第一版序文(一七八一年)
人間の理性がどうしても直面する問題があり、しかもそのうちには答えることのできないものがある。理性が困難に陥るのはそれがもつ本性によるもので、また答えることができないのはその能力を超えているからである。
理性は、経験から明らかないくつかの原則を用いて、なにがしかの条件から条件へと渡り歩く。しかしその条件は止むことがなく、彼の仕事は不完全に終わってしまう。そこで理性は可能的な経験的使用を超えて、確実に見えるような原則に逃避する―――これが混迷と矛盾の種である。理性はこの混迷と矛盾に気づき、どこかに過ちのあることにも気づくのだが、当該病根は一切の経験の限界を超えているがゆえに経験による吟味を承認せず、これを発見することができないのである。この理性のもがく場所こそ「形而上学」と呼ばれるところである。
自分は形而上学に対して無関心であると称する人達が、いくら学問的な用語を通俗的な調子に改めて、自分の正体をくらまそうとしてみたところで、とにかく何ごとかを考える限り、彼等がいたく侮蔑していたところの形而上学的見解に、どうしても立ち戻らざるを得ないのである。
そこで私は理性を、裁判にかける。この法廷こそ〈純粋理性批判〉である。私のいうこの「批判」という方法は、【理性が一切の経験に関わりなく達得しようとするあらゆる認識に関して、理性能力一般を批判することである(P16)】。すなわち、形而上学一般の可能もしくは不可能の決定、形而上学の源泉と範囲、そして限界の規定を求める。
哲学の義務は、誤解から生じたまやかしを除くにあった。