徳倫理学の様々なタイプ
徳という概念が過小評価されてきたのは、「徳」という言葉の今日的用法に求められると考えられている。徳という言葉は、今日的用法においては、人間の長所とりわけ道徳的な善さを指す。しかし本来は、「あらゆる事物がそれぞれの目的に応じて示す卓越性」を意味していた。
- 有徳なのは人間にかぎらず、動物や道具もあてはまる。
- 道徳的徳にかぎらず、知性的道徳もあてはまる。*1
- 社交上のウィットなど、今日的用法においては徳として数えられていないものもある。
個人の本性を悪と捉えるキリスト教の十戒の思想や、有徳な行為とは義務を踏み外さないことだと否定的に定義した義務論も影響して、徳は後退していった。つまり、善き行為の指針を人間本性とは対立したものとする図式である。このような図式は道徳に関する社会的次元と個人の心理的次元が分裂している社会ではとりわけあてはまるだろう。共同体の規範が構成員に内在化されていた時代もあったのだ。こうした共同体の構成員を結び付けているのが「伝統」であり、ナラティブなものである。徳は伝統の重要な部分を構成している。
- 歴史ないし物語を語ることには構成員の道徳教育機能もある。
- 徳は語り継がれる形で維持される。
- ➡道徳的行為主体の形成には共同体からの働きかけが大きい。
- 共同体は価値や有徳さを規定する。
- それを実践する仕方も規定する。
- 個人の習得した徳は、今度は共同体の維持に貢献する。
一方、こうした共同体に対して、個人の人生の物語もある。私たちはこれを利己的な人間本性と社会的規範の対立という風にとらえる。調和的共同体においては主観的習慣と客観的習慣の二つが不可分に結びついているが、近代的自我はこうした社会的文脈から切り離して理解される空虚なものである。
こうした話の流れからすれば、まるで知りもしないあの頃を取り戻すことが目標とされそうである。こうした立場を「伝統主義」と呼ぼう。これに対して「共同体主義」は、あの頃ではないにしても、なんらかの形で共同体を再生することを目指す。共同体主義の共同体の範囲は広く、伝統主義とは一線を画す。出発点は個々の伝統にあるにしても、そこに固執するのは無理である。共同体として世界国家を想定することもあるが、これは世界市民を形成していくことを要請しはしない。あくまで共同体主義が念頭に置いているのは、家族、共同体、国家においてその都度多様な役割を受け入れ、自分の人生に統合していく自我である。
*1:ただ、徳というものはそもそも知的なものだと言えないだろうか。なぜそう行為するのか少しも知的に把握されていないのに、徳といえるのだろうか