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にんじんと読む「妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか」

ジョン・ヌーナン

 妊娠中絶における根本問題は「ある存在者が人間であることをどうやって規定するのか」である。人はいつ人になるのか。神学者たちは人間存在を程度に基づいて差別することを拒否し、受胎即人間とみなした。受胎したのだからもうそれは人間である。

 これに対して、生存可能性を用いた基準がある。受胎しようが、妊娠〇週目までいかないと胎児は母体と切り離して生存できない。要するにその生命が完全に母親に依存しているがゆえに、その胎児はまだ人間とはいえない、という。じゃあ人工保育機ができれば途端に胎児は人間になるということか、とか、人種はもちろんその他個人差がデカすぎないかという反論はすぐ思いつく。が、そもそも依存性などと言い出したら、5歳児だって橋の下に放り出したら死ぬに決まっているんだから、生存可能性がどうだのいっても人間かどうかなど決められないのではないのか。まさか1歳児は人間ではないというつもりなのか?

 ここで一気に悲観的になって、そもそも人間性などというものはないのだと言って見よう。だが一体それをだれに対して言っているのか。そのだれかは人間じゃないのか。なんだかよくわからないナニカと話しているつもりでいるのか。犬と人の区別もつかないはずだから、ペットショップに行ったらひっくり返るに違いない―――というわけで改めて人間性を探す旅に出ることになるのだが、やはりうまくいかない。

 そもそも受胎したら人間という以前に、精子だって人間の素材なんだから「その潜在性を差別しない」と言い張るなら精子だって人間なんじゃないのか? いやいや、精子だけじゃ人間にはならんし、それを言い始めたら原子レベルで人間だと言わなくちゃいけなくなる。やっぱり卵子が必要だ。んじゃあセックスしよう。で、精子卵子が出会って受精……となるのは確率的には案外小さい。少なくとも個々の卵子とか個々の精子レベルでいくと、ちょっと気が遠くなるぐらい確率は小さい。草むらで何かが動いたのを見たあなたが猟銃をぶっ放すとき、それが人間である確率が2億分の1だったら「何やってんだよあぶねえな」とみんな非難してくるだろうか。そもそもその存在者の特性が決まるのは遺伝情報によってなのだから、んー、やっぱり受胎したらそれは人間だといったほうがいいのか……ということになってくる。

 胎児を人間だとみなすことは、少なくとも、妊娠中絶を道徳的に非難する理由にはならない。平等な権利を持った二者の善が対立することなど、よくあることだ。ただ平等とはいえ、胎児は口をきけないし、胎児の権利とは生存の権利とほぼ完ぺきに一致するため、互いに事情がまったく同じとはいえない。この二つの対立についての裁判は、たとえば母体に危険が及ぶ場合には母親の生命の利益を上位におくことで判決が決まることがある。「自己防衛」のための中絶だ。だがこういう例外を無制限に認めていくことはもちろんできない。「同じ人間なんだから」という立場でものを見ると、母体の命が危険にさらされない限り、中絶は認めることなどできるわけがない。そして現在では、昔よりは確実に、母親の命が出産によって失われる例は減っているため、ほとんどのケースで認められないことが帰結する。

ジュディス・ジャーヴィス・トムソン

 胎児が人間だという前提はまったく妥当ではない。

 君らはいつもこういう。「人間の発達のどこに線を引くんだ? 引けないだろ。はい胎児は人間」いやいや、んじゃ「ドングリ」を見たらあんたは「樫の木だ!」っていうのか? どこから人間かの線引きの未来は明るくないが、だからどこをとっても人間なんだというのは飛躍である。10週目はかなり人間らしいが、受精卵を見て人間だと叫ぶのはちょっと違う気がする。

 とはいえ、ここで興味があるのは、「胎児が人間だ → 中絶は許容されない」という論証だ。前提も疑わしいが、前提を認めたところでなんでそうなるかわからない。彼らは全ての力を「我ら人間」に費やし、当たり前のように結論に行きつく。相手も同じ人間なんですから、という感じ。でもちょっと待て。私たちが朝目覚めて、かの有名なヴァイオリニストと背中合わせにつながれた状態であることを発見したとする。なんでこんなことになってんだと近くにいたオッサンに聞いたら事情を説明してくれた。

「心配なさらないで。彼は腎臓病で、どうしてもあなたの血液が必要だったので愛好家連中が夜のうちに連れて来たんです。あなたの血管と彼の血管はいまつながっています。9カ月ほどで彼の病気はよくなります。いやいや、はずそうとしないでくださいよ。今外したら間違いなく彼は死ぬんですから」

 私たちはオッサンの要求を受け入れなければならないだろうか?

 状況はこうだ。なんだかよくわからないにしても、ある日突然誰かと繋がれてしまう。で、その誰かは引き離されると死ぬという。私たちにはもちろん身体の自由があるが、そんな個々人の権利よりも「命」というのは大切なので、多少個人の自由が制限されても仕方がないでしょ。・・・・

 いやいや、あんた誘拐されてますよ。でもセックスは合意でやるじゃん。

 そう言いたくなる。んじゃ襲われてできた子どもは中絶OKということだ。なんで? 子供にはなんの罪もないのに? 中絶反対派の人は案外こういった区別を設けていない。よくわからんヴァイオリニストと9カ月間ご一緒するわけだ。もっと過激派はこの腎臓病の治療によって母親が死のうが絶対に中絶は認めない。そんなんあり?

  •  まあ命は大事だし、ととりあえずプラグで繋がれていたあなたのもとに、ふたたびあのオッサンがやってきて言う。「悲しい事ですが、どうやらあなたの命は一か月ももちません。でも外してはいけませんよ、彼が死にますから。プラグを抜くことは積極的な行為、殺人なのですから」「うるせえ! こんなやつ知るか!」 ← これって責められること?

 「ちょっと待てよ。それじゃあ結局、母親が危険にさらされる場合に限られるって意味?」と言われたなら、NOと答える。なんでって、まるで君らは生命の権利というやつを完全完璧、最強の権利みたいに扱っている。はっきり言えばこれが間違いのもとなのだ

 姫の命が危ないが、これを救うには勇者のキッスが必要だとしよう。これは「生命の権利」というのを考えるうえで重要である。姫には間違いなく「キスしてよ!!!」と迫る権利はある。だが、だからといって勇者にキスされる権利を得るわけではない。姫の家来が勇者を誘拐したとき、勇者が「いや~びっくりしましたが命のためならしょうがない」と言ってくれたらいい奴ではあるが、そう言わなければならない理由はない。「なに誘拐しとんねん」と言わせてあげようではないか。

 でもそれじゃあ「権利」ってなんなの?

 実はこれは生きる権利だけでなく、すべての権利が共有する大問題なのである。もしも生きる権利が殺されない権利なのであれば、やっぱり勇者はキスしないといけないし、プラグを抜くのは罪なのだ。要するに、中絶否定派がいうほど、「みんな人間やん? だから中絶駄目やん?」という議論はあたりまえではないということだ。

 

「徳理論と妊娠中絶」(ロザリンド・ハーストハウス)

 義務論と功利主義理論と徳理論を対比させることで、徳理論の手がかりとしよう。

  •  義務論「ある行為が正しいのは、その行為がある道徳規則・原則と合致している場合であり、その場合に限られる」「道徳規則とは………である」
  •  行為功利主義「ある行為が正しいのは、その行為が最善の帰結を促進する場合であり、その場合に限られる」「最善の帰結とは、そこにおいて幸福が最大化されるような帰結である」
  •  徳理論「ある行為が正しいのは、その行為が、その状況において有徳な行為者がするようなものである場合であり、かつその場合に限られる」「有徳な行為者とは、徳を身に着け、それを発揮する人物のことである」「徳とは、人間が開花繁栄するため、つまりよく生きるために必要となる性格特性である」

 正しい行為に関する定義は、二人の異なる有徳な行為者が同じ状況で正反対の行為をする可能性を残す。つまり唯一の正しい行為は存在しないこと、両方とも正しい場合があることを含意するし、正しい行為が存在しないことも含む。どの性格特性が徳であるかわからないとか、文化相対主義に陥りやすいなどと批判されるが、何を道徳規則とみなすか、なにが幸福かを議論している二つの立場もまったく同様の困難を抱えている。はっきりいえば、徳理論に関する批判の多くは、他の二つの立場も共有する問題点なのである。

 そこで最後に徳理論に対する重大な批判だと考えられるものを取り上げよう。彼はこう言う。「徳理論は現実の道徳問題に関しては役立たず」

 たしかに、その行為が思いやりがあるかどうかあるいはどちらでもないのかを主張するのは難しい。判断しにくいようなこともある。しかしこの批判者が望んでいるのは『この難しい仕事をとてつもなく簡単にして、そこそこ利発な少年少女ならだれでも従える明確な指針をだせ』ということだ。それが彼のいう「適切な」答えというわけだ。でも正しく行為するというのは、実際難しいし、実際たくさんの知恵がいるものではないか? だから実際の適切な答えというのは、学校の授業に出席するだけでは得られないようなもので、人生経験が足りないような人々にはめったに見られないようなものなのだ。

私の意見では、利発な青少年なら誰でも用いることのできるような規範理論、あるいは、何が本当に価値あり、何が本当に重要なのかについての前提なしに実践的結論を導いてしまうような規範理論など、間違いなく不適切な理論なのである。

妊娠中絶の生命倫理

 

 徳理論をもって中絶について考えるとどうなるのだろう。どうせ有徳な行為者ならどうするかという点でしか議論しないんだろうと言われがちだが、まあ、そんなことはない。「有徳な行為者にしかわからねんだよな~」とか、正義とか思いやりとかを連呼するとか、そういうイメージは捨ててもらおう。ここでは徳理論によって「胎児」「女性」という二つの主要な論点を、ある意味まったく重要ではないものとして退け、議論そのものをすっかり変えてしまうところを見よう!

 まず女性について考えよう。彼女には自分の妊娠を終わらせる道徳的権利があるとかないとかそういう議論が為されるが、しかしそもそも、徳理論によれば権利があると想定したりすることによって得られることは何もない。なぜなら権利行使自体が悪徳だと非難される場合がふつうにあるからである。つまり「こうした状況での中絶は、有徳なのか悪徳なのかどちらでもないのか」といった問いと、権利とは無関係なのだ。

 次に胎児について考えよう。だが胎児こそ徳理論の手だしできない領域に見える。胎児には徳どころか知識もないし、事物に対する適切な、あるいは正確な態度というものもない。胎児はそんな地位にある。いや、だからそうであるからこそ、胎児の地位は中絶の正しさや不正とは一切なんのかかわりもないことが帰結する。まあもちろん、胎児はたいていセックスしてできるものだし、大きくなるのに約9カ月かかる、……といったような生物学的な地位は大いに関係するだろう。このよう語ることは、「胎児って人なのかな」とか妙な線引きに考えなくても済むようにしてくれる。この問いにどうしても答えたくなるのは「生きてるんだから殺しちゃ駄目だよ」といったような一般的規則でもって中絶の問題をするっと解決してしまいたいからなんじゃないだろうか。積み重ねられてきたこれらの論文を読んで「へ~子どもはセックスして生まれるのか」といっような事実を見出すことは難しいし、「出産するときは相当痛いんだな」というようなことも知らずに終わるだろうし、「出産してうれしい」というようなことがあることもわからないままに違いない。要するに、今までの議論は現実離れしている。

 もし徳理論を用いて答えようとするなら、「おなじみの生物学的事実は、有徳な人や有徳でない人が行う実践的推論、行為や情念、思惟や反応とどのように関わっているのか? これらに対する正しい態度をとっているしるしとは?」ということについて考えなければならない。つまり生物学的な事実だけでなく、それについてどう感じるのかといったようなありとあらゆる事実が本質的に重要なものとなってくるのだ。子を宿す妊娠という問題を、髪を持つ散髪と、論理的にはまあ同じだろうという風に扱う人々はみな間違っている。中絶は家族関係など、さまざまなことに関係する重大問題であって、「胎児は人じゃないし」「権利の行使だし」などとスパッと冷淡に言い切る姿勢は有徳で賢明な人物であれば決してしないことだろう。そのような態度は、人間の生死・家族などのさまざまな人間関係に対する態度として不正である。

 次に、ふたたび女性について目を向けよう。なんだかんだといっても、妊娠しているのはその女性なのだから女性の幸福を決めるのはその女性なわけで、話はそれで終わりでいいんじゃないですかと言う人がいる。だが、徳理論が関心を寄せるのは、「それでは彼女の選んでいる人生は、人間のよい生なのか? 彼女はよく生きているのか?」ということであり、それをさらに問い続ける。たとえば母親にならないことを決めている女性は、それがために中絶を選択するだろう。彼女は、自分の人生がどうあるべきで、人生とは何についてのものなのか、ということをしっかりと把握しているのだろうか。中絶を選択する際、想定される答えはいろいろある。「まだ親になる準備ができていない」というような人の夢は、もしかするとやりがいのある仕事+完璧な結婚+完璧な子どもかもしれない。だがそうした夢にただ急き立てられて、その夢にしたがって生きる人生というのは慾張りで馬鹿げたことかもしれないし、幸福全体を取り逃す危険もあるかもしれない。……しかしもちろん「まだ母親になる準備ができていない」ということが常に不適切だといっているわけではない。父親の駄目さ加減、将来への不安などが影響していることもある。

 考えることは山積みである。どれにも議論の余地はある。どうにもめんどうくさい。しかし、そこを「彼女には〇〇という権利がある!」といって一刀両断してしまうのはいいのだろうか。徳に関する議論によって見えてくるのは、何が人生において価値あるものなのか、何がよい人生なのか、何がよいものなのか、といった問いかけであり、中絶に関するなんらかの主張もこれらの深刻な問いについての回答を含むことになる。