新アリストテレス主義
徳倫理学には徳をどのように考えるかでいくつかの種類があり、新アリストテレス主義はそのうちのひとつである。それが「新」であるのはアリストテレスの考え方そのままというわけではなく、むしろそれに対する批判を含んでいるからである。最もめだつ例はアリストテレスの奴隷や女性に対する態度であり、奴隷制も性差別も認められるべきではないという含意がある。
幸福・エウダイモニア
幸福にはいくつかの用いられ方があり、エウダイモニアはそのうちのひとつである。他にもhappiness(しあわせ)やflourishing(栄える)やwell-being(福利)などがある。happinessは主観的な、flourishingは動物や植物までもが栄えることができ、well-beingは日常語ではなく使いにくいがエウダイモニアに近いものといえる。
エウダイモニアは理性的存在者にしか用いられない。それは人生全体にかかわるものだからで(生全体などという概念をもつために言語が必要)、その点でいえばflourishingは不適当だが、主観的な含意をもつhappinessよりはマシである。あるいはしあわせというものを「ほんとうのしあわせ」というような言い方にすればエウダイモニアにいくらか近くなる。たとえば夫の不倫を知らない妻は自分の状態をhappinessだと思っているかもしれないが、知っている第三者からみればそれはほんとうではないからである。
- エウダイモニアは理性的存在者にしか用いられない。flourishingはその意味でヒト以外の動物にも広げることができそうだ。
《あなたは目の前の出来事から一歩下がって、自分の人生はどのような在り方をしているのか、またそれはどこに向かっているのかという点についてあれこれ考える》(p.202, 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。これができる人は知っている。自分の人生があらゆる点で満足いくものではないことを。だから一歩下がってそう考える。どこへ行けばいいのかを。「なぜあの行為ではなくこの行為をしているのか?」という問い、そう問い続けることによって数々の目標が入れ子になっていることに気づき、次第に行為がその束のなかにおさまる。つまり行為の目的は最終的に、いくつかの長期的目標と結びつく。そのいくつかはもちろん互いに共存できるものでなければならない。そしてそれが衝突した時、「どのように整合させるか」という問いをうむ。われわれは常にこれを考えさせられる。これが倫理的内省ethical reflectionと呼ぶものだと思われる。これは諸目標を、諸々の善を統一的に捉えようとする。倫理的内省は単に諸目標を調整する抽象的思考ではなく、ほかならぬわれわれがどのようにして達成するかという実践に通じる思考である。自分の目標をどのように形作るかが、われわれの生き方と行為を形作る。これがエウダイモニアであり、個々の目標それ自体はそうではない。
このエウダイモニアに対する理解は、当然、われわれが倫理的内省を始めるときにはわれわれがエウダイモニアをもたないことを帰結する。人は誰も幸福についての明確な考えを持ってはいないのである。
- エウダイモニアは倫理的内省、実践的思考によって形づくられる。
- もう一つ重要なことは、今のところ「私の利益」「他者の利益」などという区別は登場していないということである。
エウダイモニアは明らかにまだ定まってはいない。それは生きていくなかで形づくられていくものであり、ほとんどの場合、漠然としたままである。けれども中には幸福というものがすでに定まっていなければならないと考える人々もいる。たとえば金銭的に裕福であるとか、恋人や配偶者がいたりだとか、そういう幸福のリストである。エウダイモニア主義はこうしたことに反するが、批判者によれば、それこそこの主義が認められない理由でもある。なぜなら、考えることによって形づくる幸福は「それはよりよい」「それは駄目」などと他人が出しゃばってくる可能性をも開くものであるからである。
このことは〈生活の環境〉と〈生きることそれ自体〉を区別しそこなうことから来ている。つまり、どのような環境で生きているか、と、その環境のもとでどのように生きるか、という区別である。批判者は、美しかったり、裕福だったり、健康だったり、そのような状態であること、そのような環境にいることのうちで幸福を議論する。第一にそのような環境でも不幸な人はいるし、第二にエウダイモニアは後者に属し何らかの環境をより幸福だと述べるようなものではないのである。「心理学的に結婚している人は未婚の人より幸福度が高いんですね」などと吹聴している人は基本的に前者のレベルで話をする。というかそもそも、幸福になるために何かをしてやろうという考え自体が、エウダイモニアにはない。エウダイモニアは動的なものであり、山の頂上に向かうことではなく、むしろ歩くことそれ自体である。
しかしこの議論はエウダイモニアというものがなんであるのかをよりわかりにくくするように思われる。「これが幸福です」というようなものを一般的に提示することができないのはエウダイモニア主義者としてもちろん当たり前の主張だが、私の人生としても提示できない。なぜなら《幸福はそもそも状態ではないからである》(p261, 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。ではそれはどのようなものなのか? それは諸善を統一するような全体的目標である。われわれはこのことをより深く追求していかなければならない。
- エウダイモニアは状態ではない。
正しい行為
徳倫理学において正しい行為は次のように規定される。また、功利主義、義務論者についても挙げる。
- (徳倫理学)正しい行為とは、有徳な行為者が当該状況にあるならなすであろ、有徳な人らしい行為である。
- (功利主義)正しい行為とは、最善の結果をもたらすような行為である。
- (義務論)正しい行為とは、道徳規則又は道徳原理に則している行為である。
さて、次の仕事は下線部を規定することである。「有徳な行為者」とはなんだろうか。もしこれを道徳規則に則して行為する者などとやってしまうと義務論に吸収されてしまう。有徳な行為者とは、ある性格特性すなわち徳をもち、かつ働かせる人のことである。
では徳とはなんだろうか。これをどのように定めるかに応じて、徳倫理学のあり方が変わって来るのである。新アリストテレス主義では徳というものを次のように規定する。徳とは、人間が幸福や反映、つまりよく生きるために必要とされる性格特性であるというように。つまり最初からエウダイモニアとの繋がりが前提されるわけである。このことはさらに追及が必要なものであろう。
- 義務論や徳倫理学は、功利主義に比べて曖昧なものである。というのも、道徳規則や徳というものをどう考えるかによって問題に対する答え方が変わって来るから。功利主義はただ「その嘘をついても幸福になるものはおらず、不幸になるものすらいるなら、嘘をつくのは正しい」と言う。しかし「嘘をつかない」「正直」というものがない限り、義務論や徳倫理学は嘘についてそのように判断しない。これゆえ、それが道徳規則だと、それが徳だとどうやって知るのか、という認識論的問題にぶつからざるをえない。
- 徳倫理学は行動の指針を与えないだろうか? 「有徳な人がやるようにやれ」としか言わないが、そいつがどうやるかなんてわかるわけがないから―――しかしどう振る舞うかわからないなら、誰かに尋ねればいいという常識的な答えで十分だと思われる。それに、有徳な行為者が何をするのかまったく見当がつかないというようなことはほとんどないだろう。徳が挙げられたなら、どうすればいいのかはすっかり明らかなはずである。
- 徳は徳-規則をもたらす。義務論との区別は、その正当化の違いにある。
割り切れなさ
徳倫理学はディレンマにぶつかる。規範相互の対立問題とは、異なる徳が互いに衝突するような行為の指針を与えるのではないかという問題である。たとえば死によってしか楽になれない人を慈悲で殺すか、正義で殺さないかというケースがある。
より一般に〈解決不可能なディレンマ〉とは、xを行う,yを行うことのどちらも悪い事なのにどちらかを行わなければならない状況又は矛盾する道徳的要請のどちらもが他方より優位に立つわけではないという状況である。
さて、この解決不可能なディレンマは存在しうるのだろうかといった文献が多くある。これらの文献には〈割り切れなさ〉といった概念が組み入れられている。いま解決不可能なディレンマに向き合っている人を想像してみよう。それは必ず一方の道徳的要求を踏みにじり、良心の呵責や後悔の念、謝罪への要求が心に残るだろう。こうしたことを〈割り切れなさ〉という。何を言わんとしているかというと、解決不可能なディレンマが見せかけのもので、実は解決可能である(一方の道徳的要求のほうが優位!)としても、「割り切れなさというオマケつきで」解決可能であるはずだということである。
このことは納得のいく主張であると思われる。ところが、別の文献群(応用倫理学)となると、この割り切れなさというものにほとんど注意を向けなくなる。彼らは(1)ディレンマは解決不能か、という議論さえせず、正しい解決策があるはずだと決めてかかっている場合がほとんどであり、(2)xとyのどちらが正しいのか、ばかり言って割り切れなさに関して何も言おうとしないのだ。こういった割り切れなさ無視の傾向は、倫理学というものが「行為指針的」であるべきだという要請によって後押しされてきたと思われる。どうすればいいかは倫理学が教えてくれるよ、と言いたいので、xとyの一体どちらが正しいのかを述べたくて仕方がないのだ。
徳倫理学のもたらす徳-規則から、行為者中心的である徳ということに話を戻せば、こうした事態に新しい論点を見て取ることができるだろう。義務論と功利主義は行為中心的だから、どっちの行為が正しいかばかりを考え、割り切れなさを余分なものだと考えてしまう。一方で、徳倫理学は「有徳な行為者ならどうするだろう」と行為者のあり方に目を向ける。
行為の指針と評価
行為の指針と評価が違うことを、理解できているだろうか。たとえば「この場合はどういう風に行為したらいいんだろう」と問う時、人は行為指針を求めているといえるが、「Xしなければならない」「Xは正しい行為である」「Xをせよ」というさまざまな文法形態の違いはまったくない。つまり、ほとんど同じことを述べているように見えないだろうか。行為の指針が求められているとき、その指針が実用的で、しかも適切なものでなければならない。もちろん私たちがそのように意図することができれば幸いだが、別にやりたいと思っていなくたってかまわないから重要なのはいろいろの区別ではない。正しいと評価してくれるようなことがしたいのである。
しかし割り切れなさを伴ってのみ解決可能なディレンマをみれば、指針と評価がわかれる理由がわかる。前にやった悪事のおかげでドツボにはまり、さらなる悪事二つのうちどちらかを選ばざるをえなくなった人を考えよう。彼はここで倫理学に頼り、悪事Xよりも悪事Yのほうがマシだから悪事Yをせよという指針を得たとしよう。しかしそれは正しい行為と評価はされない。なぜか。そもそも悪事だからだ。彼は「前にあんなことをしなければ」と後悔し、自分の行為を恥じる(割り切れなさ)。指針と評価は区別されるものである。
徳倫理学はどのようにこれらを区別するのか。さて、A子とB子の両方と結婚の約束をし、それぞれに子どもを産ませた男のことを考えてみよう。そしてもしどちらかを棄てなければならないならB子よりもA子を棄てるほうが悪いとしてみる。さぁ、それじゃあA子と結婚しようと決めたとして、彼は正しい行為を行ったことになるだろうか――――ならない。そもそもどっちも悪事なのだから。徳倫理学にとって正しい行為とは有徳な人がなすであろう行為なのだが、このようなディレンマに立たされた男はそもそも有徳な人が陥らないような状況に陥っている。彼が並外れた幸運に恵まれてB子納得のうえでめでたくA子と結婚したとしても、徳倫理学は結論を変えない。どっちを選ぼうが彼は正しいことをなしたとは評価されない。
徳倫理学がもたらす徳-規則は「道徳的に正しい決定」を与え指針をもたらす。それがたとえばA子との結婚を促す。一方、「どちらが正しい行為か?」と尋ねれば、先の男のように「どっちも駄目だよ」と答える。このようにして徳倫理学は指針と評価を区別している。《有徳な行為者が決してかかわらないような類の解決可能なディレンマにあっては、道徳的に正しい決定によって同様に解決可能ではあっても、なされた行為が道徳的に正しいと評価されることは決してありません》(徳倫理学について)。