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にんじんと読む「世界内存在 『存在と時間』における日常性の解釈学」序章

  ドレイファスが「いいね」となったので、他の著書も読むことにしました。

 

 序論:なぜ『存在と時間』を研究するのか

ハイデガーが『存在と時間』でめざしていたものは、何ものか(物、人、抽象概念、言語、そのほか)が存在するということは何を意味するかについてのわれわれの理解を深めることにほかならない。彼が望んだのは、存在のいくつかの異なった仕方を区別することであり、さらに、これらの存在の仕方がすべて人間存在に関係し最終的には時間性に関係しているということを具体的に示すことであった。

 ハイデガー曰く、人間存在は誤った仕方で記述され解釈されてきた。この誤解はプラトンが「理論」に魅せられたことに始まる。「多様な現象の根底にひそむ原理を発見することによって、第三者的に、宇宙を理解することができるという発想」によって誤った道を歩み始めたのだ。ハイデガー「理論を可能にするものについての理論をもつことはできない」ということを示したいと思っていた。これはこれまでの哲学の伝統に疑問符をつけることでもある。

 上述した基礎づけ主義的発想に後押しされながら、デカルト以来の哲学は「われわれの心のうちの観念が外的世界に関して真になるのはどのような場合かを説明する、認識論の問題に呪縛されてきた」。しかしそのような認識論はわれわれの意識しない日常的振る舞いという背景を前提にしている。そしてそれは知識化できるようなものではないのである(このような明示化不可能な背景を「存在了解」と呼ぶ)。ハイデガー認識論的な問いに代えて、われわれの存在は世界の理解可能性とどのように密接に連関しているのかといった存在論的な問いを提出し、伝統と手を切る。伝統に位置するフッサールの超越論的現象学に対して、ハイデガーは解釈学的現象学を説いた。

 さて、上述したように、解釈学的現象学は「理論」と「意識主観に与える特権的な地位」に対して疑問符をつきつける。これを除くために、ハイデガーが闘わなければならなかった伝統的な前提は五つある。

  1.  明示性 = 人間は種々の原理を適用することによって物事を知り行為を行っているという考え = われわれの日常の了解を全面的に明示することが可能であるという考え+そうすることが望ましいという考え
  2.  心的表象 = われわれが知覚したり行為を行うためには、また一般に対象と関係を持つためには、われわれが自分の心をそれぞれの対象に向けることを可能にするある内容――ある内的表象――が、われわれの心の内に存在しなければならない、という考え。
  3.  理論的全体論 = 共有されている振る舞いという背景がたとえ理解可能性のために必須のものだとしても、その背景をさらに別の心的状態を用いて分析できるという確信を持ち続けてよい、という考え。
  4.  三者性と客観性 = 物事と人を記述する前に日常の実践的配慮から身を引く場合にだけ、物事が実際にどうなっているのかを発見することができる、という考え方。
  5.  方法論上の個別主義 = ある文化の意味と組織化は、個別的な主観の活動に起因するものである、という考え方。

※(5)が少しわかりにくいが、つまりハイデガーは「社会的文脈」というものを重視したのである。個別から始まってどんどんできあがっていくというよりも、もともとできあがっているもの(文化、日常的なふるまい)を個々が取り入れていく……という風だろう。

 

 ハイデガーは日常的な振る舞いに関心があったが、それはウィトゲンシュタインという哲学者も同様だった。しかし彼との違いは、ハイデガーの哲学は先に見た「存在了解」でもそうだが、用語が難しすぎるのである。少なくとも、日常会話で存在了解などという言葉を使う人間はいない。なぜこんなことをしたのだろう?

 ハイデガーウィトゲンシュタインでは、日常的活動の背景についての了解がまったく異なるという点ウィトゲンシュタインはこれが絶望的なほど錯綜しているように思えた。だからこそ彼はそんなものを体系化しようとするのはやめろと警告したのである。一方でハイデガーは、そこには精巧な構造があるはずだと考えた。しかし、背景というものは普通我々が話題にすらあげないものであるから、それを語る特別な語彙が必要だと考えたのである。(「慣習」「能力」という言い方はあいまい。「想定」「前提」という言葉も含みがあって誤解を招く。……)