猫は後悔しないが
「猫は後悔するか?」と問われる(語りえぬものを語る)。著者の答えは明瞭である。猫は後悔などしない。なぜなら猫は分節化された言語をもたないからだ。言語がなければすべては現物で済ませるしかない。しかし後悔とは反事実的な可能性である。
かくして、猫は後悔しない。人間だけが後悔する。
この議論は正しいように思われる。くわえていえば、残念ながら猫は飼い主のことをわたしたちがその猫を「猫」として分けているほど明確なわけではない。
しかし「言語を持たぬがゆえに、ナントカという能力を持たず、したがって●●できない」という論法によって、人間は自分たちが動物であることを忘れてきたのだ(依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス))。
メモ
生命がまったくいない世界! それを〈祖先以前的な世界〉と呼ぶことにしよう。それはいったいどのような姿をしているのだろうか。現代の哲学においては、世界というのは主体によって形づくられると考えるのが当たり前であるが、しかしこの説明においては〈祖先以前的な世界〉はまさにハイパーカオスであって、完全なるモザイクアートである。一読する限り、現代哲学の「我々」に閉じ込められたわたしたちを実在の側に引き戻すのに、科学が役立っているといったのはドレイファスである(実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス))。しかし科学の語りは実在のひとつの側面に過ぎず、宗教的な地平などありとあらゆる視点からの実在をも認めるうえで、彼の実在論は多元的なものとなった。
多種多様の様々な地平から見えるそのものは「実在的な」つまり「モザイクからの〈たしかな〉区切り」だと認められるためには、ある種のまとまりが認められなければならないだろう。これを「自然種」というある条件を満たす性質群として特徴づけたものとして「実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用」が読めると思う。実在には程度差がある。