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ハイデガーの勉強:存在の問い&現存在の謎&存在了解

 

 

存在の問い

  •  「存在する」とはどういうことなのか?
  •  「存在」とはなにか?

 存在者を存在者として規定する当のもの、それが「存在」である。存在者は「存在」を基盤としてそのつどすでに了解されているものである。言い換えれば、存在は存在者の根拠である。だが、根拠であるというのはどういうことなのか。それが「存在の意味」と呼ばれるものであり、ハイデガーが与えようとしたのは「根拠であること」についての新しい考え方である。*1 

 存在の意味を問うにあたって、ハイデガーが問いかけるのはわれわれの平均的な存在了解である。われわれは日々、存在者と出会う。存在を、存在の意味を漠然と了解している。それを手がかりとするのである。このアプローチは〈解釈学的〉なものだといえる。

 というのは、たとえばデカルトは、過ちを含んだ先入見を徹底的に排除して絶対確実な出発点を探そうとした。つまり部分→全体へ向かう試みだった。しかし考えてみればこの方法で全体に至れる保証などどこにもない。「そもそも全体の理解など可能なのか?」が問題として浮かび上がる。これに対して、解釈学はこの全体の理解をわれわれが初めから持っていたと考える。そしてこの(漠然としている)理解を背景にしてこそ、部分が理解されているのだと考えるのである。この部分理解のことを「解釈」と呼ぶ。解釈と全体は相互に作用しあっている。なにかを理解するというのは、解釈と全体の往復運動を通じて対象をより明瞭に把握していくことだといえる。*2

 「存在」についての往復運動は、存在を問う存在者において生じる。ハイデガーはこの存在者に「現存在」という名前を与える。

 

『存在と時間』の哲学〈1〉

『存在と時間』の哲学〈1〉

  • 作者:門脇 俊介
  • 発売日: 2008/06/01
  • メディア: 単行本
 

 

なぜ現存在なのか

現存在の「優位」の起源:実存が存在了解を根拠づける

 存在の意味を問う試みにおいて、なぜ現存在に問わなければならないのか。それからまた、しばしば現存在は「人間」の別称として語られる。そしてそのような別名を使う理由は、『従来の人間理解の前提を安易に受け入れないための予防措置』とされてきた(『存在と時間』の哲学〈1〉)。だがそのように言うならば、ヒト以外の生命体はどうなのかという疑問が生ずるのは自然である。こうした点を踏まえながら、存在の意味の探究を遂行していくために現存在というものに問いかけることの理由を確認していこう。

 結論からいえば、現存在という存在者が探求に優位性を持つのはすべては「実存」のためである。そして実存しているのであれば人間でなくともかまわないのだが、もし「わたし」以外に実存している生命体がいたとしても「わたし」にはそれを知りようがない。この最初に述べる結論からも、現存在が単に人間という生物種と同列に扱えるものでないことが伝わればいいと思う。

 

 まず、「存在の意味をどの存在者に問いかければいいか」というスタートから始めよう。ハイデガーもやはりこの問いから始めた。そして「現存在である」と結論したのである。その理由として、彼は以下の三つを挙げた。

  1.  その存在様態を解明することによって存在の意味がそこから直接読み取れるから。
  2.  現存在が存在の問いのうちで、ある一定の「優位」をもっているから。
  3.  存在の問いを遂行するためには、それを問うている現存在自身についての解明を進めなければならないから。

 これら三つの理由はそれぞれ区別されなければならない。一つ目は、現存在から直接に存在の意味が読み取られるといっている。二つ目は、現存在から少なくとも出発しないといけないことを示す。三つ目は、前の二つに比べて消極的に、ともかく現存在を解明しなければ存在の意味へと接近する方法が確立されないといっている。

 現存在はいかなる「優位」をもつのかを整理しておこう。そのためにはまず「現存在」というのがどのような存在者なのかを確認しなければならない。

この存在者は、私たち自身がそのつどそれであるものであり、またとりわけて問うという存在可能性を有するものである。

存在と時間 全4冊セット (岩波文庫)

  解釈学的なアプローチを受け入れるなら、人が存在者を理解できるのは存在了解をもつためである。「存在」というものの了解を背景として個々の存在者を理解し、そうして出会いを通じて改めて全体の「存在」を問いなおすということができるモノ……それが現存在だと言われているのである。つまり存在に関して全体と部分の往復運動可能性を持っている存在者が「現存在」だといえる。

 さて、このことを確認したうえで、優位性の話に移ろう。

 第一の優位:現存在が、その存在において実存によって規定されていること

 「現存在が存在する」ということはどういうことか。現存在は存在者を存在了解をとおして理解するのだから、現存在という存在者自身のこともやはり存在了解をとおして理解していることになる。すなわち、「自己自身の存在へと関係しつつ存在する」ことである。そしてこの自己関係性における自己自身の存在のことを「実存」と呼ぶ。つまりは『実存とは自己関係的存在を意味する』(ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克)。

 現存在というのは「その存在において」=「存在しているというその時点でいつも」実存をもつ―――そういう点において、現存在以外に対して優位性を持つ。現存在以外の存在者は先述した往復運動をなしえない。つまり自己自身という存在者を自己自身の存在了解に向かって投げ返すことができない。つまり自己関係的でない。つまり実存を持たない。

 第二の優位:現存在が、実存によって規定されているという根拠に基づいて、存在を理解しつつ在ること

 第一の優位においては、現存在の優位性は「自己自身の存在を理解している」ことだったといえる。これに対して第二の優位は「一般の存在を理解している」ことだといえるだろう。

 そして一般の存在理解は、実存によって規定されていることが根拠になっていると言われていることも、重要なところである。というのも、この点については今のところ理由がまったくわからない新しいポイントだからである。たしかに現存在は存在了解をもつとされ、存在者をその了解を背景として理解するとされていたから、一般の存在について理解しているというのはわかる。しかし、それが実存を根拠にしているということは、いったいどこから出てきたのか。

 この「実存が存在了解の根拠づけている」という前提はまた問題にすることにして、まずはしっかりこの前提をおさえておこう。

 第三の優位:現存在は、一切の諸存在論の存在的ー存在論的制約であること

 つまり、非現存在的な存在性格をもつ存在者を主題とする存在論は、存在者を存在者たらしめている現存在の存在論によって根拠づけられるんだ、といっている。よりかみ砕いていえば、「存在者は現存在ありきだから、まず各論よりも大元の現存在についてやろうぜ」といっている。

 「実存が存在了解を根拠づけている」という前提のある以上は、現存在の優位はすべて実存に帰着する。

 

 

ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克

ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克

  • 作者:仲原 孝
  • 発売日: 2008/05/01
  • メディア: 単行本
 

 

現存在の本質である実存

 実存は、本質というものに対置される概念である。この存在者が何であるか、と問われたとき伝統的には色がどうとか重さがどうとかそういった見かけや諸性質が語られてきた。しかし現存在に限っては、それがなんであるかを語るために、それが「存在すること」から語らなければならない。たとえば、もし現存在を頭があって手があって…という風に説明したとしよう。そういった頭や手といった存在者は、現存在の存在了解を背景として把握可能なものである。そしてこれを可能にするのが「実存」だった。現存在について語るためには、実存という存在仕方から語らなければならない。ここでは伝統的な「本質」は実存よりも後退した地位につくのである。

 これゆえハイデガーは、現存在の「本質」は実存にある、という。そしてまた、現存在が存在する=現存在が実存するのであったから、現存在の「本質」は存在することにあるのがわかる。この現存在の特別な「存在すること」は「実存」と呼ばれ、現存在以外は「眼前存在」と呼ばれる。石ころが存在するかどうかはただ眼前に見いだされればそのように言うことができるが、現存在が存在するかどうかは『当の現存在自身が決定しなければならない自己関係的問題』なのである。

現存在は、いかなる自己理解をもつかに応じて、単なる生物の一例という眼前存在者としての自己を存在するだけに留まることもできるし、自己の死の可能性を自覚しながらかけがえのないこの一瞬の自己を存在する(つまり本来的な意味で実存する)こともできる。このように、そのつどの自己理解に応じた自己を存在するということが、現存在の本質をなしているのであり、現存在以外のあらゆる存在者と現存在とを分かつ最も本質的な点である。

ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克

現存在と人類の関係

 「実存が存在了解を根拠づけている」ことが現存在の優位性の根拠だとハイデガーが考えていることがわかった。しかし存在了解と実存がいかなる関係にあるのかはまったく語られていない。これが今後探っていかなければならない点である。

 しかしともかく、次のことは明らかになったように思える。現存在とは単に「人間」という生物種のことを指し示すものではないことである。言い換えれば、人間という生物種の本質としての現存在、という語りとは手を切らなければならない。わたしたちはそれぞれ存在を問うという存在可能性を持った存在者である。しかしわたしが現存在だという視点で見た時、あなたや彼は現存在ではない。あなたにとってもそれは同様である。『「現存在」は人類全体を一度に包摂する普遍概念とは決してなりえない』(ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克)のである。

 現存在と人間というものを分かつのが「各自性」である。これは『そのつどの当の自己自身のみを現存在と呼ぶことができるという性格』を表す。現存在とは各自性を持つ点で、つまり私であるところの唯一の存在者のみを指し示す点で、人間とは厳密に区別されなければならない。

 つまりハイデガーが最初に問いかける存在者とは、「私であるところの唯一の存在者」であり、そんなことができるのは人間だけだということを導かない。もしかすると実存するような存在者がほかにいるかもしれないけれども、存在者の実存はその存在者自身が問う以外にない以上、それを我々が問題にする可能性も必要性もない。

 

 

存在了解の構造

 存在の意味を探求するために現存在の存在了解へ向かうという方針が立てられた。そして存在了解は実存を根拠としてもつのだった。ではその方針の通りに存在了解・実存へ向かおうとするのだが、この試みが一筋縄ではいかないことをここで確認しておこう。その確認を通して、「現存在の存在了解の構造」を示しておくことにする。

ある特定の文化Cのなかで育てられ、Cに適合した形で人生を送っている女性Wの例である。文化Cは、西洋的な近代化をくぐってきてはいるが、女性の役割に関しては保守的な部分を残しており、社会で主導権を握っている男性の役割を肯定し、もっぱら女性に子供の養育者としての義務を課している社会である。

『存在と時間』の哲学〈1〉

  この女性の存在了解にはこの文化の「保守的な部分」が含まれている。女性Wは自らが子供の養育者であり男性よりも社会的地位が低い者であるということを正当なものとみなしている。ところがこのようなみなしは、日常のふるまいのなかに埋没しており、語られたり意識されないことがほとんどである。

 彼女はたとえば自分の娘に対して「女の子なんだから前に出過ぎるのはどうかな」などと忠告したりするかもしれない。また、養育者としての義務を果たさない同性に対して反感を感じるなどするだろう。どれほど表立って現れてこない存在了解も、このように実際に現われてくる。

 整理すれば、存在了解『養育者であり、男性より劣ったもの』を背景にして、個々のふるまい『忠告する・反感をもつ』という解釈がなされている。これを前理論的自己解釈と呼ぼう。これがたとえば宗教のテクストにおいて「女性は宗教上男性より劣る存在である」などと表現されるなどしたものを、理論的自己解釈と呼ぶ。存在了解と前理論的自己解釈と理論的自己解釈は相互に影響し合っており、前理論的・理論的に自己解釈することで存在了解が強化されたり、批判されたりする。それから大事なことは、存在了解と前理論的自己解釈はいつもセットである。

 一見、存在了解を理解する見通しは明るいような気もするかもしれない。しかし、前理論的自己解釈は存在了解の実相を隠す役割も果たしている。ここでは存在了解から説明を行ったからわかりやすいが、女性Wが養育者になりえない同性に反感を抱くさまは、はた目に見ればそれほど単純に存在了解の女性軽視的側面を伝えない。あるいは、なんらかの理論があったとして、それが存在了解から発する前理論的自己解釈を正当化するものであるとそれほど簡単には見抜けない場合がある。だからさらにいえば、存在了解を探査するのに既存のありとあらゆる理論を正当なものとして扱うことはできるだけ避けなければならないことになる。極端な話、荘厳なテクストも「朝飯は卵かけごはんに限る」という存在了解に発したものである可能性もある。

 伝統的な理論的自己解釈は単に前理論的な存在了解に間違った理論的解釈を押しつける可能性があるというだけではなく、伝統がどのような由来で当の伝統として成立し現存在の自己解釈に影響を与えているのか、という伝統それ自体の意味を隠してしまう。そうなってしまえば、人は伝統からの拘束に、やすやすと身を委ねて自己解釈を遂行するようになる。

『存在と時間』の哲学〈1〉

  たとえば、心身二元論というデカルト以来の「思考の枠組み」がいかに私たちの自由な言葉を妨げるか。デカルト的伝統はこれまで徹底的に批判されてきたが、いつまで経っても「心と物体の実体を認めるか!?」という問いのなかに私たちを縛り付けている。このことを「媒介説」と呼んで批判したのがドレイファス&テイラーの著作であったと思う。

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)

 だがわれわれはなんらかの伝統からしか出発できない。しかし伝統に身をゆだねるわけにはいかない。といっても、伝統から出発し、伝統を見つめることでしかコアである存在了解に達することはできない。それゆえに、「私は伝統から自由になった。克服した」などと言ってしまう人間はきわめて問題だとハイデガーは指摘するのである。われわれは既に伝統のなかにおり、そのなかで育ち、育て上げられている。その伝統のなかで不断に自己を了解しているのだ。