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コミュ下手のための人間関係基礎論 ver.2.0

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

 前回の記事では、

  1.  「人間関係がいかに人を疲れさせるか」
  2.  「過度の期待をやめ、あきらめることで疲れを予防する」
  3.  そして「共生という関係」

 について書いた。特に大事なのが予防策を打ったうえでの、具体的な対人関係を形成するための共生関係である。内容の要約をすればつまり、””所属集団””のルールを守ることが基本で、関係を深めるとはギブアンドテイクの契約関係を複雑化していくことだ。この説明を核とはしつつも、この記事では人間関係において中心的であるところの相互依存を主軸として、そこから人間関係を展開させていきたい。

 相互依存とは一言でいえば、私たちはケアし合う存在だということである。

  •  相互依存
  •  非等価(等価とは限らない)
  •  非個人交換(個人交換とは限らない)

 ケアは「相手」一般に行うものである。AさんにしてもらったからといってAさんに返すものではないし、やってあげた分だけ同じケアが返って来るとは限らない曖昧なものである。ケアし、ケアされる関係が人間関係において最も根本的なことであり、もし一方的にケアしたり、ただケアされることだけを望むなら、人間関係はありえない。

人を助けるとはどういうことか

 私たちが望むものは良好な人間関係だ。私たちの行う支援は、役に立つ場合もあればそうでないときもある。どちらかといえば、そうでないケースのほうが多いかもしれない。たとえばだれかに道を訊かれた場合、パソコンの使い方を訊かれた場合、悩み事を打ち明けられた場合。このような支援はプロによって行われることもあり、また、チームで行われることもある。もちろんマリオがピーチを救うのも支援の一種であり、(ありそうもないことだが)キノコ王国軍がピーチを救おうとするのも支援である。ここに金銭が絡む場合ももちろんある。専門性に応じて「非公式な」「準公式な」「公式な」支援と分類することもできよう。

 

 人間関係とは相互の支援関係である。われわれが学んで来た文化的な原則は次のふたつある(人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則)。

  1.  二つのグループの間におけるあらゆるコミュニケーションが、相互的なプロセスであるべきだということ。または少なくとも、公平で適正なものでなければならない。たとえば何かをされたら「ありがとう」を言うといったような基本的なことも含めて、やってもらったら何かを返すといった返礼のルール。
  2.  文明社会におけるあらゆる関係の大部分が、年少期に演じるすべを身につける、台本どおりの役割に基づいていること。

 状況に応じて、私たちは自らの役割を知る。相手が先輩であるときに敬意を払うことももちろんだし、自分が先輩であるときに敬意を払われることが期待できる。そしてそこにおいては私たちはそのような役割を要求し要求され、返礼のルールにもとづいて、それを認めたり相手の面目を立ててやらなければならない。「話したいことがあるんだ」とまじめに言われた時、あなたは相手の面目を立てて話を聞いてやらなければいけない。もし相手の要求を受け入れないなら、そこで話は終わる。簡単に言えば、あなたへ投資する価値は薄れる。あるいはこちらの高い要求を認めさせるために先に貸しを作っておくこともあるだろう―――支援とは社会的通貨である

われわれが自分自身や相手に置く価値の程度は、社会的行動や口にする言葉、見せる表情を通じて伝えられる。どれほどのものを要求するか、要求する人間の面目をどれくらい守らねばならないかといった、暗黙の経済上のルールは、文化や慣習によって異なる。しかし、日常的に使う言葉から、相互関係における社会的行動が経済的性質をもっていることがよくわかる。

人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

 人間関係は投資である。戦略として、相手の反応を投資指標にすることもあるだろう。自分のステータスの高さをさりげなく主張してみたり、打ち明け話をしてみたりして、適切な反応を返すかどうかテストする。こうしたことは関係が深まってからもありうる。買い増しだ。

 

「人は他人とつき合うときに、ルールや幼少時から得た知識を用いて、どの関係を育てたいか、やめたいかを選択する」(p.46)

 

 そしてその関係ならその関係なりの対処法というものはある。事務的な関係でいこうぜというサインだってあるし、もっと親しくなろうというサインもある。コミュニケーションには技能的側面があり、つまり、熟達がある。(逆に下手になることもあるだろう)。

 

「つまり関係の深さは、人が自らをさらけ出す中で、自分のために安心して要求できる価値の量という観点から定義されるのだ。」(p.47)

「どんな関係でも、当事者が相手を信用して自分のことをどれくらい打ち明けるかに、親密さの程度が反映されている」(p.49)

 

 当たり前だが、出会った途端殴って来るようなやつは人間関係以前の問題である。いわゆる基本的信頼すらない段階、テストさえしようと思えない素行、その文化において当然・最低限の行動をとれているかどうかを判定するテストを「根本的テスト」と呼んでいいかもしれない。嫌な上司も、一応はこの根本的テストをクリアしている。このテストに合格しないような奴というのは、存在が耐えられない。警察に突き出して、檻に入れておいてほしいようなやつである。根本的テストに合格しているとき、その人は「根本的信頼を持つ」と呼ぼう。

 根本的テストが済めば、次は信頼性テストに入る。ここにもやはり、うわずみだけの付き合いで留めたいような、一切関係を深める気になれないような、そうした基準はある。これを単に「信頼」「信頼性テスト」と呼んでもいいかもしれない。《他人を信頼するとは、われわれがどんな考えや感情、あるいは意図を示そうとも、相手はこちらをけなしたり、顔をつぶしたり、自信を持って言ったことを利用したりしないと思うこと》である。信頼できないとは、つまりこの逆だ。「話があるんですが」と言われて完璧に無視するのは相手の顔を潰すことになる。もっといえば、あなたがその人に話を聞いて欲しいとき、そう要求する権利はない。

 だが信頼というのは程度がある。あなたがさらけ出したことがキツ過ぎる場合、さすがに相手だって受け入れられない。だから深い人間関係というのは、きわめて傷つきやすい立場であるともいえる。だから逆に「買戻し」もありうる。信頼していた友達が、自分の大切に思っていたことを小馬鹿にしながら話したら、関係は後退する。それどころか、二度と買い増しなどしないかもしれないし、恐らくそうだろう。

  これまで簡単に「買い増し」という言い方をしてきたが、それは向こうに役割を演じてもらうのと同時に、こちらが役割を演じることでもある。《日々のプロセスは適切な行動を演じる、一連の場面の展開だと理解できる。そうした演技は、自分にどれくらいの価値があるか、また日々の社交の中で俳優と観客の両方の役割をどう適切に演じるかについて、われわれが学んだことを反映している》(p.50)。そして付き合い方は学ぶものであり、うまくなることもあれば、下手になることもある。

 

 支援関係における7つの原則をまとめてくれている。

  1.  与える側も受け入れる側も用意ができているとき、効果的な支援が生じる
  2.  支援関係が公平なものだと見なされたとき、効果的な支援が生まれる。
  3.  支援者が適切な支援の役割を果たしているとき、支援は効果的に行われる。
  4.  あなたの言動のすべてが、人間関係の将来を決定づける介入である。
  5.  効果的な支援は純粋な問いかけとともに始まる。
  6.  問題を抱えている当事者はクライアントである。
  7.  すべての答えを得ることはできない。

人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

 

 

※なぜ人間関係が「イヤ」か?

 私たちの多くは人間関係を求めつつも、その支援関係に参入することを嫌だと考える。《成長することが自立を意味する文化においては》(p.64)一般的に、支援を求めることは「負け」に近いという理由で。私たちは依存的であるよりも、自立的であると思いたいのだ。教えられるより、教えたいものだ―――ここに人間関係を苦手とする一群を見ることができる。この群の人々の特徴は「被支援」の回避、対人における完璧主義(一人のときは完璧主義的傾向がないこともある)、指摘されたり、教えられたりすると自尊心が傷つく。だからこそ、人間関係を忌避する。彼らはもし「教えて」「助けて」と迫られたら、その関係を拒否しはしない。相手が弱ければ弱いほど、弱いシンボルを多く有すれば有するほど、よい。ただし、その支援に自分より強力な他者の介入が必要とされない限りはだが。つまり、赤ん坊は対象となりにくいと考えられる。相手が一定程度自立している必要はあるが、強すぎては困る。

 

人間関係は不安定からはじまる

  あらゆる人間関係は不安定からはじまり、不安定と共にある。安定したように見える関係は、細かな調整が気にも留まらないほどに滑らかに行われているからだ。その不安定は私たちの「無知」と「ワン・ダウンの感覚」に根ざしている。つまり、われわれはあまりにも相手のことを知らなすぎるし、また、支援を受けるのは自立した個人として許しがたいことなのだ。この不安定によっていとも容易く関係は壊れる。

  1.  《「パパ、算数のこの問題を手伝ってくれない?」と尋ねる息子は、本当のところ、もっと深くて個人的な悩みについて話したいのである》(p.71)。このように、《助けを求めながらも、本当はまったく別のものを望んでいる人間の感情に、支援者はとりわけ敏感でなければならない》(p.73)。これは被支援者からの信頼性テストでもある。相談できるかをテストされている。
  2.  信頼性テストに合格したと知るや、一気に依存度を上げてくる被支援者がいる。だがわたしたちは対等であり、主体的存在として互いを扱わなければならない。
  3.  対等でないという感覚をもった被支援者は、支援者の面目を潰すことによって、その均衡を保とうとすることがある。「そんなこともうやりましたよ」「それは〇〇だから駄目なんじゃないですか?」
  4.  支援者は相対的に高い位置にいる。彼らは不均衡のままで相手に助言をしようとするが、時期尚早であり、その時(受け入れる準備の整うまで)が来るまで待たなければならない。早すぎるタイミングで助言をすると、ワンダウンから来る反発を食らい、支援者も引き返すことはもはやできず、支援関係は崩れる。
  5.  私たちには積み上げて来た過去の経験があり、その「演じ方」「振る舞い方」をもとに行動する。しかしそれがどの劇場においても適切であるわけではない。

支援というものが、影響を与えることの一つの形だと考えるなら、自分が影響されてもかまわない場合しか他人に影響を与えられない、という原則はきわめて適切だ。

人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則

 この二つの不均衡の原因を潰すためには、相手の話をよく聞き、ワンダウンの感覚を縮めてやることだ。そしてそのあとで、問題に対処するためにどんな役割を果たせばよいかを考える。支援者としての役割は主に三つある。①情報やサービスを提供する専門家、②診断して、処方箋を出す医師、③公平な関係を築き、どんな支援が必要か明らかにするプロセス・コンサルタント

 まず第一に「専門家」である。道を尋ねられ答えるといったことも含まれる。複雑な問題となると被支援者も問題を理解していないし、支援者のほうも成功確率が低くなる。どちらもやはり理解し合う必要があるのだが、被支援者は基本的に専門家に頼りきりになる傾向がある。完璧にそれに関わる権限を委譲してしまい、つまり、言いなりになってしまう。ナントカというホールへの行先を訊かれるという単純なケースにおいてもこの問題は起きうる。被支援者としてはスミス氏の音楽ライブに行きたいのだが、その場所をそのホールだと勘違いしていることがある。そこで話をして、「ライブならそのホールではなくて、あのホールですよ」と教えてやるのが効果的な支援であろう。訊くほうも答える方も情報が少ないことを覚悟してかからなければならないが、一般的に、このような筋書きにはならない。

 第二に「医師」である。専門家の役割に加えて、処方箋まで出してくれる。つまり具体的に手を貸してくれる。医師は便利ではあるが、やはり専門家のもつ落とし穴を持っているし、さらには「指示に従うのはイヤ」という反発も招く。被支援者は自らの情報をすべて明かしていない可能性がある。医師の言うことに従わないやつを医師が愚かだと断ずるのはすべての情報を網羅しているという過信からくる。一方、被支援者が問題を理解しないという点も問題で、つまり私たちはお互いに何も知らない。また、支援を行うための診断プロセスは医師の役割においては、被支援者に大きな影響を与えるほどのものになりがちである。医師の検査それ自体が患者に不安を与えるのだ。

 第三に「プロセス・コンサルタント」である。これは相手の要求にこたえるよりも、コミュニケーションのプロセスに焦点を当てるものだ。関係の初期には特に必要な役割であり、問題が単純な場合は短時間で済む場合がある。たとえば「ちょっと体を起こしてくれないか」と頼まれて、「じゃあこっちの腕を引っ張るぞ」とか「触るぞ」とか声を掛けることなどもそうだろう。私たちはやはり何も知らないのであり、被支援者の問題がどう深刻なのかを知っている可能性があるのは唯一、被支援者だけなのである。

 

 

 

  私たちはお互いに何も知らない。知るためには聞く必要がある。だが、質問することは自らの立場を下げているように感じる。『論語 (岩波文庫)』でも、孔子儀礼のことを質問して回り周囲から嘲笑われているが(八佾十五)、質問して回る人というのはデカい声で自分の意見を主張する人よりも劣って見られる。リーダーとしては、意見主張の行動が期待されるほどだ。だが実のところ、そうしたやり方は関係に不利益をもたらす。支援を求める人はワン・ダウンの感覚に置かれることは前述したが、だからこそ、問いかけるということが重要になってくるのだ。私たちは自分がしゃべることには熱心だが、尋ねることには関心がない。

「謙虚に問いかける」は、相手の警戒心を解くことができる手法であり、自分では答えが見出せないことについて質問する技術であり、その人のことを理解したいという純粋な気持ちをもって関係を築いていくための流儀である。

問いかける技術 ― 確かな人間関係と優れた組織をつくる

  この謙虚さは、上司や先輩に対する伝統的な謙虚さ、立派だと思う人に対して任意に示す謙虚さとは区別される。今ここで必要な謙虚さは、自分がしようとしている支援が他者に依存していることを理解したうえでのものだ。これは被支援者には実感しやすい(なにしろ頼っているわけだから謙虚にもなる)が、支援者にこういう発想はないかもしれない。だがその支援が支援であるためには、被支援者を理解することが欠かせない。また、問いかけについても、問いかけに見せかけたマウントや意見、煙に巻こうとする質問、相手を困らせてやろうとするための質問にならないようにしなければならない。また、そんな悪どい質問でなくても、謙虚な問いかけにはなっていないパターンがある。支援には役立たないのに野次馬的好奇心で訊いたり、「それでどう思ってるわけ?」「何も感じなかったの?」と対決的姿勢を見せたり………。

 

個人的なつながりへ

 私たちは状況に応じて振る舞う。職場へ行ったら相手が疲れていようがいまいが「お疲れ様です」などと言うことになっている。文化的に、年齢や地位などに応じて振る舞い方がある程度決まっている。

 構築される人間関係には「課題指向型」とでもいうべき、個人的関わりを抜きにしたものがある。店員とは商品の中身や価格、配送に限定して会話がされるべきだと感じているだろう。謙虚な問いかけにもこのような状況に応じた適性レベルがある。そして個人的な関係を結ぶ「人間指向型」の人間関係もある。一般的には会社の社長と、平社員が一緒に釣りに行くことはありえないのだが(「どういう関係?」といぶかられる)、こういった境界線が破られることは当然あるし、複雑さが増し文化的多様性が広がるこれからはそれほど珍しいことではなくなるかもしれない。課題指向と人間指向とは、連続体として見られる必要があるのだ。

 個人的なつながりを持つプロセスは、もちろん、それぞれをさらけ出すプロセスでもある。「どこに住んでるの?」と個人的なことを質問するのは、課題指向型から人間指向型に境界線をちょっと押してやることなのだ。相手がそれにどう応えるかは状況次第だし、なにが個人的かは文化によるのだが。そのような踏み込みを成功させるにはやはり信頼が必要である。《他人を信頼するとは、われわれがどんな考えや感情、あるいは意図を示そうとも、相手はこちらをけなしたり、顔をつぶしたり、自信を持って言ったことを利用したりしないと思うこと》(人を助けるとはどういうことか ― 本当の「協力関係」をつくる7つの原則)だったことを思い出そう。これを伝えるための方法は、日々の何気ない行動である。知らない人と顔を合わせても視線を逸らすだけで別に何もしないが、それと同じ対応をされたのでは「認知されていない」と思われてしまう。

 

 

補論:課題指向的構えと人間指向的構えなど

  •  「根本的テスト」は危険人物しか不合格にならないかのような書き方をしたが、実のところ、そんなことはないのではないかと思われる。いわゆる差別もそうだ。つまり支援という社会的通貨を交換する気が起きないような、そんな相手はすべて根本的テストをクリアしない。取引する気にもならない。石ころのように拾って投げることはあっても、話しかけられても無視する。相手からのアプローチを一切受けない。危険人物から逃げるのとは違って、こちらは接触しながらも支援関係には至らない。
  •  職場の人が仲良く話している。気さくに世間話をしてくるあの人も、自分にだけはしてこない。それで嫌われているのではないかと思うかもしれないが、そうとも限らない。あなたが人間指向型の付き合いを求めたとしても、「課題指向的構え」をとっている可能性がある。つまり仕事の話以外はしない、というような。あなたの意志とあなたの振る舞い(構え)が合致していないと齟齬が生じ、思うように支援関係が発展しない。
  •  軽い雑談はどのようなタイミングでなされるのか? どのような内容なら許されるのか? そしてもちろん、こうしたことも普段の挨拶とか、挨拶にちょっと付け加える「今日は暑いですね」といったような一言が効いてくる。自分なりの「人間指向的構え」の表現を見つけないといけないし、実は文化的には、挨拶に付け足すちょっとした一言などでお決まりのパターンが定まっているのかもしれない。
  •  人間関係は非常に大事なことだがありとあらゆる人間に好かれることはできない。というより、数十年かけてじっくり行けばどんな人間にも好かれるようになるはずだが、そこまでして関係を築く必要は非常にまれなものだろう。そこまで極端でなくとも、世の中にいる「仲良くなりたい」人間が多ければ多いほど、投資額は大きくなる。人間関係に関する理論は、人間関係をある程度まで放棄する術を教えるものでもあるはずだし、実はむしろこのためにこそ、この記事はある。

にんじんと読む「わたしは不思議の輪(ダグラス・ホフスタッター)」🥕 ~第六章

第五章 ビデオフィードバック

 略

 

第六章 自己とシンボル

 生物は生き延びるために、《身近に進行していることを、どんなに初歩的な形であっても、何らかの方法で察知し分類する能力を発達させる必要がある》(p.104)。その能力が自分自身に向けられるようになるのは、時間の問題だろう。大部分の原始的生物には自己知覚がほとんどないか、あるいはあってもほとんどないと考えられる。

 とはいえ、知覚は単なる「受信」とは異なる。《知覚はまず、微小なシグナルが大量に集まって構成される何らかの入力を受け取るところから始ま》(p.106)り、《受け取られたシグナルは、その後さまざまな変遷をたどった末、最終的には、休眠状態のシンボルが集められた大きなプール、すなわち表象機能をもった離散的な構造から、その一部を選択的に呼び覚ます》(p.106)。ここでいうシンボルとは、表象機能をもった離散的な構造であり、呼び覚まされると活性化する物理的機構のことである。それはたとえばエッフェル塔のことを考えるといつも活性化する脳内の特定の機構であり、エッフェル塔シンボル、ペンギンシンボル、南極シンボルなど色々あるだろう。

 大量のシグナルを受けとりながら、少数のシンボルが呼び覚まされるのはまるで「ろ過」だ。ビデオを使ってビデオを映すことはできるが、このビデオシステムにはシンボルのプールが欠けており、当然プールにアクセスもできないので、本当に何かを知覚しているとは言えない。

 シンボルのプールがあったとしても(ビデオに備え付けたとしても)、それがみな同じ豊かさを持っているわけではない。たとえば蚊は人間のように椅子やら天井やら壁やらとカテゴリー分けをしているようには思えない。彼らにとって必要なのは「食物を得られそうなところ」と「着地できそうなところ」「潜在的脅威」ぐらいではないか。次に重要なのは、蚊がこれらに対応するシンボルを持っているかどうかだ。水洗トイレはタンクの水位を意識しているのか、と問うのと同じように、蚊には多少でもこれを意識しているのか、と問うのだ。それは意識を伴わない、天秤に重りをのせれば片方が上がるような単純な機構なのか、どうなのか。蚊にそんなものがあるとしても、恐らく人間ほど明瞭なものではないだろう。

 人間のプールは尋常ではない。「子」があれば「父」「母」もあり、それらは「両親」に収まる。両親にはともに親があり、「祖父」「祖父母」が生じ、「祖父母」におさまり、「家族」といったようなものにおさまる。スーパーの「レジ」には「会計する」こともある。そこにはエピソード記憶が伴う。実に細かいところまで、よく覚えている。こうした能力がさらなる複雑さを生みだす。

 

 

 

一生をどう過ごすか? M.チクセントミハイのフロー体験【過去記事「楽しむということ」】

 私たちはなぜ生まれてきたのだろうか。

 幸福(Eudaimonia;よき人生;開花)を考えるうえでの出発点は、私たちが動物の一種であるということだ。私たちはほかの動物となんら変わりのない普通の生物であり、その一方で、ホモ・サピエンスという非常に「特異な」生物である。なにしろ人間は複雑で高度な社会やら文化やらがあり、道徳があり、言語を使い、そもそも幸福などというものを考えている恐らく唯一の種である。

 ヒト以外の生物たちは、自己意識というものをかろうじて持っているか、あるいは持っていない。何も感じない機械ではないものの、私たちが思うような意味では決して反省しないし、よほどその種の能力に優れていない限り、飯を前にして「待て」と言っても止まらない連中である。そうして動く必要のないときは基本的に寝ている。

 だが人間ときたら、生活に必要なだけの金を得たとしても、決して動くことをやめない。それで人が死んだり、自分が死んだりしても構わないかのようである。そして実際、死ぬ者もいる。

そのようなわけで、多くの宗教が人間の不幸の原因として自我を非難してきたことは、さほど驚くことではない。過激な助言として、自我に欲望を左右させないことで自我の活力を奪う、というものがある。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  仏教はその中でも最も過激ではないだろうか。なにしろ彼らは一切の欲望を捨てよとすすめるのだから。悟りたいと思うことすら捨てなければならないのだからよっぽどだ。それは一つの極であるとはいえ、自分自身について警戒せよという助言は極めて有益なものである。問題はその「程度」だ。

 仏教の対極にあるのは、「個人主義と物質主義」だ。仏教は我を捨てるようにいうが、こちらは自己愛を富で育み守ろうとする。

われわれは自己によってアイデンティティを得て、自己は自分という存在の中心要素であると信じている。したがって、自己は、だんだん意識を構成する要素の中で最も重要なものになっていくばかりか、少なくともある人々にとっては、注意を払う価値のある唯一のもののように思われるのである。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  そうやって成長させた自己が理性的なら構わない。だが大抵の人間の自己はゆがんでいる。私たちを教育してきた者たちもまた、完璧な存在ではないからだ。

 

 私たちはここで「幸福」そして「徳」について進むことができるが、ここではチクセントミハイの筋道にしたがって、フロー体験を目指して進んでいこう。実はこのフロー体験は徳を技能に似たものとして見た時、徳とも深く関係してくる。

 やりがい、そして生きがい

 よき人生とはおそらく、生きがいのある人生だろう。

 そして生きがいのある人生とは、いまおそらくあなたが仕事に感じているような「あれをやれ、これをやれ、何時までに出勤しろ、明日も来い、ミスするな………はい、お金」という無味乾燥なものではないことはたしかだ。寝る以外の時間に何をしているか調べてみると、仕事や勉強といった「生産的活動」、家事や食事や身づくろいや運転といった「生活維持活動」、テレビを見たり読書したり趣味に使ったりくっちゃべったりごろごろしたりする「レジャー活動」の三種類があることがわかる。とはいえ、大事なのはレジャー活動だと思って飛びつくのは早計である。

 私たちにとってやりがいがあるというのは少なくとも、その活動のモチベーションが内発的なもの(やりたい)であって、外発的なもの(やらなければならない)でないことだ。私たちが目指しているところの、やりがいのある人生を完全に送っている人のことを「自己目的的パーソナリティ」を有すると呼ぶなら、彼はどんなことにもやりがいを感じ、〇〇のためといったような動機をほとんど必要としない。彼は外から与えられる報酬には興味がないのである。

 自己目的的パーソナリティを持つ個人の特質は、非常にエネルギッシュで、自分自身にはあまり関心を払わない。つまり、自分の都合に益する興味関心をもたない。彼らはもちろん何かの解決を目指すこともある。だがそもそも目標というものは精神をそこに集中させて注意散漫を回避するという効用がある。《たとえば登山者が目標として頂上に到達することを決めるのは、そこに到達したいという深い願望があるからではなく、目標が、登るという体験を可能にしてくれるからである》(p.196)。

 このようなパーソナリティを完全に持つことは望めないように思えたとしても、人生の質を高める、つまり生きがいを持つためにはここを目指すのが自然である。多くの人は、実利的でない対象に割くエネルギーを節約する。だが、この興味関心を育て損ねると、およそやりがいは手に入らない。

われわれは、人生をそれ自体として楽しむために必要な興味関心と好奇心を育てるために、時間を見つけ出さなければならない。そして、時間と同じぐらい重要なもう一つの資源は、心理的エネルギーをコントロールする能力である。注意を奪う外的なチャレンジが起こるのを待つのではなく、注意を多少なりとも意のままに集中させる術を学ばなければならない。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

自分の人生のオーナーシップを取り戻す唯一の方法は、自分の意図と一致するように心理的エネルギーを導く術を学ぶことである。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

 

 このような人たちが気にするのは、時間の浪費だけだ。彼らは自分に迫って来る「対処の必要性」を素早く処理する。われわれのもつ注意力を少しずつ浪費しているルーティンワークは、それに優先順位をつけ、整理し、簡素化すれば、想像以上に成果をもたらしてくれるだろう。時間の節約!

 

 

やらなければならないことに立ち向かう

 だが、私たちには労働という最大の壁があるではないか。《多くの人は、適正な賃金といくらかの安定を得るかぎり、仕事がどんなに退屈でも疎外されていても大したことではないと感じている》(p.143)。が、実はそのような態度はあなたの時間の40%ほどの時間を捨てていることになるのである。

 仕事というものはなぜ不愉快なのか。この問題に比べれば、より多くの賃金や生活の安定などどうでもよいと感じることだろう。

  1.  仕事は無意味。誰にとってもよいことをしないし、実際は有害かもしれない。
  2.  仕事は退屈で月並み。多様性もチャレンジもない。停滞の感覚。
  3.  仕事にはストレスが多い。上司や同僚。

 チクセントミハイはばっさりと《おそらく唯一の選択肢は、厳しい経済的困難という代償を支払ってでも、できるだけ早くやめることである》(p.144)と言い切っている。とはいえ、いずれやめるとしても今そのようなことに従事しなければならないことに変わりはない。やりがいのない仕事に「違い」を生むために、努力できることがあるはずだ。どうすればもっと価値が生まれるだろうか? どうせやらなければならないなら楽しくやりたいものだ。

どうやったら、それらがストレスにならないようにしておけるだろうか。第一歩は、意識にどっと浮かんでくる要求に優先事項を設けることである。より責任をもっていたら、何がほんとうに重要で何がそうでもないのかを知ることがより必要になる。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  しなければならないことはどうしても出てくるが、「目標を設定する」という行為は、多くの苦痛を取り払ってくれるだろう。ニーチェは運命愛(アモール・ファティ)ということについて言っている。すなわち、《何事によらず現にそれがあるのとは違ったふうなあり方であってほしいなどとは決して思わないこと、前に向っても、後ろに向かっても、永劫にわたって絶対に、……必然的なものを耐え忍ぶだけではなく、……そうではなくて、必然的なものを愛すること……》(p.197-198)。これをチクセントミハイ流に言い換えれば、《自身の行為のオーナーシップを握る》(p.199)ということだ。

 次のステップはそうした目標にスキルを釣り合わせること。

うまくやる力がないと感じる仕事もあるものである――それはほかの人に任せられるだろうか。自分は要求されたスキルを学ぶのが間に合うだろうか。助けを得られるだろうか。仕事は形を変えるか、もっと簡単な部分に分けられないだろうか。(中略)解決策の戦略に、注意を注がなければならない。コントロールを訓練することによってのみ、ストレスは避けられうる。

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

  生活のなかで仕事は主要な領域だが、もうひとつ重要なのがある。それは「人間関係」である。仕事を楽しんだり、楽しもうとしたりして、それに専念し始めて人間関係をおろそかにすると《幸福になるのは難しい》(p.155)。問題はバランスだ。家族は大事だということはすべての夫も妻も納得するだろうが、夫のほうは特に、冷蔵庫の中の食べ物とガレージの車さえあれば家族のために自分を捧げていると勘違いしている。家族は放っておいても永久に大丈夫なものだと安心している。だがそれは心理的エネルギー、つまり注意力を働かせてとりかからなくてはならないものだ。疲れ果てて帰って来た時、家族といることは努力が不要なこと、なのではない。ほかのどんなタイプの交流にもこのことはいえる。

 しかしなんてめんどうくさいのだろう。私たちは人間関係をある種の障害として見るようになった。これは西洋社会のルソー以来の考え方である。だがアジアの伝統的な見方では《個人は他者の交流を通して形づくられ洗練されるまでは、何者でもない》。私たちがいかに一生を他者に依存しているかは『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』においても詳しく語られている。そもそも、私たちはなかなか一人でいることができない。だというのに、ほとんどの人が孤独感に耐える能力があると自認している。しかし一方で、一人で過ごす時間が少なすぎると、また、多すぎると、問題が起きる。《いつも仲間とつるんでいるティーンエイジャーは学校で問題を抱えており、自分一人で考えるようにはならないだろう。一方、いつも独りでいるティーンエイジャーは簡単にうつ病や孤独感の餌食となる》(p.124)。チクセントミハイが言うには、「起きている時間の約三分の一」を一人で過ごすのが平均的らしい。それ以上を問題なく過ごすには、訓練がいるということだ。一人の時にもたらされるのは強い集中である。

 だが、やはり問題はバランスなのだ。孤独な存在として過ごすのも、人生を社交としてのみみるのもどちらも異常だ。

 

 

フロー体験

自己目的的な経験は退屈ではなく、またふつうの生活のなかで入り込んでくる不安を生みださず、活動に完全に没入させ、絶えず挑戦を提供する。人は必要とする技能をフルで働かせ、明瞭なフィードバックを受け取り、すなわち人は筋の通った因果の体系の中にある。

 全人的に行為に没入しているときに人が感ずる感覚を「フロー」と呼ぶことにする。これは「自己目的的経験」を言い換えただけのものだが、この理由は、「自己目的的」という言葉がもつ含意を避けるためである。これではまるで内発的動機だけしか持たないように見えるが、そのような仮定はまったく必要ない。人はフローをいかなる活動においても経験し得る。そしてフローがある程度容易になるような活動(フロー活動)もある。ゲームや遊びは明らかにフロー活動である。創造的活動もまたフロー活動である。遊びと創造以外では幻想的とか宗教的と呼ばれることがらが関係する。ヨガや瞑想、宗教的体験についても言える。フローの重要さはその活動がもたらす外的目標のようなもの(完成した絵、科学者の理論、神の恩寵)によって覆い隠されてしまうが、実のところ、これらの目標は活動を方向づけるものであり、その活動を正当化するために表象にすぎない。そこで重要なのは行うことであり、その結果自体が満足をもたらすわけではない。

 さて、フローの明瞭な特徴は行為と意識の融合であり、彼は自分の行為を意識するが意識していることを意識することはない。意識していることを意識することはそれを外部から見ることであり、フローは妨害される。しかし人間は束の間しか意識の意識を止めることができない。しばらく続く程度にまで融合するためにはその活動はその人にとって手ごろなものでないといけない。儀式やゲーム、ダンスなど、ルールが確立しているものにおいて、もっとも頻繁にフローが観察されるのはこのためである。

 フロー経験の第二の特徴は、限定された刺激領域への注意の集中=〈意識の限定〉である。この特徴から行為と意識の融合が生ずるのだろう。邪魔な刺激を外に追い出すことでもある。動機付けに金が絡むと、外からの侵入をうけやすくなり、プレイから気が逸らされる。

 フロー経験の第三の特徴は、〈自我喪失〉などと呼ばれてきた。創作活動をしている人やプレイヤーなどが「自分がいなくなってしまう感覚」などと呼んだものである。フロー状態にある人は自分の行為や環境を支配し、しかも支配している感覚がない。先に書いたように、フロー経験は、ある程度手頃さが必要であった。ルールによって認められたことがらのほかに、なんらかの脅威が自分に起きようはずもないと確信できている。フローの状態にある人はその活動に没入しきっており、次にどうすればいいかなど考えない。行為とそれによるフィードバック、そして反応が自動的で、噛み合っている。

 最後の特徴は、自己目的的、つまりそれ自体のほかに目的や報酬を必要としないことである。

フロー活動は刺激の領域を限定することによって、人々の行為を一点に集中させ、気持ちの分散を無視させるが、その結果、人々は環境支配の可能性を感ずることになる。フロー活動は明瞭で矛盾のないルールを持っているところから、その中で行動する人々は、しばしの間、我を忘れ、自分にまつわる問題を忘れることができる。以上のすべての状態が、人々に報いのある過程を発見させるのである。

楽しむということ

  私たちはしばしば外発的動機を必要とする。その意味では、フローに入りやすいフロー活動というものは、フローを促す構造化された行為の体系と見ることができる。フロー活動はもっぱらフローを生み出すためにのみ構成されているようなのである。いかにしてフロー活動はフローを生み出すのだろうか。

 フロー活動が共有する特徴は人が退屈や不安を感ずることなく行為する機会を含んでいるということであり、言い換えれば、行為者の技能に関して最適の挑戦を用意している活動のことである。もしも挑戦に比して技能があまりにも上回っているなら退屈だし(レベル2でクリアできるダンジョンをレベル100で挑む)、あまりにも下回っているなら不安である。とはいえ、この単純なモデルは挑戦対象の性質と技能の客観的水準のふたつにのみ依存しているという点で、おのずと限界が見えてくる。実際のフローは、その人本人が挑戦や技能をどう知覚するかにかかっている。傍からみれば技能と釣り合った挑戦だとしても、フローになるか、不安や心配、退屈が起きるかは決して予測できない。つまり客観的要求と自己目的的なパーソナリティ構造について理解しておかねばならないが、後者については特に、未知のままである。とはいえ、近似的でよければ、客観的構造について理解するだけでいいだろう。

 より重要なことは、フローが生じうるように環境を再構成するその人の能力である。フローを経験したいときに心配が生じて来るなら、挑戦レベルを落とすか技能レベルを上げればよい。相手にハンディキャップを課すのもよいだろう。

 

 日常生活において行われる些細な、自動的な行為は、それ自体が楽しいこととはいえないとはいえ、より構造的な活動への没入を助長するが故に重要である。たとえば退屈な講義中に落書きをしたり、手紙や論文を書く際に喫煙をしたり、固い本を読むときに心をさまよわせたりすることは誰しも行うことである。これらを「マイクロフロー活動」と称し、考えてみよう。フローの分析の時にみたように、フローは極端に単純なものから複雑なものへと至る連続体の上に位置している。それゆえ、マイクロフロー活動のような極めて単純で、低い水準の技能しか要求していない点で、フロー・モデルに照らして研究することは当を得ている。(第九章より)

 

 

 

 

にんじんと読む「現代の死に方(シェイマス・オウマハニー)」🥕 第一章

第一章 私は何を知っているか

 「従順な死」。哲学者フィリッパ・アリエス産業革命以前の数千年のヨーロッパでの死をそう呼んだ。そこでももちろん死は恐れられていたが、《死は身近にあり、急に来て、周知、公然のもの》(p.11)であり、《死を迎える人も、付き添う人も、対処法を心得ていた》(p.11)。

 一方、現代人は筋書きを知らない。《現代人は思いのままに死を「演出する」最初の世代である》(p.12)。次の引用には現代人の持つ「良き死」の演出の典型的パターンが書かれてある。これが目標なのだ―――そして多くの場合、こんなことにはならない。

したがって、理想的な死についての現代の一致した意見はこうなる。年齢は百歳、仕事も私生活も充実し、これまで風邪以外に病気をしたことはなかったが、今は病気である。病気でも知力は確かで、意思疎通もでき、食べる楽しみは衰えていない。この病気はその時(死)を正確に把握できる。財産や事業利益を処理する。信仰心があれば、最後の宗教的儀式を受けて神と和解する。長い人生で得た知恵を引き出して伝えることができる。最後の美味しい食事をとり、手を上げて「さようなら」を言う。目を閉じた瞬間に死ぬ。家族や友人は臨終を深く嘆き悲しみつつ、力強い霊的体験をしている。あなたの人生と教訓は彼らを豊かにした。葬儀は喜びと復活の機会であり、おおぜいが参列した。あなたは後に残した人たちの記憶の中に永遠に生き続ける。

現代の死に方: 医療の最前線から p.32-33

  私たちの望みは、《死を現代的方法で飼い馴ら》(p.12)すことだ。だが大抵の死は平凡できわめてあっけないものである。死ぬ方法と時期はコントロールできない。できることはただ、死が日常的なものであることに気づき、過剰な医療を減らすことだ。死はどうにもならない。キューブラー=ロスは死の五段階の反応を考えだし、本にもよく載っているが、《五段階の反応を見せた人がいた記憶は私にはない》(p.27)。

死は、人生の何ものによっても扱いやすい大きさには加工処理できない。死はつねに主権者だり、主導権を握っている。

現代の死に方: 医療の最前線から p.27

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む「現代の死に方(シェイマス・オウマハニー)」🥕 序文

序文

大方の人間にとっては死は噂であり、所詮、他人事である。

現代の死に方: 医療の最前線から

  人は死ぬ。確実に。なのに何故か、あるいは、だからこそ、自殺を選択するような人がいる。とはいえ、ほとんどの人は死についてあまり意識にのぼらないらしい。近親者が死んだり、自分が重い病気にかかったりしてようやく死について考える。つまり「他人事」というわけだ。

 しかしかといって、ホスピスの医師が書いた死に関する本は、急性期病院などで働く医師のもつ死についての見方とは合わない。緩和ケアの専門家ならまた別のことを書くかもしれない。が、人間は圧倒的に急性期病院で死ぬ。そして色んな死に方をする。チューブまみれもあるし、いきなり死んだりもするし、苦しみながら死んだりもする。

私はなぜ今日の急性期病院では良い死に方ができにくくなっているのかについて説明し、総合病院とホスピスでの経験を対比してみたい。「隠された死」に至る歴史的、社会的要因を調べ、なぜ現代人は臆病で死と終末を直視できないのか調べたい――故キーラン・スウィーニー(訳注 イギリス人医師・作家)が「勇敢であることへの躊躇い」と呼んだことだ。現代医学の多くは過剰と不正直の文化に特徴があり、この文化は終末を迎えた人間のためにならない。

現代の死に方: 医療の最前線から

 本書は慰めの本ではない。死は苦悩でしかなく、人生の終わりだからだ。私たちはか弱く、傷つきやすい動物である。

現代の死に方: 医療の最前線から

 

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む「道徳の自然誌(マイケル・トマセロ)」🥕

 同情と公平。これは協力における二つの形「利他的な援助」と「相利共生型の協同」の二つの違いを説明するものとされる。道徳性と呼ばれる協力形態においても無論である。そして同情とは道徳性において基礎的なものであり、血縁選択に基づく子への親の世話が進化的源泉であるのは間違いない。すべての哺乳類は最低限自身の子には同情的配慮を示すが、中には非血縁者に示すものもいる。《同情的配慮によって動機づけられた援助行動は、自由に行われる利他行動であり、余計な部分を取り除けば義務感は伴わない》(p.2)。そして、おそらくヒトに限定されるのが公平である。公平にはいわばバランス感覚が必要で、さまざまな方法に伴うさまざまな相互作用も勘案しつつ、自身を含めた関係者の「相応性」について道徳判断を適切に下さなければならない。みんなを良いようにしてやる、というだけではなく当然、悪い奴をこらしめようとか義務とか責任とか、同情に比べて非常にややこしい。《公平とは、多くの関係者の多様な動機から生じる多くの相容れない要求に対し、バランスの取れた解決策を探し求めるために競争を協力化したようなものなのである》(p.3)。

 ヒトの道徳性は社会における適応の形態であるはずで、つまり、社会でうまくやっていくようにするためにそのメカニズムが形づくられてきたのであろう。この本ではその進化を説明することを目的とする。類人猿は自分と違う他の個体と相互依存的であり、長期に関係を結び、この関係に日々投資している―――《ヒトの道徳性の自然誌を考察する際の進化的な出発点は、類人猿一般が相互に依存している相手、すなわち血縁個体や友達個体に示す向社会的行動になる》(p.4)。

 

 この出発点からヒトの道徳性への進化の説明こそ「相互依存仮説」である。これは二段階から成る。まずは「協同」、そして「文化」である。

 最初の段階が起きたのは何十万年も前、生態変化によってパートナーと協力しなければ死ぬ状況へと追いやられた。これによって血縁個体や友人(類人猿にも友人はいる)を超え、協同するパートナーにまで同情を拡大するようになる。ここで生じたのが「協同志向性joint intentionality」=「相互依存的な複数主体のわたしたち」を作るという技術と動機だ。共通目標を設定した共同志向的活動に参加することでパートナーが等しく相応しい二人称の主体であるという認識を両者にもたらし、さらに、この関係からハブられたくなければどうすればいいかという規範も生じた。《最終的に、共同志向的活動のパートナーに関わるこれらの新しいあり方すべての結果、初期ヒトはある種の自然な二人称の道徳性に達したのである》(p.7)。

 次の段階はホモ・サピエンスの誕生した十五万年前にはじまり、これは人口動態の変化によって加速した。規模が大きくなると部族レベルの小集団へ分裂し、この部族同士が次の「わたしたち」になった。ここで生まれたのは「集合志向性collective intentionality」という技術と動機である。これにより文化的共通基盤に基づいて、文化慣習、規範、制度を作り出すことができた。《最終的に、集合的構造を持った文化的文脈で、互いを関連づけるこうした新しい方法のすべてによって、現生ヒトはある種の文化・集団指向的な「客観的」道徳性に到達したのである》(p.10)。

 ということは、私たちは少なくとも三つの異なる道徳性の支配下にあるだろう。道徳的ジレンマの多くは、この三つの対立によって生じる。

  1.  類人猿一般に見られるような、血縁個体や友達に対する特別な同情を中心に組織された協力的傾向。《すなわち、燃えているシェルターから助け出す最初の人間は、自分の子供か配偶者であり、熟考は必要ない》(p.10)。
  2.  特定の状況では特定の個体に特定の責任をもつという、協同という共同道徳性。《すなわち、次に助け出すべきは、今火を消すために協同していて火と格闘しているパートナーである》(p.10)。
  3.  文化集団のメンバー全員が等しい価値を持つという、文化規範と制度の(個人が表に出ない)集合的道徳性である。《この道徳性にしたがえば、その災難からすべてのメンバーを等しく、誰彼によらず助け出すことになる》(p.10)。