にんじんブログ

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「ファッション」について

アイデンティティとコミュニケーション

 衣食住が大事だという。ここに「衣」があるが、これにはコミュニケーション、対人関係というものも含まれているという解釈がある。たぶん、もともとはそんなことではなかったと思うが、そのように付け足すことには一定の説得力がある。

 ファッションというものは〈アイデンティティ〉と〈コミュニケーション〉の問題として捉えることができるかもしれない。それはその人が誰であるかということを自身でコントロールする技術であり、対人関係を成立させる。たとえば葬式にビビットカラーで参列するやつはいない。なにか、ある種の圧力を以って、全員が黒のスーツを選ぶ。だからむしろこの二つは表裏一体だともいえるのだが、黒のスーツ着用と定められながらもちょっとネクタイに個性を出したりしてくるのを見ると、完全に同じだというわけでもなさそうである。

 つまり全体的な制限(黒のスーツ)のなかで、個性(ネクタイとか、ハンカチとか)を出す方法を模索するという図式がここにはあるように見える。わざわざ葬式にしなくても、町に出歩くのだってそれ相応の服を選ぶはずで、ウェディングドレスを着て歩き回る奴はまずいない。しかし歩き回るやつが絶対に発生しないというわけではない。

 衣服というのはどうしても〈アイデンティティ〉の表出、どう見せたいか、どう思っているかをあらわにする。それはよのなかに対する了解の表現であるのと同時に、自分自身を自分自身でどう了解しているかの表現でもある。この表現は別に表現しようとしてしているわけではない。「自分自身を着飾るときは、ある意味で、われわれは自画像をつくっている」(セイモア・フィッシャー)という言葉は正しいが、実のところ、つくっているというほどの自覚はない。ウェディングドレスを街中で着ないのはよのなかがそういうものだと了解しているからだし、着ることにした人々もその思いは共有している。

 

 

政治的主張

 このふたつは拮抗し合っている。

 人と違う自分でありたいと思う反面、葬式はみんな黒スーツじゃないといけないしそうしないとハブられることはわかっているからウェディングドレスを着てくるやつはいない。わたしたちは「黒スーツという制限。ちょっと個性」を選択するが、「俺にはこういう個性があるからな。これを維持しつつ場に合わせないと」を選択することはほとんどない。時期ごとのトレンドというものを意識しながら、そのなかでワンポイントだけ自分の個性を入れる。そうして誰もが追従し、あらたなトレンドが生まれる。そういう風にしか、選べない。

 わたしたちは自由に衣服を選択できているように思っている。しかし、そんなことはない。アナタという独立したものがあって、衣服のリストがあって、それをあてがうようにはできていない。たとえば女性は女性らしい服装を選ぶし、男がスカートを気兼ねなく履くことはない。非認知的に、意識にのぼるよりも先に、そもそも「衣服のリスト」から除外されている。

 アイデンティティとコミュニケーションの闘いは、個人と集団、自由と平等の問題と繋がっていく。

 

 わたしたちのファッションはその調停を毎日しているわけだが、特に見られがちな考え方として〈ダンディズム〉と〈ロマン主義〉がある。これは自分自身の見た目を作り上げる技術だった。

 ジョン・ハーヴェイはダンディズムを「華美を避けつつ、しかも誇示するスタイル」と定義している。そしてダンディズムの体現者のことをダンディというわけだが、ダンディな人々は『個人的な差別化への関心――「卓越している」ように見せようとする飽くなき関心――を表現している旧来の貴族的な衣服のスタイル』で過ごす。彼らは自分というものを表明しながら、目指すべき人格へと完成していこうとする。自分で自分を創造していく。

 一方、ロマン主義は自分というものの本質は既にあって、それを純化していくというスタイルをとる。ダンディは理想像を追いかけるが、ロマン主義者(ボヘミアン)は本当の自分を探求し続ける。ダンディは「演出的」であり、ボヘミアンは「感覚的」といえる。

 しかしどちらにしても、現在の自分は放り出されていることには変わりない。ダンディは「理想」を追い求めるし、ボヘミアンは「本当」を追い続ける。こうした試行錯誤なかで、おそらく誰も同じ壁にブチ当たる。:自分っていったいなんなのか?

 

ファッションの哲学

ファッションの哲学

  • 作者:井上雅人
  • 発売日: 2020/01/14
  • メディア: 単行本