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(日記)二月とは言うものの

2024.02.08記

 働かないことを目標にしてやってきたが、では働かなくなったあとにどうするのかという件についてはあまり考えて来なかった。問題としては把握していたけれど、「戦争が終わった後どうするか」と似て、ともかく戦争を終わらしておいて問題はあるまいという具合だったのである。ところがこの頃は、スティーブ・ジョブズ的な『自分の心に従え』という「自由」に対して疑念を抱いている。すなわち、『やりたいことがやるべきことかはわからない』という当たり前の事実に、はっきりと気が付きつつある。やるべきことかどうかは自分の手の中にはない。自分の肝臓のために何をすべきかを、自分が決めることはできないように。

 ただ平日毎日働くのは「さすがに働きすぎ」という感覚は変わらない。仕事はやっぱり減らすべきだと思う。もし自由でいたいならば。だがすべてをなくしてしまうのは、自由すぎて逆に自分がなんなのかわからなくなるかもしれない。なにかにぶつからないと自分の形がわからない、とたとえられるかもしれない。

 いらないものはいろいろある。たとえば葬式で坊主がお経をよむのはいらないと思う。しかしあれをやってもらって、その寺が管理する墓に入れてもらえるという「契約」みたいなものがあるらしい。その話を聞いたときなおさら坊主がイヤになった。自分が死んだときはもちろん、喪主になるであろう葬式においても坊主になど来ていただきたくはない。ただ一方で、死んだら「ご臨終です。では燃やしておきます」と医者が言って済んでしまうのは考え物だ、と思う。人が死ぬのは重い出来事でなければならない。それを儀式という一種のパフォーマンスで表現してきたわけだ。だから幼い子どもなどがいる場合は、一度はあの坊主の演出を味わわせたい。一年ごとに墓に行き、手を合わせる。あのときに坊主はいらないかもしれないが、「集まる」のは必要かもしれない。