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にんじんと読む「リズムの哲学ノート(山崎正和)」🥕 第四章前半まで

第四章 リズムと認識

 これまでの考察でわかったことは、ゲシュタルトの現われる場所は人間の身体だということだろう。「ルビンの壺」が現れるのも、自然の光景が一まとまりの絵柄として現れるのも、その場所は外界の現実でもなく、まして内面の意識でもなく、いわば両者の中間にある身体のほかにはないことがわかった。ゲシュタルトは内発的、自動的に、向こうから現れてくる点で外界の現実に似ており、他方、人が感じないかぎり存在しえないという意味で意識現象に似ていて、じつは同時にその両者のどちらでもあるほかはないのであった。

リズムの哲学ノート (単行本)

 ゲシュタルトが現れる場所、それが身体であった

 では身体とはなにか。身体とはゲシュタルトである

  •  「身体そのものもゲシュタルト。これが現れる場所も身体」
  •  一見、これは奇妙なことのように思われる。しかし、畑を耕している人の例を考え直してみよう。仕事中、身体は畑の影に隠れており、疲労すると、身体は前面に出てくる。この転換が起こるのは身体においてである。
  •  人は自分の眼球を見ることはできないが、自分の身体を身体で感じることができる。

 ゲシュタルトが現れ、それを見るとか聞くとかして「図」にする。感覚器官の役割は、従来の認識論とは異なる位置にあることがわかるだろう。まずは漠然とした気配に気づくのである

  •  何を見るか、何を聞くかを決めるためには、まず向こうから何かが見え、何かが聞こえてくる必要がある。そこで見るか聞くかは、そこの状況において自動的に決まってしまう。
  •  哲学は意識の働きを否定する必要はない。しかし、意識は中心的な位置を占めるものではない。意識はなにかに触発されて覚醒する。典型的なのは早朝に鳴る時計のベルだろう。しかし実際は一日の内に何度も起こっている。触発するのはゲシュタルトの顕現と交替であろう。

 要約すれば、意識はゲシュタルト形成の主体でも動因でもなく、まったく逆に、意識こそゲシュタルト形成の結果であり副産物であると考えられる。人は音楽や舞踏のリズムに乗せられたとき、思わず手を売ったり足踏みしたりするが、これはそれとほぼ同じ反応だと見ることができる。

リズムの哲学ノート (単行本)

  •   図地の交替は「だんだんと」起こる。(移行の漸層性)

 

 ここで終わりです

 ここから、

  1.  『意識』という身体のリズムについて
  2.  自然科学について
  3.  「私」について

 と進むことが出来る。それぞれ、第四章の後半、五章、六章に対応する。最後の七章では「自由」について書かれている。これらについては詳しく書かない。興味のある人は是非どうぞ(リズムの哲学ノート (単行本))。

 

 少なくとも、常識的に考えられている自己を維持するのは不可能である。言ってしまえば、私たちは海にできた””あぶく””に近い。あぶくははっきりと見えるだけまだマシで、にんじんのイメージでいうと、水をぐるぐるとかき回したときにできる真ん中の渦穴が自己に近い。そんなものは物的には存在していない。

 生理的肉体と自己は同一ではない。というか、この二つを比べるのは本来おかしい。たとえると、自己大学を見に行くと一応生理的肉体という施設はあるし、それは自己大学の主要な施設ではあるが、それ自体は自己ではない、ようなものだ。富士山は日本だ、というぐらい生理的肉体は自己だ、という言葉には違和感がある。が、研究室しか利用していない学生にとって、大学は研究室であるという言い方には説得力がある。逆に言うと、その程度のものだ。

 

 自己は一つではない。一つではないという言い方にはいくつかの含意があるが、現在の思潮においては、数多くのエージェントが協力して自己を形作っている、という意味に捉えるのが一般的である。が、これも微妙に感じが異なるように思う。そこで想像されるエージェントとは自己の「内部」におけるものだが、恐らく自己には内部などない。ただ流れている。複数の連関が形成する模様が自己であって、大岩の間を縫うように進んでいく流れが自己である。川を3Dにして(なにしろ三次元空間しか想像できないので)、大岩を””うねり””とか””流れの滞っている場所””のように見れば、感じが掴みやすい。つまり、結局、私たちがあると思っているものはその通りにあり、同時に、まったく何もないのであるが、突き詰めて行けば「ただ流れているだけ」なのだ。「万物は流動する」が、「万物」という固定的な言い方はもはやできず、ただ流動するだけが残る。内部などどこにもない。

 

 というところまで来ると、「自由」もほとんど維持できないことがわかるかもしれない。少なくとも「よ~し! 今日はピザ食べちゃう!w」ですらもあなたの意志ではない。人は一切決意することはできない。が、ありがたいことに決意したというふうに思えている。これは「脳がこういう物理的反応をするから~」とかそんなレベルではない。そしてこのように思ってしまうところに、自然科学独特の特徴がある。たとえば牛を連れてこよう。「この牛を球と仮定します」これが物理学であり、物理学的宇宙は多少複雑にはなれど、ビリヤード台以上のものではない。模型である。ド真剣なおままごとである。が、今のところ最強のパワーを持っているには間違いない。

 どんな形の「自由」が残されているか、考えていかないといけない。