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にんじんと読む「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」🥕 ②

「いき」の構造

  「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) の著者にとって、「いき」とは単に芸者のスタイルや江戸の美意識ではなく、生き方に関わるものだった。『「いき」とは、「わが民族に独自な「生き」かた」なのであって、そこには男女関係、さらに言えば、自己と他者についての透徹したまなざしが隠れているのだ』。

 

 「いき」の三特徴 ——— 「媚態」「意気地」「諦め」

  •  「媚態」とは、「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」である。どういうことか。ここに、自分と特定の異性という異なる二人がいる。二人は互いにアプローチしようとする。そのとき、必ず相手の視線を意識する。それによって自己を反省し、新たに自己を作り上げる。他者によって自己が作られるのだ。そしてここにおいて形成されるが、可能的関係である。可能的関係とは「まだ現実になっていない」で、相手と結ばれたいと思いつつまだそうはなっていないような関係ということだ。だから、結ばれてしまったら媚態は消える。緊張感がなくなるとトキメキが薄れる、というよくあるパターンーーーーー私とあなた。結ばれたくてアプローチ。相手によって自分を変えてみたりする。そんな態度。
  •  「意気地」とは、「媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強みをもった意識」である。媚態である以上、自己は相手の目でいろいろ変わる。自己の存在が二元化する。だがあんまり相手に縛られ過ぎると、「あなたの好きなようにします。どうにでもしてください」ということになってしまう。相手のまなざしを捕えつつ、服従しないことが肝心なのだ。
  •  「諦め」とは、「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」である。つまり、相手のために化粧しようが、極端にいえば服従しようが、それに対して相手がどう反応するかなんかわかりませんよ、ということだ。
  •  自己は「意気地」において自己を保ち、他者は思い通りにならないと「諦め」ることで他者であることを保つ。それによって二元的関係が生きる。媚態が可能になる。

 不安定に揺れ動く関係のなかで、自己は相手の反応によって戸惑ったり、可愛く思ったりする。相手の視線を気にして、自分の姿に気づく。両者は自らの存在を関係に翻弄されながら手探りでさがしていく――――これは恋愛に限らず、そもそも自己と他者の根本的なあり方ではないか。自己がもたらされるは他者による。だが他者との関係は不安定である。そして私たちはそれを引き受けざるを得ない。この不安定性を理解するは、「いき」の「諦め」である。自己と他者という確定的な二者が関係を取り結ぶのではなく、不安定な関係が自己と他者の姿をあぶりだすのだ。

 では、なぜ「いき」を語るのか。それは、このように生成される自他のあり方が根源的な姿であったとしても、その姿は通常隠されているからである。