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ドレイファス『世界内存在』について 序章

序章

 プラトン以後、理論というものに寄せられた期待は過剰すぎるものだった。第三者的に物事を見下ろし、その様子をまとめ、未来を見通す一冊の本を完成させようという目論見は人々にとって刺激的な考え方だった。最初のページには誰の心の内を覗いても明らかな原理が書いており、それは一切の文脈とは関係のない無色のものである。彼らに対して、「そもそもその一歩目を踏み出すためにはこれが必要なのだ」と言っても甲斐はない。彼らはその背景に対してもやはり同じように理論を求め、そして同じようにそれぞれの頭の中、あるいは心の中を基礎に据え、それでいてやはり第三者的に世界を眺めている。私たちがどうしても認めなければならないのは、『理論を可能にするものについての理論を持つことはできない』ということなのである。

 ハイデガーは日常的事象に対処していく心抜きの「技能」こそがあらゆる「理解」というものを可能にすると考える。だがもしこれを暗黙知のようなものとして把握するならば、それこそハイデガーは拒絶する当のものとなる。内在/超越、表象/表象されたもの、意識/無意識、明示的/暗黙的、反省的/非反省的というような主観の内部に見られる二項対立は主観/客観の対立を呼び変えただけでやめるべきである。ピーター・ストローソンは見事にこう誤解している。:「われわれが世界とわれわれ自身について考えるときに用いる、相互に連関した概念あるいはカテゴリーの基礎的な一般構造に関して、非反省的で多くの場合無意識的な把握を行っている」。私たちは世界了解を主観が内蔵している信念システムだということに、どうしてもしたがるようだ。

 明示化不可能な背景のことをハイデガーは「存在了解」と呼ぶ。彼がやることはこれを理論的に明白にすることではない。彼は背景的振る舞いがどのように機能しているのかということを指摘し記述する。すなわち、このような背景的振る舞いが存在することや、それをすでに共有している人々に対してそれがどのように働くかを指摘する。だがコンピュータで表象できるような確定的でコンテクストから離れた仕方で完全に説明することはしないし、そもそもできない。

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 この試みはフッサールの志向性理論からそれほど外れたものとは思われない。ドレイファスは志向性というものを、「個別の心が対象を表象する何らかの心的表象によって対象へと向けられている」と説明し心の理論としてジョン・サールと接続しているが、そもそも志向性とはそういったものではないように思われる。たとえ背景に技能や振る舞いというものがあるにせよ、少なくとも私たちは私たちの世界に関する説明を経験から始めざるを得ない。しかしその出発点となる経験というのはのっぺりとしたものではなく既にそこかしこに電柱や筆箱など様々な「対象」がすでに把握されたものである。対象はつねになんらかの側面だけを現わし、たとえば知覚においてはサイコロの面がすべて見えていることなどありえない。志向性とは対象とその現れ方の不可分な関係性のことで、心に関しては何も言及していない。

 個別の現れが対象を志向するその関係性を支えるものは「意味」である(フッサール 志向性の哲学)。意味とは、それがそれであると確信させる条件であり、なにかがなにかであるということを示すものである。志向性は意味に支えられているのだから、意味がなければ志向するということもない。その発生に技能的なことが関わっているのであれば、ハイデガーの試みは一続きのものとして理解できる。しかしそれは基礎的でありながらも、そもそもなにかを志向できるという事実から出発して掘り出した基礎であり、やはりどうしても経験の持つ志向性から出発するほかはないと思われる。