倫理学の主流な学派には「功利主義」「義務論」「徳倫理学」がある。
正しい行為
- 正しい行為とは、もし有徳な行為者が当該状況にあるならなすであろう、有徳な人らしい(つまり、その人柄にふさわしい)行為である。
- 有徳な行為者とは、ある性格特性すなわち徳をもち、かつ働かせる人である。
- 徳とは、以下のような性格特性である、すなわち………。
この徳というものをどのように考えるかで、徳倫理学のなかでも意見が分かれる。新アリストテレス主義者は「徳とは、人間が幸福や反映、つまりはよく生きるために必要とされる性格特性である」などと定める。もちろんこの中身については議論しなければならないだろう。
しかしながら、たとえば「勇気」「正直」などの徳目を掲げることにはなにか根拠があるのだろうか。つまり、《どの性格特性が徳であるかを見定める特定の見方を、はたしてわたしたちが正当化できるのかどうか、またできるとすればどのようにしてなのか》(P.249 徳倫理学について)が知りたいのだ。このことはふつう望み薄に見えるが、しかしローストハウスは「多くの条件付きで、できる」と答える。しかしどれだけの根拠で満足するかの基準によっては不満が出ることもあるだろう。
新アリストテレス主義は徳というものについて、次のような規定を与える。「徳とは、人間がエウダイモニアのために必要とする性格特性である」と。これは次の二つの主張とその繋がりを一言で要約したものととれる。(1)徳はその持ち主に利益を与える、(2)徳はその持ち主を人間としてよいものにする[よい人間]。
徳と幸福につながりがあるなどというのは世迷言に聞こえるかもしれない。なにしろ、正直に言ったがために精神病棟に入れられたり、あるいは悪徳にもかかわらずうまくいく人間がいるのだから。しかしこのことは大した反論にはならない。なぜなら、禁煙によって必ず長生きできるとは限らないが、それでもあなたは「禁煙は長生きのために是非すべきだ」という医者の言うことを間違いだとは考えないからである。徳と幸福につながりがあることへの反論にはならない―――しかし同時に、われわれの主張が十分に論証されたわけでもないが。自分の子どもに臆病で不正直なやつになってほしいと思う親はほとんどいない。そして親は子どもによい人生を送ってほしいと思っている。このことからも、われわれはふつう、徳と幸福のたしかなつながりを信じていることがわかる―――しかしこのことも、十分な論証とはいえない。まだ議論されるべき事柄である。なぜ新アリストテレス主義者は徳をその定義のうえから幸福と結びつけているのか、どうしてそんなことがいえるのか。
また、「よい人間」というものを考えるにあたっては、ヒト以外の「よい動物」を考えることが参考になるだろう、と解釈することができる。しかし倫理学は生物学の一分野ではないし、その類比にも限界がある。ヒトらしさについて議論しなければならない。それは恐らく言語的な理性であろう。これによって人は何を得たのだろう。
- いったい何が徳なのか。なぜそれが徳だとわかるのか。