立でありながら、総合判断であるなど可能なのだろうか。カントはこの点を乗り越えるために認識論的主観主義を要請する。即ち、『認識が対象に従わなければならないのではなく、対象がわれわれの認識に従わなければならない』と見直すことによって、この問題は解決されるというのである。

 なぜならそこでは対象とは主観の形式から構成される。そうであるならば、われわれがこの対象について先天的認識を持つことは可能である。なぜなら、その対象はわたしたちが構成しているのだから。少なくとも構成に携わった部分については知られるはずである。加えてそれは概念の分析ではないから総合判断でありうる……。

 認識論的主観主義から得られるものは二つある。

  1.  まず第一に自然科学の基礎づけについて。自然科学は経験的認識が主であるが、そればかりでは必然性と普遍性を持ちえないのだった。しかし、経験というものは対象と同様にわれわれが主観の形式によって構成したものである。ゆえに、経験は先天的総合判断を含む。
  2.  第二に、形而上学の立て直しについて。認識論的主観主義は、わたしたちが決して対象自身にはたどり着けないことを含意する。ゆえに形而上学はカント哲学によっても廃棄されたように、思われてしまうかもしれない。たしかに理論的認識は決してその対象自体にはたどりつけない。これが認識論的主観主義そのものであった。しかし、カントはここに形而上学が成立する余地を残した。すなわち、主観が影響してくる「現象」の領域と、対象それ自体の領域「物自体」を区別した。「現象」には理論的認識という仕方で迫る。一方、「物自体」には別の仕方で迫る。それがどのようなものであるかは、カントのこれ以降の著作に繋がっていくのである。
【カント『純粋理性批判』を読む】

 認識論的主観主義の要請によって、われわれは主観のなかに先天的な形式を求めなければならない。カントによれば、人間の認識能力は感性と悟性という二つのはたらきの共同である。物自体から刺激されてそれを把握する能力が感性であり、それを「机」とかいう概念を用いて説明するのが悟性である。このいずれにも、先天的形式があると考えられる。先天的形式を持つことが客観性を持つことなのであるから、悟性にそれが求められるのは当然である。また、もし感性に先天的形式がない、つまりすべての直観が経験によって生まれるならば、それを素材としていくら悟性を働かせても先天的総合判断など可能にはならない。感性の先天的形式を「直観形式」(純粋直観)、悟性の先天的形式を「カテゴリー」と呼ぶ。

 感性とは、「われわれが対象によって触発される仕方によって表象を得る能力」である。いわば受容する能力であるが、ここに先天的・つまり経験を必要としない形式をどのように見出せるだろうか。われわれは触発された結果、「感覚」するが、この与えられる感覚を秩序づけるところに先天的形式=直観形式が認められる。

 具体的には、カントによればそれは時間と空間であった。つまり、非空間的・非時間的な直観的表象は存在しない。このふたつが先天的形式であることの論証は「形而上学的究明」と「先験的究明」と呼ばれるものに分かれる。たとえば空間においては、形而上学的究明によって、空間が先天的であること・空間が概念ではなく直観であることが示される。先験的究明においては、空間を先天的と考えることによって先天的総合判断が可能になることを説明しようとする。時間においても同様である。

 

 次にカテゴリーについて論ずる。

 

カテゴリーにはどんなものが見出されるか。これを求める手続きを「カテゴリーの形而上学的演繹」という。カントはそれまであった判断表を基礎として、カテゴリーの一覧を作成した。しかしこのやり方はいかにも天下り的というか、既存のものを利用したので、批判が集まるところにもなっている。カントの作成したカテゴリー表については別途調べていただくとして、カテゴリーが対象に対して客観的妥当性をもつかどうかをみていこう。

 感性の場合は、このことは問題にならなかった。というのは、直観形式が対象をつくりあげるのであるから、直観形式が対象に関係していないなどということはありえないから。一方悟性の場合はそうではない。対象は既に作り上げられており、悟性とはつまり考えることであるから、別に対象と関係を持つとは思えないのである。

 カントはこのことを単純に解決した。つまり「感性が対象を作り、その対象に関して考える」のではなく、対象を作る過程で既に悟性が関与している、と。直観によって我々に与えられるのは統一なきカオスである。悟性がそこに統一をあたえるのだ。

 

 次に悟性が統一を与える仕方について考えよう。

 カオスをまとめるためには、与えられた印象たちに目を通し、それをひとつにまとめていかなければならない(覚知の総合)。この総合が可能であるためには、瞬間的に消え失せていく印象を心に保持し、再現できなければならない(構想における再現の総合)。その再現の総合が可能であるためには、保持した印象と再現した印象が同一であるということを再認識できなければならない(概念における再認識の総合)。再認識ということが可能であるためには、認識する意識は同一のものでなければならない(先験的統覚)。意識の同一性つまり先験的統覚こそ、総合する働き、悟性であり、ここに含まれる先天的形式(カテゴリー)がそこに秩序を与える。

 

カント

カント

  • 作者:岩崎 武雄
  • 発売日: 1996/10/01
  • メディア: 単行本
 
【これまでのまとめ】

 自然科学の成功によって、哲学もその成功を模範とし始め、その姿を大きく変えていく。たとえばそれはデカルトの「われ思う故にわれあり」という基本命題から出発して新たな真理を導出しようとする大陸合理論と呼ばれる立場にあらわれている。しかしこの演繹を重視する考えには問題がある。大前提から結論を演繹するとき、結論は大前提のうちに含まれているはずだからである。

 合理論が一切の経験を無視して純粋に理性による演繹的推理によって神とか世界とかに関する知に至ろうとする一方、イギリス経験論は「経験なくしては事物についての認識を行うことはできない」として経験を重視した。ところが経験というものを重視するに従い、経験したことがないもののことなどわからないと当然その方向へ傾いてくる。すると、神や世界一般の意味、価値など、形而上学は廃棄されることとなる。さらに進み、ヒュームに至ると、そもそも経験の確実性も疑われた。

 形而上学も自然科学も両方が失われてしまうという事態に、両方を調停しようとする哲学であるカントがあらわれる。カント哲学はコペルニクス的転回を行うことで、両方を救う手立てを考え付いたのだ。すなわち、それが認識論的主観主義である。

 

 認識論的主観主義における主観の形式の中に求められるのは、経験によらない先天的形式である。われわれの認識には経験的認識と先天的認識がある。先天的認識とは経験によらない認識である。必然性と普遍性をもつのは当然先天的認識のほうであり、それが学問的認識と呼べるものでもある。しかし先天的認識のすべてがそのような学問的に意義のあるものではない。たとえばAかつBはAであるといったような命題は、主語を分析することで述語が導かれる。しかしそれはわれわれの認識を一切拡張するものではない。このような判断を分析判断と呼び、総合判断と対置される。すなわち、われわれが求める学問的な意義を持つ判断とは、先天的総合判断のことを指す。

 先天的総合判断が可能なものとなるために、認識論的主観主義がどうしても必要であり、先天的総合判断と認識論的主観主義は密接に結びついている。先天的総合判断を可能ならしめるのは主観の形式のうちにある先天的なものによるのだ。そしてこの先天的総合判断によって基礎づけられる自然科学はその確実性を守られ、また、形而上学は認識論的主観主義の導出する結論によってこれまでとは違う独自の立場を見出すことになる。

 では、主観の形式とはなんだろうか。カントは認識というものが「感性」と「悟性」からなると考え、それぞれの先天的形式を直観形式およびカテゴリーと呼んだ。直観形式とは空間・時間であり、カテゴリーは判断表を基礎につくりだされたカテゴリー表によって一覧することができる。

 認識は感性と悟性の共同により「対象」を作り上げる。ここで重要なのは、感性が物自体を受け取り対象をつくりだし、悟性がそれについて思考するのではなく、悟性もまた対象をつくる過程に携わっているということである。だからこそ、人間が自前に持っている形式というのが、単なる偶然ではなく、必然的に対象に適用可能なものとなっているのである。なにしろ、悟性がカテゴリーによって変形させる対象というものは悟性が作り出したものでもあるのだから。

 そして悟性が対象の製作に携わる仕方を分析することによって、われわれは「先験的統覚」という意識の同一性にまで達する。

 感性が作り出した印象に過ぎないものを悟性が秩序付けるためには、あらわれる色々な印象を束ねてひとつにしなければならない。(覚知の総合)。ひとつにするためにはどんどんと消えていく印象を保持してまた再現できなければならない(再現の総合)。再現できるためには保持した印象と再現した印象が一致することを確かめられなければならない(再認識の総合)。確かめられるためには、前と後とで同じ意識であることが必要なのだ(先験的統覚)。われわれは先験的統覚、自己意識、「われ思う」に到達する。

 実はカントはデカルトの出発点(コギト)を掘り進めたのである。つまり、単純な印象であってもすでに膨大な概念的プロセスに巻き込まれていること、そして自己意識は対象から切り離して考えられるものではない、ということ。なぜなら自己意識は既に総合を含んでいるため、それは対象との一定の関係に依存するのである。「私たちが自己意識的であるという事実は、私たちの外部にある何か永続的なものの存在に気づいていることを示唆している」(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p.12)のである。

 

 

カント入門 (ちくま新書)

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カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

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  • 作者:黒崎 政男
  • 発売日: 2000/09/08
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フッサールの解決

 フッサールの哲学はデカルトとカントの両方と似ている。しかしフッサールの強調するところ、《現象学のもとめる種類の反省は、哲学史においてまったく新しいもの》なのである(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p30)。フッサールはその哲学において、主観/客観という近代哲学の根本問題に別の仕方で光をあてる。デカルトにしてもカントにしても、「そのもの自体」という客観を前提し、その一致に心を砕いてきたが、いやそもそも、なぜ実在なんてものがあると確信しているのだろう。われわれがもっている実在とやらの確信は、いったいどういうものなのか―――これを考えるためにフッサールはカントの「認識論的主観主義」を受け入れながら、「デカルトの出発点」を選ぶことにしたのである。

現象学入門】

 フッサールはわれわれのすべての経験が意識的なものであると考えた。意識は絶えず流れ、その時々で焦点を変えて行く。たとえば木を見ること、景色に感動すること、学生時代を思い出すことなど、そうしたものたちを意識の〈作用〉と呼ぼう。〈作用〉は流れていく意識の一部分である。木を見ることと木を思い出すことは別個の作用であり、つまり、作用には対象とそれに向かう態度がある。

  •  フッサールは意識作用は透明であると主張する。われわれは作用を経験するだけでなく、作用を経験していることについて自己意識的でありうるし、それゆえに作用の構造的側面について云々することができる(透明性について懐疑的な論者としては精神分析学のジーグムント・フロイトが挙げられる。彼が問題にしているのは反省によっては到達できない無意識の領域だからである)。
  •  また意識というものは志向性をもつ。意識はいつも「~について」の意識である。違う意識作用でも志向的対象は共有することがある(木を見る、木を思い出す、木に感心する)。また、意識作用の志向的対象は時には捉え難いことがある(最大素数の存在証明を思い出す、世界が五分前にはじまったか考える)。また現実には存在しない対象についても志向できるし、現実の対象にはない特徴が思考的対象には備わっていることがある。いわば「現実の対象」と「志向的対象」には違いがあるわけだが、この差異に焦点をあてるものこそが現象学である。たとえば果物の絵を見るのと果物を見るのは、志向的対象を共有している意識作用とみることもできる。しかしふつう、人は果物にしか注目せず、この意識作用の内的な構造には着目しないのである。現象学はここに焦点をあてるのだ―――そしてだからこそ、現象学の本をひらくたびに志向性という言葉が登場する。

  この意識作用の内的構造を見定めるために、「客観」という想定はない。デカルトやカントはともに外的実在を前提としてどうすればそこと一致するのかと考えてきた。しかし、フッサールの視点では、その客観物というのもわれわれの意識作用のひとつである。むしろ、そのような外的実在があるのだと固く確信しているのはいったいなぜなのだろう?

現象学的還元という方法】

 フッサールは主観/客観図式に人が陥りやすいことを身をもって理解していた。そこで現象学においては「現象学的還元」という方法を用いて絶えずそれを思い出し、注意を促す。われわれは〈自然的態度〉においては主観/客観図式におさまろうとしてしまう。その態度においては木を見ることは木そのものを見ることである。さきほど指摘した通り、志向的対象が同じでもそれは同じこととはいえない。

 現象学的還元にはふたつある。〈超越論的還元〉と〈形相的還元〉である。

  •  現象学的還元〉は《通常の対象についての通常の信念を中断すること》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p34)を求める。注意すべきなのは、フッサールは自然的態度が間違っているとかそういうことを述べているわけではない。ただ意識を分析するにおいては、通常の判断を停止することを心掛けなければならない。そうしなければ、差異が消えてしまう。
  •  現象学的還元をほどこすことによって、単なる物理的対象というものは消えてしまう。しかし意識作用は消えない。われわれはたしかにその紙を見ている―――「その紙を見ている」かのような経験がわれわれの内に生じている。この意識には、紙の裏側がどう、触れるとどう、叩いてみるとこんな音がして、机の上にあるなどその他のものとの関係などなど、多くの予期が含まれていることに気づく。はっきり自覚しないとしても、この紙に裏側がないなどと考えている人はいないのだから。このような背景理解が知覚の作用にとって本質的だとフッサールは考えた。
  •  意識作用の研究は一般性にも関係する。たとえばこの直角三角形と、あの直角三角形は、辺の長さも角度も異なるという確かに違う三角形である。しかし「同じ」直角三角形なのである。いったい、そこでは何が共有されており、何が同じだとされているのだろうか。フッサールはそれを「本質」または「形相(エイドス)」と呼び、個別の意識作用の本質的特徴へとわれわれの焦点を向けさせることを〈形相的還元〉と呼ぶ。
  •  これを見やすくするためにフッサールが導入したのが〈ノエシス〉〈ノエマ〉という用語だった。〈ノエシス〉とは意識の特定の作用であり、〈ノエマ〉とはこの意識作用にともなう一般的な意味または内容を指す。ノエシスは意識の流れの中で移り行き、やってきてはきえていく。しかしそのノエシスとは出会えなかったとしても、同じノエマと出会うことはある。あなたが毎朝見上げる時計台は、異なるノエシスと同じノエマをもたらすだろう。とはいえ、これはノエマが「あの時計台」という単語の意味と同一というわけではない。それは非常に似ているが、ノエマは知覚的データを組織化する形態の情報を含むため、言葉の意味以上のものをもっている。
  •  この二つの還元は並行して行われなければならない。超越論的還元を忘れては現象学の対象を見失うし、形相的還元を忘れては一般性を見失う。《なぜなら学問が真に求めているのは,単なる事実認識ではなく,本質認識であり,しかも個々の事実はその本質と関係づけられることによって初めて真に論理的に理解されうるからである》(形相的還元(けいそうてきかんげん)とは - コトバンク)。
フッサール現象学の展開】

  ノエマは志向的対象の意味を構成する。一方で、われわれは志向的対象を意味ではなくモノとしても見ている。このモノは私が構成したものではないという意味で、与えられたもの(所与)だとも経験する。フッサールが〈ヒュレー〉と呼んだのはそうした感覚的データの外観のことである。超越論的還元を行っているわれわれにとって、ヒュレーは心の内部にある構造であり、現実の対象ではない。

 別にヒュレーは幻覚・想像・記憶といった意識作用にでもあらわれる。しかし木を見るときと、木を想像するのとでは対象(木)の所与性は後者のほうが薄れるだろう。フッサールはヒュレーが志向された意味を充実すると言っている。木を見るといった知覚は完全に志向を充実し、ヒュレーはより豊かで詳細になる。そして同時にヒュレーは意識作用の意味を制約する。知覚と想像とを比べてみれば、知覚のほうがより安定的である。これは逆に言えば、より束縛されているということでもある。想像の木はいきなり燃えたり色を変えたりすることがあるだろう。われわれは意識を何かに向ける時、その向けられた先が空虚であることもあるし、ある程度充実していることもある。

 学問が本質を目指すことを併せ考えれば、フッサールが「完全なる充実」を求めるのは自然なことである。この充実は〈真理〉という概念の意味である。通常の知覚ではまだ充実されていない部分的な志向がいくつもあるのだ。たとえば木を見てみよう。「木」というノエマは、木のヒュレーによってその意味を充実させる。だがそれは完全ではない! なぜなら木には裏側があり、われわれにその裏側は現前していないから。裏側というヒュレーがないから、その木のノエマは完全には充実しない。フッサールはこれらの部分的側面を〈射影〉と呼んだ。われわれの目にはいつだって一部しか映らない。サイコロのすべての面をみることはできないのだから。

 われわれは木を見ることによってその裏側をも志向しているが(その他、においや手触り、恐ろしく多くの志向がある)、このように数多くの充実されない志向を持っている。実は木の裏側はあなたが予期しているに過ぎない。フッサールなら「その木は〈超越的〉なのだ」というだろう。これは、《対象にはあなたが探求しうる以上のことが存在する》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p38)という意味である。

 あなたが道を歩いているとヘビがいた。わっと驚くが、近づいてみるとロープだった。あなたがヘビを見たとき、ヒュレーとしては二つは同じものだったのだが、ノエマが異なっていた。近づくことによってあなたはヘビというノエマが充実されないことに気づく。これはむしろロープなのだ。触ってみたり、引っ張ったりして、ロープらしくなっていく。けれど、あなたが見ているのはあくまで〈射影〉である。そのロープが本当にヘビだったという可能性は、まだ残っている。

【時間意識の現象学

 時間というものは、意識作用の大半にとって重要である。木の裏側を予期しているのもそうだし、それにそれをある程度持続するものとして見ているだろう。そのとき、われわれは暗に時間それ自体について志向している。

  フッサールは超越論的還元を行う。彼は別に「運動は存在するか」とかそういった形而上学的問題に答えようとしているわけではない。時間それ自体というものをカッコに入れて、そうしたことを可能にする意識の構造を探求していく。現象学において、時間が本当に存在するかとかそんなことはどうでもいい。しようがしまいが、われわれは「時間」というものを経験するのだから。

 正確に述べるなら、フッサールが興味を示した志向的対象は単純に「時間」といっても二種類ある。ひとつめはいわば「間(マ)」であり、「いまちょっと間があいたな」という場合である。われわれはたしかに時間それ自体を志向している。しかし特に時間を志向しているようには見えないが、時間的特徴とともに姿を現す時間以外の対象がある。それがふたつめである。たとえばメロディというものは音を続けて知覚することで意味をもつ。この意識作用の構造というものは、時間的継起と大いに関係する。この時間的継起というものは意識作用の大半でみられるものであり、時間的に構造化することをいつだって伴うのである。

  いつものように、フッサールはその分析を現象の記述から始める。よくよく考えれば、たった一音であったとしてもその音は時間的な広がりをもっている(木を見ることだって時間的な幅があるだろう)。一方でそれはそのあいだずっと同じ一音でもある。そしてまた、音はすーっと遠のいていく印象をわれわれに与える。その一音というヒュレーは形を変えながらも、われわれのなかで保たれ続けているのだ。フッサールはこの変形に、意識の本質的特徴を見て取る。《持続的に流れる印象についての意識は、新たな把持的意識へと交代していく》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p45)。

 フッサールはこれを説明するために新たな用語を導入する。ヒュレーは〈原印象〉というものを通じて与えられる。この印象は遠のくとともに新しい原印象に随伴し、次の印象についてのある程度明確な予期をもたらす(これを〈予持〉と呼ぶ)。新しい原印象に随伴するという、この随伴というものはもちろん過去のことではなく、現在の意識である。これを〈把持的意識〉と呼ぶ。フッサールはすべての原印象が把持的意識に代わっていくと主張する―――この説明はメロディについて考えるとわかりやすい。音をなにか聞いたとき、われわれは次の音がなんとなく予想できる。突拍子もないものがくればなにかおかしいと感じる。

 しかしなぜ、そのようなことが起こるのだろう。なぜわれわれはある原印象を随伴させようとするのか。フッサールはそこにさらなる深部構造を見出し、それを〈絶対的主観性〉と呼ぶ。時間的な流れを統一しようとするこの構造が絶対的だといわれるのは、それはそれ自体として経験されるものではないからである。それが主観性と呼ばれるのはカントが求めた主観的意識の統一性という流れを汲むものである。絶対的主観性は現象学的にはこれ以上掘り下げられない。自分自身はどうしても見つけられない。「我」は手元から消えてしまった。しかしそうでありながら、それを仮定せざるを得ない状況に陥ってしまったのだ。《そのためフッサールは、超越論的還元の限界において、現象学的記述にかんする通常の信頼を放棄して、意識的、時間的自己を説明するうえで、時間を構成する主体を仮定せざるをえなくなったのである》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p48)。

 

 

ハイデガーの解決

 フッサールの仕事は対象を見るというごく単純な経験でもそこには膨大な背景があることを思い出させる。実のところ、「志向性」というアイディアは「認識対象への必然的関係」と呼ばれカントによって用いられていた。ものごとの把握に関する背景を浮き彫りにする先駆的論証はカントによって行われ、フッサールによって推し進められた。それに触発されて20世紀最大の哲学者となったのが、彼の弟子のマルティン・ハイデガーである。彼はフッサールに影響されながらも、基本的な部分には賛同しかねていた。『存在と時間』という主著も、フッサールに反対して書かれたといえるだろうと述べている。しかしそうでありながらも、彼はフッサール現象学を当時の最もすぐれた哲学的見解だと考えていたし、彼の現象学を改良してよりよくしようと企てていた。

 結論からいえば、ハイデガーは意識的主観ではなく、情態的で没入した熟練した活動の基礎的な役割に注意を向けた。ハイデガーはこれによって認知主義の伝統を突き崩すことになる。そしてこのことは主観と客観の区別に対する異議に繋がっていく。

ハイデガーによるデカルト批判】

 デカルトは日常的な事物と自分の関係を考える。そしてこの事物についての確実な知識を得ることを望むのである。一方でハイデガーは、フッサールと同様に、その事物がその事物として理解されるのはなぜなのかということを問題にする。それをそれとして把握するということ、これを理解可能にしているのは一体なんなのだろうか?

 ハイデガーが主張するところでは《分離的な観察者の態度は私たちの周囲の対象の根本的な特徴を取り逃がす》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために)。デカルトにしても、フッサールにしても同じことで、彼らはあくまでモノと距離をおいた観察者の立場でものを言うし、そのような立場を特権視している。デカルトに至っては身体すら捨ててしまったほどだ。だがたとえば手元にあるこのハンマーが、ハンマーとしてわれわれの目の前にあらわれるのはどうしてだろう。それはたとえば、われわれの身体とはなんの関係もないのだろうか。われわれのそれとの関わり方に、それがハンマーかどうかがあらわれているのではないか。たとえば、ガチガチに凍ったバナナで釘が打てるように。ハイデガーフッサールに反対したのは、「意識において対象に向かっている」という関与以外にも、ものとの関与の仕方があるでしょう、ということだったに違いない。

 デカルト的なものとの関わり方を〈離脱的な様式〉と呼ぶなら、ハイデガーが指摘したのは〈関与的な様式〉と呼ぶものである。われわれは事物というものをまったく中立的な対象として意識することなどほとんどない。デカルトがいうような「物それ自体」はそれ自体がひとつの構築物である(この点はフッサールにも見た)。そんな様式よりもわれわれにとって当たり前なのが〈関与的な様式〉である。どちらの様式での見方も〈世界=内=存在〉ということばでまとめることができるものを背景とした複数の理解可能性のうちのひとつであるフッサールは離脱的な様式でものを見てこれにはいろいろ背景があるよねという話をしていたのだが、ハイデガーはさらに様式を押し広げ、さらにそれに応じてその背景をも押し広げた。それが〈世界=内=存在〉なのだ。そして実のところ、関与的な様式でものごとに出会うありかたこそが世界内存在そのものであり、離脱的な様式はその派生にすぎない。

【世界内存在の哲学】

 ハイデガーはまずごく普通にわれわれの身近にあるモノから話を始める。彼が注意したのは、伝統的な哲学と同じようにこれを離脱的に眺めないことである。彼は身近な日常的な存在者たちにはたいてい特定の目的や用途があることを指摘し、これをZeug(もの、道具)と呼んだ。書斎はペン、紙、コンピュータ、本、ホチキス、かばんなどの道具に囲まれており、これらのものは使われるためにそこにある。つまり、その通常の用とのおかげで有意味になっている。すなわち、それがなんであるかはそれが何のためのものなのかという点から理解されるのだ。

  •   Zeugの根本的特徴は「~するための手段」(手段性)である。ところでこれを道具と訳すのはともかく「もの」と訳すのはやりすぎのように思うかもしれない。しかし実はこれでよい。もの一般が、手段性という特徴をもつと言っているのだ。人でさえも。
  •  ハイデガーが記述しようとしていたことは、われわれがそのZeugに参与しているという事実である。ペンは炭素の集まりではなく、まず書くためのものとしてわれわれの目の前にあらわれる。それが普通のありかたなのだ。注意すべきなのは、書くということは「ペンと呼ばれているこのもの」のひとつのありかたにすぎないということだ。ジョン・ウィックならそれで人を殺害するだろうし、凶器にもなりうる。窓は換気のための道具であるのと同時に、スムーズな逃走を阻む障害物にもなりうる。ひとくちに「人」といっても、街中で目の前をのろのろ歩くひとはただの障害物として映る。愛すべきものは愛すべきものとして映る。愛し方はひとそれぞれだろうが。
  •  すると、ペンに出会うためにはまずペンの使用がなければ話にならないことになる。もちろん伝聞によって松葉杖というものを知っている人もいるだろうが、実際に使用するほどには知ってはいない。これはフッサールが意識作用に「充実」というレベルを設けたのに似ているだろうか。使っていない人はぼんやりとしているが、使ったことのある人は明確にそれと出会う。ものとの出会いにも熟達がある。

  ひとつの道具はほかのいくつかの道具を指し示す。たとえばペンは紙やインクなどを指示するし、テーブルもそうだ。たとえばテーブルがガタガタなら紙にものは書けない。この他の道具の指示ということはペンであるということの意味に内属する構造なのである。そしてもちろん、紙という道具はさらに別の道具を指示し、その道具もまた然り。すると当然、ペンという道具の存在の背景には道具全体があることになる。道具がその道具であることができるのはその全体性のなかにおいてであり、これを〈道具全体性Zeugganzhit〉と呼ぶ。これは、ひとつの志向に対して複数の志向があるというフッサールの考えを思い出させる。もちろん、これは「紙」「テーブル」「インク」……などといった単なるリストではない。そのリストの各種の道具がほかの道具を指示することが理解できるようになるのは、ペンを用いるという使用の文脈があってこそである。

 そこでハイデガーは道具の基本的な特徴として使用可能性を強調することになる。われわれは道具の使用者である限りにおいて、道具と出会う。たとえばもちろん、ペンで長い事文字を書いていない人でも、ペンと出会うことはある。だがまず使用者でなければペンとは出会えない――――こうしてハイデガーは実践的な関与と分離的に知ることの区別を強調する。実践的関与において、反省することなど必要ない。われわれがこれ以上なくハンマーを打つことに関与しているのは実践的関与がどのようにして意味を引き出しているか考えていないときだ。もし「ん?」と思うことがあれば、それは道具になんらかの支障を見出したときだろう。たとえばあなたはキーボードを使う時、いちいち「tはここで、aはここで……」と考えるだろうか。

 ハイデガーはものの二つの存在様式を〈道具存在〉と〈事物存在〉に分けた。同じひとつのものでも、ハンマーは道具的にも事物的にもなる。伝統的哲学は事物的にしかものを見ようとしなかった。ハンマーはこれこれの重さ・硬さをもち、こんな形で、金属と木から成っている……こうした説明においてハンマーが釘を打ち込めることは派生的である。しかし事物的であることを重視するこの見方は支持できない。どれだけ「ハンマー」なるもののデータを示されようが、その道具存在は説明などできない。ハイデガーはむしろ〈道具存在〉のほうが基礎的で、〈事物存在〉はそのあとに出てくると主張したいのである。《私たちは世界と出会っているが、ハイデガーはその根本的な仕方が前認知的であり、技能的で、身近で、情態的で、目的のある気遣いによって構成されている》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p63)。

 技能は道具を使いこなす実践的能力である。これが意味を開示する。ハンマーで釘を打つとき、体が傾かないようにバランスをとらないといけないし、手を伸ばすとか曲げるとか、力の調整とか、さまざまな技能を使わなければならない。「ここまでがひとつの技能」といったような区別は不可能である。技能にもやはり手段性があり、やはりつながりがあり、やはり全体性がある。われわれがものと出会うとき、それは出会ったそのときから既に技能的なのだ。まず出会って、技能を行使するわけではない。こう書くと当たり前のように見えるかもしれないが、出会って技能行使という順番はふだん当たり前のこととして受け入れられている考え方である。そして、技能は非明示的である。

 

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 作業に打ち込んでいるとき、われわれは別にハンマーの金属部分が見えていないわけではない。釘を見えているし、土台も見えている。しかしそれについて考えてはいないのだ。そうした種類の視覚を〈配視〉と呼ぶ。これによって、もし釘が変な向きになっていれば大工はすぐにそれに気づくことが出来る。世界に対するわれわれの第一の結びつきは意識を経由するという考え方を、ハイデガーはとらない。世界はたいてい、われわれが意識することなく〈開示〉されている。

 この〈開示〉とは、熟練した仕方でもろもろの企てに関与するときの環境として世界が道具的に存在していることを表すものだが、これは配視とは異なる。配視は技能を導くものだ。

  • たとえば、技能的なタイピストはその使用においてキーがどこにあるのかを知っている。キーを視ているのだ。しかしもしシフトキーのロックがオンになっていると、キーボードが望み通りに字を打ち込んでくれない。そのとき、「どこか壊れている」ことに気づけるということが、キーボードが機能する道具の全体性がすでに〈開示〉されていたということを示している。
  • たとえば歩行を考えよう。大学のキャンパスを歩き回ると、階段やら坂道やら障害物やらいろいろある。絨毯なども敷いてあることだろう。あなたは配視によってそうした状況の変化に応答して適切な調整(歩幅を広げるなど)を行う。しかしなぜ、あなたは壁を歩こうとしないのだろう? それは配視によるものではない。単純に、世界は壁を歩行可能なものとして現前させない。私たちがある種の技能を有意味に展開できる環境としての世界に向けて開かれていることを〈開示〉という言葉を用いて呼んだのである。[ 技能 <--- 開示性 ]

 技能的行動には二つの側面がある。それは〈了解〉と〈情態性〉である。能動的に道を歩いていくこともできるが、逆に技能的行動が道具のほうから引き出されることもある、という。了解は常に情態的であり、情態性には常に了解がある。たとえば道を歩いていて階段が出てきたら、階段をのぼる技能を持つことはその階段にのぼらされることを含む。しかしこの二つは単なる言い換えではない。

 情態性とはつまり気分のことである。われわれは常に何らかの気分にあり、気分は状況全体を色づける。退屈なときは世界は退屈にあらわれる。心配や不安は世界を脅威として現前させる。気分は世界と出会うひとつの仕方であり、これを理論的な静観に還元することはできない。われわれはある種、世界に襲われている(つねになんらかの気分にある)。情態性とは世界に襲われる能力である。

 

 さて、道具は技能においてわれわれと出会うが、その技能は部分的には社会的なものでもある。というのも、他者のことを指し示さない道具などはないからだし、廊下が混んでいれば歩幅を調整したり、人との距離を保ったりそういうことをしなければならない。《世界内存在とは他者との共存在なのである》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p71)。他の人々をまず事物的なものとして扱うことはできない。

 ハイデガーによれば人は大勢といるときでも自分を一人ぼっちだと感じることがあるが、それは他者と共通の様式の情態性がないからであり、自分の目的をもった関与が他者に結びついていないからである。その人がいることを嬉しく思ったり寂しく思ったりできるのは、世界の中での関与の有意味性が他者と結びついているからである。

 同じことは「他者」だけではなく「自己」にもあてはまる。主観、といえば簡単だが実際のところそれは誰なのだろうか。自己というものをとらえるために心的状態とか反省とか意識とかに注目しがちだが、まさにそうすることによって〈近代哲学の根本問題〉が提起されるのだ。自己をとらえることと、道具をとらえることのあいだに区別はない。没入した活動において自己は消えてしまい、そのとき「主観」の役割はいわば乗っ取られたようにはたらく。誰が乗っとるのか。それが〈世人das Man〉である。世人とはひとびとの集合体で、特定の誰かというわけではない。ハンマーを用いる時、それは人々と繋がっており、その使用可能性は「世人(世の中の人)」がそれをどのように使うかによって限定されている。こうして〈世人〉は技能的で情態的な世界内存在を可能にしている。このことがはっきりわかるのは言語だろう。コミュニケーション的な技能は私的なものではありえない。またたとえば葬式で黒い服を着ていくのはあなたがその空間を人が理解するように理解しているからだ。

 自然と連想される通り、世人には存在の仕方を「均質化」するという効果がある。誰かが大胆な発想をしたとしてもそれはやがてありふれたものになる。そしてまた、世人はその大胆な発想というのを押さえつける役割も果たす。こうしてハイデガーは人として存在するということの意味にかんするありふれた考えを〈世人自己〉と呼び〈本来的な自己〉と区別した。〈世人自己〉は「人であるとは、自分の存在にとって付随的でしかないさまざまな経験や出来事を通じて持続する実体であること」だとする。

 

【自己と時間性】

 フッサールと同じように、ハイデガーもとうとう自己というものに辿り着いた。そしてやはりフッサールと同じように、ここに時間が絡みつく。《時間は世界を経験することの可能性の条件であり、時間がどのようにしてこの構成的役割を果たすのかを説明すれば、それによって、自己であるとは、あるいは、私であるとは、どのようなことを言いするのかを説明したことになる》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために P74)。

 フッサールと異なるのは、ハイデガーはもはや意識を中心的な概念と見ていないことだ。世界が開示されるのは技能の方法知と情態性のおかげである。フッサールは時間は意識を構造化するといったが、ハイデガーは時間というものを開示性、つまり情態性と技能の熟練を構造化すると主張している。

 

 時間性は自己の基礎的構造であると主張するハイデガーだが、もちろんこの時間というのは客観的時間などではない。現象学ではそういうものをカッコにいれてきた。ハイデガーももちろんそうなのである。ではこの客観的時間というものを可能にする〈根源的時間性〉とはどんなものなのだろうか。フッサールは過去と未来への意識が現在の意識においてどう志向されるのかを問題にした(メロディの例)。しかしハイデガーは現在では未来に焦点をおく。

 さて、あなたが周囲の世界に出会うのは道具との交渉の仕方を知っており、世界に襲われなんらかの気分にあるからである。そしてあなたが出会った世界は道具が道具を指し示す全体的なネットワークによって構造化されている。道具は~のためのもの(手段性)であり、たとえばチョークを使うのは黒板に書くためで、黒板に書くのは議論をリードするためで、そうするのは授業を行うためである。こうした入れ子状の結びつきはそうした目的すべてを組織する基礎的な目的を露呈させる。それが〈目的性〉と呼ばれるものである。

 こうした〈目的性〉は「自分がなりうるものである」ということによって特徴づけられる。例えば授業を行うのは教師であるためである、というように。ハイデガーはこれを〈存在可能性〉と呼ぶ。つまり〈目的性〉は自己理解であり、自己をそうした〈存在可能性〉をもつものとして理解することである。この意味で、存在可能性は根本的なものである。もしそれがなければ有意味な状況に出会うことはできないのだから(存在可能性がないと目的性もないし、目的性がなければ個々の目的もなく、道具も消える)。

 このことは次のことを意味する。「われわれはなんらかの存在可能性という目的のために」しか存在できない。われわれは巻き込まれて存在するので、デカルトのいうコギトだとか、一切と切り離した自分などありえない。

 どの存在可能性が構造を作り上げているかによって世界は異なる強調点をもってあらわれることになる。教授として講義室に入ることと学生として講義室に入ることは異なるし、大工として講義室に入ったら机は足場に見えるかもしれない。一方、存在可能性は文化や歴史的状況に制約されてもいる。「教師」などといっているのがいい例である。この21世紀の日本において宮廷道化師として生きるのは極めて困難か、そもそも不可能だろう。

 どのようにしていろいろな可能性のなかから特定の可能性が、自分の可能性となるのだろうか。これを説明するのが〈投企projection〉である。これは熟慮に基づく行為や構えではない。自分が気づいたときにはすでにやっており、気づいても続けてしまうという意味で、「世界に投げ込まれる」という意味だ。あなたは「学生」になろうと決意して講義室に入るわけではない。《学生として教室に出会うということは、あなたがその状況をはっきりと規定された仕方で技能的にとらえていることを意味する》(現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために p80)。あなたは世界に投げ込まれ、その存在可能性によって世界を構造化する。椅子も机も、その使用方法として何が適切であるとされるかはそれにかかわる。大工は机を足場にする。あなたは何かを書く。あなたが学生として世界に放り込まれていることは、あなたには学生である能力があるということを意味する。Xであるとは、Xである能力があるということだ。

  •  ここまでの例をみて、あなたは存在可能性というものを「社会的役割(教師、学生、アスリート、大工……)」と酷似していると感じたかもしれない。とはいえ、ここには大きな違いがある。
  • (1)ひとはある社会的役割を占めながら、そのことを気にしないで、その社会的役割の観点からふるまわないでいることができる。たとえばひどい父親は、生物学的にも社会的にも父親だが、自分が父親であることなど気にしない。社会的役割は情態的能力があることをしばしば含意したがるが、実際そうであるわけではない。
  • (2)司法試験に受かれば弁護士になれるし、子どもができれば親になれる。このように到達点に達すれば社会的役割を得ることができるが、存在可能性はこのように到達できるものではない。あなたが存在可能性として「学生である」ということはそこまで安泰な地位をもっているわけではない。

 われわれの存在可能性は安泰なものではなく、非常に脆弱なものである。神父は信仰を失い得るし、大学院生は研究意欲をなくすし、宮廷道化師の技能は過去の遺物となった。彼らのなかには、自分の状況に有意味な手掛かりをえる方法をなくしたものもいるだろう。いったい自分はなんなのか? こうした絶望的な状況においてはある意味では「世界はそこにない」。不安な状況においてはどんなものも重要でなければ意義もなく意味もない。すると互いに関連した道具による全体的な文脈も失せてしまう。これをハイデガーは〈世界の無化〉という。デカルトフッサールなど、自分から世界を引きはがしたときに「本質的に自己充足的な自己意識」を見出すが、ハイデガーは何も見出さない。そこには何も残らない。

 とはいえ、不安になったら世界が完全に終わるわけではない。必要最小限までそぎ落とされた存在可能性を構成する基礎的な熟練がある。こうした自己理解を基礎にした手掛かりを維持することによってしか有意味な経験を得ることができないことを指すためにハイデガーが用いたのは〈責め〉や〈死〉だった。〈責め〉とは、「私たちはつねに自分が何らかの仕方で世界に襲われているのを見出さなければならないが、このように襲われていることを選択したり、説明したりすることができない」ことである。そして〈死〉が意味するのは、「ある世界内存在の様式に対する私たちの完全なコミットメントは脆弱であり、いつ消滅してもおかしくない」ということである。

 自己理解は根本的に偶然である。あなたは根っからの神父や教師などではありえない。しかし普段こうした偶然性と向き合うことはない。日常は自己であることの意味の基礎的な構造を覆い隠す。これを〈非本来的な存在様式〉と呼ぶ。一方、この偶然性を自覚し、責めや死の観点から世界を明快に開示することによって自分自身の可能性に押し進んでいくことを〈本来的な存在様式〉と呼んだ。

 

ドレイファス&テイラーの解決

 デカルト以来の伝統哲学を「媒介説」として一括りにまとめたのはドレイファス&テイラーだった。媒介説は次の四つの特徴をもつ理論である。

  1.  「介してのみ」構造 = 心/生物個体の境界を越えた外部の世界についての知識ないしアクセスは、 心/生物個体のなかの何らかの特徴を介してのみ成立することができる。
  2.  知識の内容は明確に定義される明示的な要素に分析できる。現代の一般的なヴァージョンでは、知識の内容は信念あるいは真とみなされた文によって構成される。(「知識とは正当化された真なる信念である」)
  3.  信念の正当化への試みは、この明示的に定式化された要素を越えたり、基礎となるものへさかのぼったりすることはできない。
  4.  心的・物的という区別。物理主義といえども、この区別は受け継がれており、彼らは単に「心的なもの=物理的なもの」を示そうとしているだけ。

 内/外の区別と、その出入りを媒介するものの唯一性。そして明示的な要素を用いた基礎づけ主義的な考え方が接触説である。彼らはこれをハイデガーの仕事を引き継ぎながら、「接触説」として練り上げていくことを試みる。

【媒介説から逃れる】

 彼らはまず「介してのみ」を攻撃する。この理路は主にハイデガーに依っている。世界を把握する方法は概念的な、意識的な、そのようなものばかりではない。われわれは根源的にはむしろ実践を通して世界を把握する。そしてそれを基礎にして、離脱的に把握する仕方も可能にする。全然、「のみ」ではない。

 そして明示的な要素から出発しようとする基礎づけ主義も批判する。この点もカントが誰よりも先んじて行っていた。カントは経験主義者が「印象」というものを基礎にして経験を説明しようとする理論を批判した(〈入力の原子論批判〉)。そしてカントの仕事を「意味」に対して向け直したのがウィトゲンシュタインであった。彼が批判した言語観(〈意味の原子論〉)というのは次のようなものだった。

アウグスティヌス『告白』第1巻、第8章。「大人が、あるモノの名前を呼んで、そちらのほうに向いたとき、私にわかったのはそのモノが、呼びかけられた音によってあらわされたということだ。大人がそのモノを指示しようと思っていたのだから。そんなふうに私が理解したのは、身ぶり、つまりあらゆる民族の自然な言葉[言語]のおかげである。なにかを望んだり、捕まえたり、拒んだり、避けたりするとき、その心の動きを、表情や目の動き、手足の動きや声のひびきによってしめす言葉[言語]が、身ぶりなのだ。こうして私は、いくつかの言葉[単語]が、いろんな文章の、特定の箇所で何度もくり返し使われているのを耳にして、どういうモノの記号になっているのか、しだいに理解するようになった。そして私の口がその記号になじんでからは、記号を使って、私の望みを表現するようになったのである。

哲学探究

  つまり「これはこういうものです」「あれもこういうものです」というのを基礎に頭に叩き込むことからはじめ、今度はそれを組み合わせて表現というものをするようになりました、という考え方だ。ウィトゲンシュタインが言ったのは、「これが〇〇です」と指さして何かがわかるようになるのは、《言葉を学ぶ人が、言語のさまざまなはたらきや、いま使っている特定の言葉が言語のはたらき全体のなかでどんな役割を果たすのかについて、すでに相当なことを理解しているという条件が満たされたときでしかない》(実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス) p60)。これをこれと定義します、から始めようとするのは、これを「これとして」理解できることの条件を見過ごしているのである。

 

 いずれにせよ、媒介説に対する批判が活発になりはじめたのは上記のように「経験を可能にする背景、条件はなんなのか?」ということが問題にされるようになってからだった。その結果見出されたのは一種の全体論である。ドレイファス&テイラーはこれを他のさまざまな全体論との区別のためにゲシュタルト全体論と名づけている―――これがこう呼ばれるのはまず第一に、有意味だとされる要素はそれ単独では同定されず、ある要素がなんであるかということはつねに全体との関係のなかで定まること。たとえばその音のフレーズが「サビ」にあたるかどうかは他の部分を見てみなければわからない。第二に、全体というものは要素の単なる寄せ集めではないこと。例えばウサギがウサギとして意味をもつための全体とはいわば「世界」である。世界とは社会的実践によって作られた共通理解の場であり、これがどう作り上げられているかはハイデガーに見たとおりである。

 ものの把握は「世界」を背景として、多数の媒介物(メディア)を通じて可能になっている。その多数のメディアとは言語的に定式化されたさまざまな思考、対処能力に内在する理解、一度も疑問視されたことはないが言語的思考が当の意味をもつための枠組みとなる事柄(たとえば””世界は五分前にはじまったのではない””)である。そしてある把握においては明らかに特定のメディアと相性がよいものがあるが、メディアとメディアの境目はあいまいであり、何かが目立っているというだけでたいていはマルチメディアである。

 

【新しい世界把握】

  ゲシュタルト全体論的マルチメディア的な世界把握は、デカルト以来の二元論を葬り去る。明示的な信念というメディアを葬り去ったのではない。それ以外にもたくさんある、と主張したいのだ。

 メルロ=ポンティは表象的な志向性と区別するために、無媒介な身体ベースの志向性(刻一刻と変化する状況に身体が応答すること)を〈運動志向性〉と呼んだ。たとえばサッカー選手はタッチラインペナルティエリアで区切られたさまざまな領域によって要求される。そして行為を開始させ、行為をガイドしてくれる。選手は状況の感覚に応答しながら安定して流れ続ける技能活動に没頭しており、このような経験の一部には活動がうまくいっているかいないかという感覚が含まれていることが見て取れる。ここからのずれを感じると最適に近づこうと活動が変化し、「緊張」を和らげようとする。《対処活動は、主体が心のなかに目的を抱かなくとも、合目的的になることができる》(実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス) p77)。

 

 この二区別に続けて、こう主張したい。運動志向性は表象志向性よりも基礎的である。つまり表象志向性を可能にするものこそが運動志向性なのだ、と。

 ジョン・サールは行為というものを、行為内意図(当該行為の充足条件を表す命題的表象)が原因となっている身体活動だといった。つまり彼は媒介説論者である。彼の行為論は目的達成のための活動を正しく記述するが、当然、行為内意図によって引き起こされていないように見える運動のことは記述しきれていない。彼によれば、行為者はどうなったら行為が成功したことになるのかを知っていなければならないのである。だが普段の生活を思い返してみても、「よし、これをやろう!」などと意気込んで何かをすることなどまったくない。というわけでその点を説明する必要に迫られるわけだが―――媒介説論者にありがちなことだが―――これを純粋に機械論的説明で乗り越えようとする。行為内意図以外の活動は絶え間ぬ習慣か特訓によって仕上げられた身体の機械的運動であり、「能力」と呼んでいいレベルに達したものなのだ。サッカー選手が飛んで来たボールを捉えるのは機械行動なのだろう。

 彼のこの説明は一定の説得力を持っているように見えるかもしれない。しかしたとえば歩いて近くの駅に行くことを考えてみよう。サールの言うとおり、行くぞと奮起して進み始めるのだが、その行為に含まれるたくさんの運動についてわれわれは充足条件など考慮してはいないように思える。サール自身はこれについて行為内意図が因果的にそうした運動を引き起こすのだと答えているが、それがいかにしてなされるのかは謎のままだ。われわれはただ駅に行こうと意図しただけなのだから。

 だが、そもそも行為内意図が全体を統御しているなどと考える必要はどこにもない。むしろこう言ってはどうなのか。行為内意図はより基礎的な運動志向性を開始させるきっかけなのだ、と。歩いている最中、人が前から歩いて来たら避ける。当然のことである。避けよう避けようと思って避けていたら人ごみに行ったときに頭がパンクしてしまう。サールによれば行為内意図「心」が因果的に働いて避けるように「身体」を操作してくれるのだそうだが、やはりどういうことなのだかわからない。

 

 【「考える」を考える】

 媒介説は真理論にも影響を与えてきた。内側と外側で分け、外側のことを外的実在と呼んだおかげで、「内側のことが外側と一致しているだろうか?」といういわゆる〈対応説〉が主流となったのだ。二十一世紀にいたり、言語論的転回を経ることで「内側のこと」はある文(信念)のことになり、今度はその文を正当化することに腐心することになった。

 ローティとデイヴィドソンが主張するところによれば、「ある信念を正当化するものは別の信念だけ」(斉合説)である。これはまっとうな主張のように見える。なにしろ、われわれが受け入れているものを参照しない限りは正当化とはいえないだろう、と言っているのだから。ある命題を証明するために、正しいとされているものを使うのは当然である。そして彼らのような〈表象主義者〉(知識はもっぱら表象によって構成され、そして思考は表象の操作を伴う)の見方が媒介説にとどまっていることは明らかである。 

 斉合説の主張が端的に間違いであることを示すためにはハイデガーメルロ=ポンティが主題的に取り上げた観点に戻ればよい。「ねえ、二階に貼ったポスターが曲がってないか確認して来てよ」と言われて二階に見に行ったあなたは、ポスターが曲がっているという信念と自分自身の信念を照合させて、よし曲がってるとか曲がってないとかいうのだろうか。いやそうではないだろう。あなたがやることは極めて単純で、ポスターを見に行って曲がってたかどうか言うだけだ。小難しく言うと、「信念を形成する」だけだ。

 信念形成というとおそろしく簡単なことに聞こえるし、実際、この記事を読んでいるような人は実に簡単にそれを行うだろう。しかしこれを可能にするものはとんでもないぐらいの数の技能である。まず「見る」ということをひとつとっても、背景を安定的にして対象に焦点を絞らなければならない。簡単に言うと、たとえば目の前に壁があったらポスターは見えないし、赤の色眼鏡をかけていたらどんな色をしているかなんてわからない。われわれはあまりにも「見る」ことに慣れきっていて、瞬時にそれを行うので、自分の優れた技能に全く気が付かない―――われわれがそれに気づくのはもしかするとトリックアートを見ているときかもしれない。それを見るのに最適な角度を探し、距離を変えたり、向きを変えたり、目を動かしたりして、ようやく「適切な見方」を知るのだ。われわれはそれが適切な見方であることを感じ取る。

 しかしちょっと待てと思うかもしれない―――たしかに信念形成はしたが、形成しただけで正当化はしてないじゃないか。

 たしかに。しかしわれわれとしても、あなたが形成した信念がこれから先もずっと永遠に「曲がってるじゃねえか!」と言われないことを保証したわけではない。「曲がってないと言ったな? それはなぜだ」「いや、見てきたんですよ」と返事をするだけのだけの信頼を与えることはできた。ここにさらなる疑りぶかいやつが現れて、ローティやデイヴィドソンがいうところの信念の「正当化」を始めるだろう(きわめて理論的な方法でポスターが直角だと証明することだろう)。だがあなたはポスターを適切に見るための認識論的技能を有しており、自分の判断を報告することができる。

 

 以上のことから、媒介説にとどまってしまう理由もわかる。われわれはあまりにも技能に熟達しており、基礎的な段階を一気に飛び越してしまうからだ。曲がっているかどうか確かめてこいと言われたあなたは、もう最初から別の信念を用いた正当化を検討することができるだろう。

 心と世界のあいだにある壁を突破するには、

  1.  前概念的な種類の理解を深めて、それが事物を概念で述定するための基礎だと考える。
  2.  そのためには、前概念的な理解を関与的な主体による理解として考える。つまり、自分の目標、必要、目的、欲求に基づいて事物の意味を決定する主体による理解として考える。
  3.  この理解が起こる原初的で不可避な場は、世界との身体的な交渉である。
  4.  原初的な関与的なモードは離脱的なモードに移る能力の基盤である。

 この四段階の見方をとればよい。主体が重要な位置を占めているといっても、反実在論的になる必要はない(3)。われわれは深いレベルで実在とつながっている。もちろん「書類がある」は間違っているかもしれない。しかし、それでも残り続けなければならないものがある。まちがえるためにも、この世界が必要なのだ。

 

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【「前概念的」なものの場所】

 前概念的というのは、どういうことだろうか。マクダウェルは少なくともヒトに関して概念的でないものなど認めなかった。彼はわれわれが前概念的だという主張するところを「君は概念が反省と同時に始まると思ってないか?」と批判することだろう。われわれとマクダウェルの違いは、概念というものをどのように定義するかという問題なのだろうか? ———そういうわけでわれわれはまず前反省的ということを検討してみよう。これには「前命題的」と「前言語的」の二つの理解の仕方がありうる。

  •  まず前言語的というところを見てみよう。言語は世界を分節化しているけれども人間世界がすべて言語的に分節されることはないだろう。たとえばある川を渡すために一定の間隔で配置されている岩のことを跳び石だと知らなくてもその岩を渡ることはできる。「岩」だという名前であること自体知らなくてもいい。この岩が跳び石としてことばの次元に入って来ることはなんなくできるだろうが、それはやはりこの岩の使い方をもともと了解していたからである。つまり、前言語的な了解によって跳び石が準備されていたわけだ。前言語的なものから言語的なものへの転移は、その岩をわれわれにとって新たな仕方で現れさせるようになるだろう。今までは向こう岸にわたるためにただ通り過ぎるだけのものだった岩に、はっきりが気が付いたのだ。
  •  次に前命題的。あなたは通勤途中、職場にいる鬱陶しいババアのことで頭を悩まされているかもしれない。あのババアは不当に怒ったり非常に騒がしいのできっと今日も似たようなことがあり、不愉快な思いをさせられる。ところでそうした不愉快な想像のあいだにも、あなたは「通行人」を避け、「信号機」で立ち止まる。岩と違ってあなたはきっと通行人も信号機も言葉としては知っているだろうが、頭の中はババアのことでいっぱいなので、いちいち通行人に対する判断など下さない。
  •  さぁ、いつのまにか職場にたどりついた。デスクに行くと上司が慌てた様子で近づいてきて「大丈夫だったかね」と言う。「何がですか?」「いや、このあたりで事件があってね。真っ黄色のベンツで逃げたそうだ。見てないか?」…………ここであなたは通り道で真っ黄色のベンツが走り去っていったことを思い出す。しかしそのとき、まさにあなたは職場にいるクソババアのことを考えていたではないか。【ベンツが〇×通りを走行していた】といった信念、命題を形成したのはたった今である。この命題にはたしかにベンツなどの概念が含まれてはいるのだが、まだ判断や命題ではないという意味で前反省的な理解がもとになっている。

 

 第一の例においてはわれわれはそれを表す言葉を持たなかった。第二の例においては手持ちはあったがベンツのことよりババアのことばかり考えており、命題形成に役立ってはいなかった(《つまり、わたしたちはまだ、この対象をこの概念のもとで認識して、それについての信念を作り上げるにはいたっていなかった》(実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス) p142))。どちらの例にしても、あなたは知らずしらずにのちに信念形成の起源となる了解を獲得していた。

 腕のいい大工の手を止めて「ちょっと待て。今なんでそうしたんだ」と訊いたら、彼は答えるだろう。これは第二のケースに類似している。そしてこの説明可能ということがマクダウェルが「すべて概念的なんだよ」と言った根拠でもあった。しかし第一のケースはどうだろう。岩を飛び移るという経験は、跳び石という新たな言語による世界分節化作用に助けられてはじめて役に立つ。

接触的描像への移行】

 以上までの分析によって、《物理的世界との因果的接触から始まって正当化された信念に至るまでの過程に関与する技能的な知覚と行為の全一一段階をあますところなく描き出す》ことができる(実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス) p144)。

  1.  知覚者(動物あるいは人間)は、遠くにある星であれ、近くにある岩であれ、物理的宇宙の事物から因果的衝撃を受け取るために最適な位置に引き寄せられる。
  2.  身体図式、すなわち、世界との前言語的かつ前概念的な熟知が、[知覚者が最適な位置に引き寄せられた]結果としてえられる未規定な経験と相互作用して、経験を図と地に分化させる。
  3.  視野全体がさまざまな力線の均衡をとり、背景的照明のひとつの水準に落ち着き、その明るさと色の恒常性を維持する。
  4.  知覚者は、それと同時に、視野のなかで顕著な事物を最適に把握できるように動くことへ引き寄せられる。すると、それらの事物は、自分から一定の距離にあるものとして、また、ひとつの大きさ、形、向き、色などをしたものとして経験される。
  5.  すると、そのような安定した対象は信頼可能になり、知覚者の側での行為への準備体制と相関させられる。言語を利用することもなければ、注意を払う必要も必ずしもないのだが、主体においては、石であれば支えをアフォードするものとして使う準備ができており、家であれば入ることをアフォードするものとして使う準備ができている、などである。
  6.  特定の準備体制が得られると、知覚される対象の一定の側面が顕著になる。際立ってくるのは石の色ではなく堅さであり、家の窓ではなくてドアである。そして主体はまた言語を必要とすることなく、そのような特徴に対する感受性によって反応する(そのような反応のなかには適切なものもあれば、失敗するものもあるので、このような行為への準備体制は前言語的だが原信念であると考えることができ、その結果として生じる行為は前判断であると考えることができる)。いうまでもなく、これと似たようなことは霊長類などの高等動物においても起きている。
  7.  主体が意味論的な次元に存在していれば、対象や状況の顕著な側面を言語的に分節化して、ひとつの概念のもとに収めることができる。
  8.  小川を渡る人は石を支えとして同定することができ、来訪者はドアを入口として同定することができる。しかし、そのような概念的な〈として見ること〉は前命題的なままでありうる。
  9.  しかし、いったん概念化されると、そのような〈として見ること〉は信念の形成―――わたしたちの例だと、その石は支えである、そのドアは入口である、といった信念の形成―――を動機づける。
  10.  以上の認識論的技能の遂行に成功すると、その信念は通常、信頼可能だと見なされる。
  11.  その信念に基づいて行為が行われ、その信念を生じさせた身体的な構えが期待した通りの反応を世界から受け取ると、その信念は通常、正当化されたものだと考えられる。
 【反論の一蹴:マトリックス―――桶の中の脳】

 現象学的な説明というものは世界がどんなふうであるかは教えても実際にはどうであるかを教えない、という。以上までの議論すべてを現象学的だとし、「でも結局のところは?」と問うものもいるだろう―――もしも接触説の構築の助けとしてきたもののすべてがマトリックスだとしたら? わたしたちの脳はビーカーに浮かんでいて、電気刺激を送られているのだ。「技能というのは世界との関与のなかで~」などと接触説論者たちは言うが、技能はインストールされているのではないか。まるで映画『マトリックス』でトリニティが一瞬のうちにヘリコプターの操縦をマスターしたように。

 そこで〈可能〉という言葉について、弱い意味と強い意味を区別することで応じることにしよう。われわれがなにかを〈弱い意味で可能〉であるというのは、自分の知るかぎりにおいて、ものごとのあり方のうちにこれが生じることに対する障壁となるものがないことである。たとえば、われわれはタイムトラベルが可能かもしれないと考えている。これは時間についてよく知らないから、無理だと断言できないためだ。一方でこんなことが明らかになるかもしれない―――タイムトラベルは「世界の仕組みからして」不可能だ。これが〈強い意味で〉不可能だということだ。

 桶の中の脳は弱い意味でしか可能ではない。「その可能性もあるでしょ。否定されてるわけじゃないでしょ」というだけでいい。というか、ある状態が脳のなかの状態だけで完結しているという仮定はいったいどこから来たのだろう? いくら指摘されても、彼はただそうかもしれないでしょ、と言えばいい。とはいえ、一方で彼が「いずれ未来の研究が私の正しさを明らかにするだろう」と述べるのを禁止するものはなにもない。だがしかし、接触説に対する反論としてはまったく説得力に欠いている。

 

〈これまでのまとめ〉

 媒介論的な分別はまったくもって正しく決定的に重要なこともたびたびあるのだが、これがうまくいくことを理由に「すべてがこれがうまくいく」と主張し始めることに根本的な間違いがある。実在するものにうまく対処するというあり方はある種の理解を反映しており、その理解には明示的で分析的な要素間の区別のようなものは登場しないのである。

 

立て直される実在論

 媒介的描像から逃れ、対処実践を背景とした理解を基盤に置くとわれわれは世界と直接に接することができる。しかし、このことは「どんな相互作用からも独立してそれ自体で存在する」ということを失わせるように思われる。なぜこれが問題なのかというと、たとえば自然科学などはふつうわれわれから独立したものとして扱われているからだ。ローティはこれを支持したが、これを支持しないこともできる。前者を〈デフレ的実在論〉と呼び、後者を〈頑強な実在論〉と呼ぶことができる。頑強な実在論者にとって、デフレ的実在論者は反実在論者に見える。とはいえ、ものを理解するために対処活動があるんだと言ったのは自分たちなのだから、デフレ的実在論に与するのは当然のように思われる。なぜこれを支持しないなどできるのだろうか。

 頑強な実在論者が注目するのは、たとえばものを知覚するときにわれわれがまず適切なものの見方を学ばなければならなかったということである。ビールを飲もうとしてジョッキが異常に軽かったとき、いつもの加減で持ち上げたあなたは肩にビールをひっかけてしまうだろう。世界に対して正しい姿勢をとらなければならないこと、ここに「それ自体」へアクセスする道がある。きわめて常識的なことだが、世界がそうなっているからこそ、わたしたちはそういう見方をする、のである。《宇宙は何らかの独立的な構造をもち、わたしたち身体的な存在者は、何かを経験するために、この構造と正しく関係しなければならない》(実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)p229)。とはいえ、それが正しいとしても「その独立的な構造がなにかはわからないんですけどね」と言ったのではデフレ的実在論と同じことだ。また、もしこれが否定できないならわたしたちは実践の中に閉じ込められることになるだろう。

 

 われわれが「理論」について与えたのは、分離的な、という態度であった。「日常的な世界の直接的で身体的な経験を括弧入れ」したとき、ガリレオなど多くの科学者たちは普遍的な因果法則といくつかの自然種(われわれの認識や実践とは独立に本質をもつ個物)を発見した―――科学の目で見たものがまさに「それ自体」なのだというのが、頑強な実在論者の主張である。

 とはいえ、まさに批判されるのもこの点だ。ローティや、そしてカントがいうように、それ自体あるがままでの事物を知るということ自体が疑問に付されている。カントの認識論的主観主義によれば、認識こそが対象を形作る。それゆえにこそ、彼は認識というものが物自体には達し得ないと結論せざるをえなかった。わたしたちは机の上のバナナをバナナとして記述するだろうが、それが私たちがバナナという概念を作り上げたからにすぎない。机の上のバナナ=デスバナナがわれわれの関心の中心であったなら、われわれがバナナについて記述することなどなかっただろう。なぜ「机」「バナナ」と見ているわたしたちの語彙による記述が特権的な地位をもつなどと言えるだろうか。

 唯名論者が言う通り、バナナや机といったグループ分けは私たちが宇宙に対して押し付けた語彙である。宇宙は何事も語らないのだから。けれどこうは考えられないか。宇宙の構造はそれについての正しい記述を「いくつも」持っていると。

 

 われわれはまるで「実践を介してのみ」なにかを理解する、という媒介論的な視点にとじこめられた媒介論批判者だ。これに対する批判はやはりこれまでの媒介説批判にみられる道をたどることになる。つまり、『関与的な様式だけではなく(わたしたちにとっての実在)、離脱的な様式をもってしても何かを知る(実在それ自体)』ことができる。科学はその方法のうちのひとつである。しかし『それだけではない』。

 たとえば「金」について考えよう。なにか光っている。最初それはその程度のものだっただろう。調べていくうち、それは原子番号79番であることがわかった。現代科学によれば、それが金の本質である。しかし一方で、古代エジプトにおいては金というものは神聖な物体だっただろう。彼らもまた現代科学の方法の手ほどきをうければ、原子番号79番であることを理解することができるだろうが、神聖な物体であるという彼らが見出した本性もまた、間違いではない。それは「本質」の別の側面なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

参考文献リスト

現象学入門 (NHKブックス)

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』 (講談社現代新書)

現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために

カント

カントからヘーゲルへ (UP選書 174)

カント入門 (ちくま新書)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

カント入門講義: 超越論的観念論のロジック (ちくま学芸文庫)

ハイデガー『存在と時間』入門 (講談社現代新書)

ハイデガー哲学入門 『存在と時間』を読む (講談社現代新書)

誰にもわかるハイデガー: 文学部唯野教授・最終講義

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)

 

 

<⇩ これらの記事の総まとめでもありました。後日削除します>

近代哲学の根本問題~デカルト・カント・ヘーゲル・ニーチェ・フッサールまで - にんじんブログ

にんじんと読む「カント(岩崎武雄)」🥕 - にんじんブログ

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