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ドレイファス『世界内存在』について 第一章

第一章 『存在と時間』の序論 —— 内容的部分

 なにかがなにかであるというその意味一般を探る「存在への問い」は、この記事においてはフッサール的文脈から理解されている。するとハイデガーのいうところの『現存在』というワードは、フッサールにおける志向的諸体験=意識と同一視されることになるだろう(””サルトル/フェレスダール流””p.15)。この解釈は批判的に扱われているが、この本がいうほどそれほどおかしなものではない。フッサールが志向的諸体験を意識と呼んだところにそもそも誤解の源があると思うのだが、志向的諸体験は自立的で個別的な主体によってなされているものだとは一言も述べられていないという点に注意が必要であろう。では体験している者はだれなのかという点はまさにこれから述べていなければならないことなのであって、はじめにあるのはまず諸体験なのである。

 さて、志向的体験を成立させている意味、ハイデガーがいうところの存在了解はもちろん、いつも具現されている。『われわれの振る舞いは、人に浸透している応答力、識別力、運動技能などを具現したものであって、これらの能力は結局、一人の人間であること、ある対象であること、ある制度であることが何であるかについての解釈そのものなのである』(p.19)。意味あるいは存在了解といったようなものは信念の形式で知られているものではない。たとえば他者と話すときの適切な距離というものは誰から教わるわけでもなく、ほとんどの場合、意識して””ルール””を順守しているわけではない。いわばそれは前理論的なものである。

われわれの前理論的な存在了解のおかげで、われわれに対して出会われてくるものは何ものかとして出会われてくる。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

 これを明示化することはまったく困難なことである。たとえば男性であること、女性であることの了解について私たちはある程度までは指摘することができるだろう。だがすべてを明瞭に、たとえばその区別を持っていない人やコンピュータにまではっきりわかるように説明してやることができない。それが単に言葉だけのお遊び程度の意味しかないならば別だが、重要なものであればあるほどすっかり身体に馴染んだものとなっており、明示化は困難となってくる。

 伝統的な理論家はこうした背景的な了解についてさえも理論が持てるのだと主張してきたが、それが不可能なのは、『どんなものであれ何ごとかを理解するためには、われわれはいつもある信念のネットワークを前提としている』(p.24)からである。フッサールはそう考えていなかったという記述があるが、もしそうだとすればこの点はハイデガーに分があるだろう。

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 志向的体験から始まった旅は、志向性の基礎に「意味」=「なにかがなにかであるということ」を見出した。それがいったい一般にどのようなことであるのかという存在の問いは、ハイデガーが指摘するように、

  1.  人間→哺乳類→生物→存在者といったような系列にある話ではないことは、志向性をそもそも成り立たせるものについて語っているのだから、当然の話として理解できる。
  2.  そして基礎の基礎にあるものを語る際にいかにして語ればよいのかという問題が出てくるのもまた当然であり、
  3.  さらに存在というものが自明で当たり前のものだとされているのも当然の話になる。

 存在者と存在の違いは、「存在」が「存在者を存在者として規定するもの」「存在者がそれを基盤として了解されているもの」だということにある。そしてこれは「意味」と重なるのだった。これは存在者の「根拠」とも言い換えられるだろう。だがここでいう存在・意味・根拠というものは創造神が産出するものでなければ、普遍的な主体が付与するものだとも考えられていないという意味で、伝統的な存在の探究と区別される。私たちは志向的諸体験からすべてをはじめ、志向することすべてに前理論的なレベルで発見される存在・意味・根拠への否定できない了解が含まれていることを掘り当て、常にそこから考えようとする。この存在了解はデカルトの目指したような””誤りを含まない出発点””ではないし、そこには驚くほどの先入見が含まれていることだろう。だがそこからしか私たちは探求をはじめることなどできない。

 基礎の基礎について問うことの学問論的な重要性は言うまでもない(『存在と時間』§3,4 存在問題の存在論的優位)。そして我々の生きるということに志向するということが常に含まれていることを見れば、私たちはつねに存在・意味・根拠を気にかけている存在者だということもわかる。それは自分という存在についてもそうなのである。男であること、哲学教師であること、父であること……種々の行為にはそれらを認めること、それらを成就しようとすることなどが含まれている(存在問題の存在的優位)。存在・意味・根拠の探究は私たちの「可能性」についての探究でもある。そしてハイデガーはその可能性のひとつを取り上げて「本質」などとすることに反対する。現存在(=人間)は可能性の重さに耐えられず、現存在をある固定した本性を持つある種の対象とみなそうとしてしまう。彼はこれを頽落と呼んでいる。

 

  つまりは志向的体験から出発しようというフッサールの旅路はハイデガーに見事に接続されている。ハイデガー解釈としてどうかという歴史はわからないが、少なくともそのように理解するほうが話の流れとして自然である。以上で存在・意味・根拠への問いの中身については済んだものと思う。