にんじんブログ

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にんじんと読む「スマホ時代の哲学」

 大衆はそれぞれ自己完結しており、自分を疑うということもない。「お考え」をべらべらとコメントし、他人の話は一切聞かない。Twitterのトレンドをのぞけばいくらでもいる人種だが、『こういうひといるよな』と言い、暗に自分はそうではないと思っている人間もまた同じ穴の狢である。自分を疑わない連中はうらやましいほどに落ち着き払っており、自信に満ちているが、実際のところは自己を一切顧みないという点で自己から逃避していることに気付かない。自己逃避の形態はさまざまだが、主だっては、マルチタスクやスケジュール帳の空白埋めなどを典型例として、さまざまな刺激に絶えずさらされることによって行われる。そういう刺激から切り離された状態を「退屈」と言い、すぐになにか別の刺激を求めてやむことがない―――私たちは自分と向き合いたくないのだ。

 私たちは一人でいることができなくなっている。

 アーレントは「一人でいること」を三つの様式に分けている。:

  1.  孤立isolation 他の人とのつながりが断たれた状態。何らかのことを成し遂げるために必要な、誰にも邪魔されずにいる状態、でもある。
  2.  孤独solitude 沈黙の内に自らとともにあるという存在のあり方。自分自身と過ごすこと。心静かに自分自身と対話するように思考すること。「一人の中に二人いる」。葬式の最中に端末を触りたがる人は悲しみを受け止める場を退屈に感じ、孤独になることができていない。
  3.  寂しさloneliness いろいろな人に囲まれているはずなのに、自分はたった一人だと感じている、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態。

 スマホ時代、私たちの孤立は腐食し、孤独も奪われ、寂しさに駆られる。

 不安や戸惑いをSNSやブログに書いたり人に連絡して延々と話を聞いてもらうことができる時代においては、自分の中にその不安の置き所を吟味するまえに、それを覆い隠すことができる。衝撃に蓋をしたまましばらく経つと、そのまま抑うつ状態になっていることがある。「孤独」は目を背けたいこととの和解の機会を与えるのだ。もちろん誰かと共有することがまったく必要ないわけではないのだが、即座にシェアしてしまうと、自分がそれについてどう受け止めたのかという暇がなくなってしまうのである。他者の目があるところでは、無意識に私たちは調整されてしまう。一方、嬉しいことがあったときにも孤独は必要だ。孤独は、プラスにせよマイナスにせよ、現実を受け止め置き所を見つけさせてくれるものだからだ。

 孤独を作るものが必要だ。ただ単にスマホを投げ捨てて、社会から遠ざかるようなものではなく―――それが「趣味」である。特に、制作、創作の趣味である。創作においては実験や思考を通じて、創作の目標や意味、自分の関心やスタイルなどが次第に見えてくる。それは言い換えるならば、自分が作り育てているものと向き合うことであり、自分の中の自分を外に出してそれと向き合うことである。

 自分のなかにはいろいろな自分がおり、「こうだ」と確信していることでも、他の自分にとってはそうではないし、時間的変化のないことでもないし、絶対的なことではない。「本当にやりたいこと」でさえも、本当にやりたいことかどうかはわからない。実はそうやって自分にこだわることは、孤独への道を閉ざしてしまう。自分の中の複数性に向き合わず、疑うこともなく、うらやましいほどに自信満々だからだ。