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コミュ下手のための人間関係基礎論【過去記事「世間話は「そりゃそうだろ」が基本」】

 人と会話した後に「あぁ、やってしまった」という後悔が必ずあります。目の前に人がいる場合も、電話も、メールもそうです。安心なのがTwitterとブログなのですが、これはそもそもレスポンスを期待する度合いが他よりも小さいからかもしれません。ふぁぼの数を気にしたりアクセス数を気にする場合はありますが、通常の意味での会話とは異質なことは明らかです。そしてやはり、リプライのときは緊張します。

 

 そんな風ですから、仕事のあとは疲れ果ててしまいます。

 

 

対人関係は「疲れる」

 それでこの頃は「疲労」というものが一大テーマになっていました。いろいろ調べても腑に落ちる定義がなかったため、””自分の疲労””というものを自分なりに記述してみるといくつかの型のあることがわかってきました。もちろん完全な分類とは言えませんが、読者のみなさんも経験したことのあるものだろうと思います。

疲労

  •  肉体的疲労
  •  精神的疲労Ⅰ型(他者の目を気にする)
  •  精神的疲労Ⅱ型(他者を気にする)

 まず伝統的な肉体/精神の区別をつけ、精神的疲労を原因によってさらに区分けしたものです。これらの三分類は相互作用していることは明らかです。そもそも精神的疲労というものは肉体的変化を伴います。とはいえ、対応関係があるからといって現象として還元できるわけではありません。

  •  Ⅰ型は、「他者の目を気にする」ことです。「おかしいかもしれない」「間違いかもしれない」「変かもしれない」「いいのかな」「ああ言っておけばよかった」「ああしておけばよかった」等々の様々な表現がされます。しかし、表現されないこともありますし、そう表現されたからといってⅠ型を意味するとは限りません。*1
  •  人はいつでも多かれ少なかれ他者の目を気にしています。立ち上がったり、タイピングをしたり、コップを持ち上げたりするのに筋肉を使うように、なにか活動をしようと思えばⅠ型によって必ず疲れてきます。私たちは常に世の中に巻き込まれており、「なにもない」ときが一瞬たりともありません。
  •  Ⅱ型は、「他者を気にする」ことです。「なんだあの人」「何やってるんだろう」「腹立つなぁ」「嫌だなあ」等々の様々な表現がされます。この表現がただちにⅡ型を意味するわけではないのはⅠ型と同様です。
  •  これは他者の目を気にすることとは明らかに違います。表現が多少攻撃的になっています。もちろん程度の差があり、「ん?」で済むこともあります。だから生きている以上、どうしても直面します。

※Ⅰ型とⅡ型はともに他者に関わっており、たとえば部屋にコバエが飛んでいてブチ切れることは一見どこにも分類されません。だからⅢ型として、「他者以外の世界のあり方を気にする」とやってもいいのですが、あまりにも大げさすぎます。どちらかといえば「眠れなくて明日に差し支える」とか「集中が途切れて仕事がはかどらない」といったようなことが原因でコバエを気にしているものと思えるので、Ⅲ型はあまり重要視していません。

 

 このように分類することは「びくびくしている人」「ぴりぴりしている人」に効果があるかもしれません。落ち着くために、どのタイプの疲労が蓄積しているか分類してみるのです。そして次のような事実を確認します。

 ・ Ⅰ型 → 人に何を思われるかは、自分にはどうにもならない。

 ・ Ⅱ型 → 他者がそのようなあり方をしているのはどうにもならない。

 ポイントは明らかに「どうにもならない」ことです。しかし何がどうもならないのか、何をあきらめなければならないかの部分が抜け落ちた単なる「あきらめる」は何の意味もありません。「あきらめる」というのは物事を明らかにすることであり、明らかにすることによって、どうにもならないことを知ることができるからです。

(Ⅰ型に悩む方へ) 

 他人は何をやっても文句を言いますし、何をしなくても文句を言います。自分にとって当たり前だと思う行動をしてください。

(Ⅱ型に悩む方へ)

 絶対、他人は変えられません。もちろん社会運動家になってもいいですが、恐ろしい苦労が伴います。そこまでの苦労をして変えたいことですか?

 どちらもこじらせると厄介ですが、Ⅱ型の厄介さはⅠ型の比ではありません。

 後述するように、Ⅰ型もⅡ型も「正しさ」を振りかざしますが、Ⅱ型は「正しさ」で人を殴ろうとしてきます。こうあるべきだと思っているので、今現にそうではない世の中を間違いだと思い、今この社会に生きている人のことはあまり考えません。たとえば違法行為が許せないとなれば、「今現在どんな軽微な罪でも、もっと罪を重くして罰を重くして時には刑務所から絶対に出さないほうがよい」などと言い出します。刑務所に入れるのにもコストがかかりますし、そもそもその人たちがそのような犯罪に走らなければならなかった要因というものを一切考慮しないのです。もちろん犯罪者の中にはまったく同情の余地のない「甘ったれ」もいます。しかし要因を考える気すらないのは問題です。

 

【「当たり前の行動」の倫理的問題】

 このことに関連して「自分が当たり前だと思う行動をしよう」というメッセージにも触れておきます。こういうことを書くと、論理的には殺人強姦強盗など凶悪犯罪も視野に入ってきます。ところが、発達した社会ではこんな人は恐らくほとんどいないでしょう。

 もちろんそれが当たり前の行動だと考えるやつもいるでしょう(水が欲しければ蛇口をひねるレベルの当たり前さで凶悪犯罪をする)。しかしそういう人は、単に「生きるのが下手」なのです。十何年生きて来て何も学ぶことがなかったか、環境的に学ぶことができなかったか、それはわかりません。少なくとも今の日本にふつうに生きていて、人を殺したり盗んだり襲ったりするのが当たり前だと思うのは信じがたいことです―――生きるの下手だと表現したのは、徳というものは自然的な徳を学習によって発達させていくものだという考え方に基づいています。戦闘地域でもない今の日本で殺人や強盗が幼い頃から生きるすべだった奴など(少なくともほとんど)いるわけがありません。つまり、その犯罪者は徳=行為・感情・推論の傾向性を発達させるどころか停滞・後退させ、要するに何も学べなかったのです。情報を取り入れたり、組織化する能力がなさすぎます。長期的な未来を見据える能力もなく、行為から一歩距離を置いて理由を比較衡量する能力もないのです。

 というわけで、息を吸うように人殺しをするようなそんな妙な奴は日本にはいないだろうと思われます。問題なのはもっともらしい理由をつけて凶悪犯罪を正当化する奴です。危険な種類の「こじらせ」にどう対処していくかは、これから真剣に考えなければならなくなっていくでしょう。

 

 

「正しさ」は弱い ー あきらめのススメ

 逆にたどればⅠ型とⅡ型の共通の根に至ります。どちらも「あきらめていない」のです。どうにもならないことを、どうにかなると思っている。コントロール可能だと思っている。なぜどうにかなるのでしょうか? それには二種類の「正しさ」が関係していると考えられます。

 

 最も単純なくじ引きについて考えましょう。

 

 どうすれば当たりが引けるでしょうか。人間は状況をコントロールするために、いろいろな手立てを考えました。それが「儀礼」です。儀礼とは、ある秩序や形式に従って、繰り返し、しかも普段とは異なる服装や歌、踊りなどとともに演じられる行為(岩波講座 文化人類学〈第9巻〉儀礼とパフォーマンス)のことです。儀礼にとって特徴的なことは、シンボルが用いられることで、たとえば病気=綿毛とされ、綿毛をひょいと取ってしまうことで治療の儀式をおこなうのです。

 困難は科学的あるいは倫理的努力によって乗り越えることができる……このような確信は健全に生きるために役立っていますが、病巣にもなっています。そもそも多くの人は「科学的」でも「論理的」でもありません。利用するのはある程度「おばあちゃんの知恵袋」化された知識ですし、エビデンスを参照することはまずありませんし、エビデンスを検証できるほどの能力はありません。第二に、倫理的努力は内実に乏しく、それぞれが正しいだろうと思うことをやるだけになってしまいます。

 問題になっているのは「正しさ」です。そもそもの科学的推論が100%を保証するものではないのに、それを変形したものが状況の変化を保証してくれるはずがありません。私たちはそれぞれに問題に対処するために努力をしますが、それもまた網羅的なものものではありません。みなさんに開陳している、この記事でさえ問題に対処する努力のひとつに過ぎませんよ! もし徹底的に読み込んで理解したとしても、それで人間関係の悩みが消え去るわけではありません。これはにんじんが、にんじんの主たる悩みを粉砕するために整理した体系に過ぎません。にんじんはみなさんに、あきらめさせようとしています。もっといえば、確信するのをやめよ、と言っています。何かを確信しなければ行動できない、と頑なに信じている人は、それがまさに悩みの種になっているのです。もしも厳密に書くならにんじんはこの記事の最後をこう締めくくることになるでしょう「………………と、問題が私にはこのように現れています」。

 次に倫理的な正しさです。これも当てにできません。それは善行即ち結果という法則が成り立たないからでもありますが、仮に私たちがそう思い込むように成り立っていたとしても当てにならないのです。なぜなら倫理とは知にもとづいたものであり、「私はこれが正しいと思います」の殴り合いではないからです。このことを理解しない人は「あんなにいいことをしたのに……」と言います。公正世界でも、それがいいことかどうかはまったく未確定です。

 

 そもそもこの「正しい」という概念は弱すぎます。弱いというのは、つまり、「Aさんは正しいことをした!」という発言から読み取れる内容が薄すぎるという意味です。Aさんがどんな行為をしたのかまったくわかりませんし、それが私たちにとって正しいかどうかもわかりません。もしかするとAさんは人を殺しているかもしれません。「この人は正義感の強い人だよ」と紹介されるのは理解できますが、「この人は正しい人だよ」と言われるのはありえません。正義感は正義というまな板のうえで話し合うことができますが、正しさの場合はまずなんにせよそのまな板を探すところから始めなければなりません。

 

 

「どうにもならない」

 話が長くなりました。結論はシンプルです。私たちは私たちが当たり前と思うことを人目も気にせずやってもよいのです。電車のなかで首が気になるときは簡単にストレッチしてもよいですし、時には独り言だって言ってよいでしょう。正しさの化け物である危険人物はどうしても発生しますが。

 

 問 : しかし、それでは電車の中の迷惑なじいさんは許容されるのでしょうか。

 

 駅という場所には色々な人が集まります。

 どの程度迷惑かにもよりますが、やはり認めたくはないでしょう。電車の中で電話するおばさんはどうでしょうか。化粧する女性はどうでしょう。このように考えてくるなかでみなさんの頭のなかには他人に対する不満でいっぱいになっていることだと思います。ホームの端でたたずんだり写真を撮っている人がいますが、「なにやってんの?」と思う人は多いです。電車が好きな人自身はそうは思っていないことがありますが。

 

 答 : はっきり言えば、どうにもなりません。

 

 まずそれが「そもそも問題なのか」で考え始めてはいけません。迷惑だな、鬱陶しいなと思った。まずそれだけがあります。何をやっていようが文句を言う人はいますし、あなた自身がその文句を言う人だという可能性は大いにあります。というか、恐らく全員が文句言いの一味です。ウザいと思ったら、まずウザいと思っていることを自覚することです。これは程度が強いⅡ型の疲労を引き起こします。外に出るのが嫌になってきますね。

 次に問うべきことは、あなたが多大な苦労を払ってその人をなんとかしたいかどうかです。痴漢野郎がいると怖いということで女性専用車両ができましたが、よっぽど鬱陶しかったんだと思います。是非はともかく、あれも声をあげた人がいたからこそできたことです。批判もたくさん受けたと思います。たいへんです。

 そんな苦労をして、迷惑なじいさんを取り除きたいと思うかが大事です。にんじんは別の車両に行きます。迷惑で鬱陶しい存在がこれからも生き続けますが、どうすることもできません。本当にどうにもなりませんよ。どうにかするために法を整備したりするには数年を費やす必要があります。マジでどうにもなりません。でも「どうにもならない」でとりたてて憂鬱な気分になる必要はありません。本当にどうにもならないのです。出勤日に雨が降るようなものです。もちろん暴力を振るわれたら応戦してください。殴り飛ばしていいと思います。考えようによっては向こうがわかりやすく問題行動を起こしてくれたほうが便利かもしれません。

 イラつくからという理由で殺人に走る人もまれにいます。鬱陶しさを排除するという最も単純なプランですが、思慮がありません。これにもっともらしい理由をつけて、社会にとっていいことをしたような顔をするやつもいます。その人を迷惑だとカテゴライズしているのはさしあたりその犯罪者だけなので、身勝手なことです。それでどうにかなると思ったのでしょうか。この「どうにもならなさ」は、その程度のことでどうにかなるような類のものではありません。雨が鬱陶しいからといって真上の雲を薙ぎ払うようなものです。無駄な努力です。適切な努力の仕方を知らなかったのでしょう。

 

 

 

 

共生という関係

 「気にするな」「あきらめろ」「疲れるぞ」ということを繰り返してきました。体に負荷がかかったときに疲労を分類することは、精神的に落ち着きます。次なる問題はこのような状況下で活動するにはどうするかです。つまり、他者とどのような関係を取り結ぶかです。基本は共生関係になるかと思います。

  1.  相互依存
  2.  非等価(等価とは限らない)
  3.  非個人交換(個人交換とは限らない)

 これが人間関係のコアにあるものです。ありとあらゆる関係で、一生涯、これから逃れることはできません。人間は依存的であるという事実はまっさきに強調しなければならないポイントです。そもそも言語を話せていること自体が依存的ですし、なんらかの技能を身に着けていること、なにかができることもすべて、だれかに強く寄りかかっているのです。

 しかし一般すぎる事実は私たちに指針を与えません。誤解してはならないのは、人間関係のコアにあるのがこの三つだということであって、ここからすべてが生えてくるわけではないということでしょう。すべての人間関係はその社会的文脈の内側にあり、底を離れて議論することはできません。そしてその場所に応じて、当たり前も変わってくることでしょう。ウェディングドレスで葬式に出るやつはいません。

 人間関係にはさまざまなものがあります。見返りを一切求めないものもあるでしょうがそのようなケースは特殊例で、多くの場合、ギブアンドテイクという形式を認めることができます。市場経済に汚染されて見えづらくなっていますが、人間関係は1を渡せば1が返って来るようなものではありません。そして、渡してくれた個人相手に返すとは限りません。

 

 まず私たちのふつうの生活において土台になるギブアンドテイクとはなんでしょうか。「法律を守ること」これは少し近いです「人に迷惑をかけない」もっと近くなりました。しかし迷惑をかけないという言い方に含まれる迷惑という言葉が、Ⅰ型の人を救いません。別に迷惑だと思われてもよいのです。信号を待っているときに手持無沙汰になって、買い物袋を軽くゆらゆらさせているとしましょう。後ろの人はうざいと思うかもしれませんが、責められることは何もしていません。殴りかかられるよりましでしょう。人間関係の土台となるルールについて語るのは簡単ではありませんが、「襲ってこない」というように、「~しない」ことが関わりそうです。これを〈基本的信頼〉と呼びましょう。

「基本的信頼」は人間関係を構築するための土台

 これがなければその人と関わろうとすら思えないものです。体臭がヤバいとかそういったことではありません。基本的信頼がないというのは通り魔と同じように、そもそも出会いたくもない存在になることです。出会ってしまった、運が悪い……そんなことでは済まない人です。会社の嫌な上司も、基本的信頼はあります。だから逆に言えば、恐ろしくハードルが低いといえます。このハードルさえ越えられない危険人物もいます。

 

  次は自分が所属している、関わっている集団に目を向けましょう。

 横にいる人は家族でしょうか、恋人でしょうか、同僚でしょうか。その関係においてあなたは何を与え、与えられているでしょうか。仕事はわかりやすく、やることをきちんとやることです。しかし決して友達ではありません。自己開示が大事だといいますが、すべてをさらけだす必要はありません。世間話をしなければならないなら、むしろ相手にたくさん喋ってもらって、話題の種を提供するためにこちらも少し明かす、ぐらいがちょうどよいでしょう。職場というのは不和があって当然です。近づくのは気が向いたときだけでよいのです。

 肝心なのは「どんな契約になっているか?」だといえます。それが自分のすべきことを明確にします。リターンが欲しければ、与えなければなりません。大抵の場合、契約は明文化されるわけではありません。こちらが働きかけ、相手がそれに応えてくれるということが何度かあって、徐々に固着していきます。一切期待できないとなったら、どんどん関わりを最低限に削減していくのがよいでしょう。最もドライなのは「仕事しました。はいさようなら」ですが、責められるいわれはありません。

 

 コミュニケーションが苦手な人は理屈で関係を整理整頓していくしかありません。というのも、コミュニケーションは技術なのですが、それを発達させる余裕がなかった人は理論で挑むしかないからです。第二外国語のように。

 余計なことになるべくコストをかけず、好きな人や好きな事に尽くしたほうがよいと思います。全部背負おうとすると大変です。

 

 基本的信頼の次元 ⊃ 所属集団の次元 ⊃ 個人の次元

 

 と積み上げて行きましょう(内側に進んでいくので、「掘り進める」という感じ?)。どの次元においても、あなたは利益を得られます。得られないなら契約そのものについて考えなければなりません。

 人間関係が発展するというのはルールが複雑になることだと言えるでしょう。しかしその人は、あなたが認めた、それだけの価値があるのです。そして複雑なすべての契約が創発し、友情や愛情といったものが生じてくるのです。たぶん。

 

 

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*1:同じⅠ型でも「過去の想起」と「未来の予期」では微妙に質が違う気がします