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夏目漱石のこと

 夏目漱石ほど魅力的な作家はそういない。

 彼が魅力的なのは、文学的な芸というものにとどまらない。どれだけ中身がうまくてもそれで繰り返し読む気にはならない。彼には、何度でも読ませるなにかがある。それを言葉にしようと試みているのが林田茂雄氏の書いた『漱石の悲劇』である。調べてみると、林田さんというのは共産主義の旗を振っていたようなひとで、ともかく「政治の人」という印象を受けるプロフィールなのだが、書いているものはたいへん面白い。『般若心経の再発見』などでは「自分はさとりをひらいた」といっており、それだけ見ると相当エキセントリックだが、ぐんぐん読み進めてしまう魅力がある―――この種の不思議な引き寄せられは、魅力というのがふさわしい。

 林田さんはまず、漱石の精神病的症状をとりあげる。彼が実際精神病だったのかはともかく、彼の作品にみられる特徴・世間を驚かせた行動には彼自身の思想的なこだわりがあったに違いないと診断する。この診断の可否はどうあっても推測の域を出ないが、「何か考えがあったのだろう」と思わせるのもまた漱石の魅力が為せるわざである。それに『文学論』と彼の作品群との関連性が指摘されるにつれて、「何か考えがあったのだろう」感は増している。

あくまでもまともであった神経が、あくまでも彼としてのまともさをつらぬこうがしたがために、しばしば病的な現われ方をしてしまったのではないか、というぐあいに考えずにおれないのである。

漱石の悲劇』(林田茂雄)

 

 漱石作品の特徴として、林田さんはまず「女中」を取り上げる。一言でいうと、漱石作品の連中はどいつもこいつも、どれだけ貧乏であろうが(!)、かならず女中を雇っているのである。『野分』の主人公・白井道也は貧乏人の筆頭であり、その貧苦は相当なものである。「質に入れるものはもう何もない」とさえ言う。しかしちょっと横を見ると、なんと女中がいる。なぜ女中を解雇して費用を節約しないのか。

 漱石作品の第二の特徴は、漱石の思想を代弁する登場人物は誰も彼もみなたいていが「無職」だということである。漱石には明らかに、働かずに食っていける人間たちへのあこがれがある。ここには〈真に自由にものを言い、自由に行動することができるためには、勤めや商売にしばられていたのではだめだという主張〉が見え隠れしている。

 みずからの自由を阻む物や者に対する漱石の抗議は尋常ではない。漱石は「個人の自由」ということにたいへんこだわった。自由にものが言える安全地帯というのは、特別な条件に支えられ、だれもが簡単に果たせるものではない。それに果たせたとしても、それはきわめて不安定であり、『それから』の代助などはその幸福の地盤がくずれた男である。

 

 個人の自由という点について、象徴的な事件がある。それは「語学試験(担当)拒否事件」および「博士号辞退事件」である。まず前者は簡単に、講師として雇われていたにも関わらず教授たちから語学試験を担当するように命じられ激怒した事件である。次に後者は、博士号を授与するといわれそんなものはいらないと拒否したという事件である。前者に関しては、多くを語らずともわかりやすい。要するに自分の職務の範囲外のことを「命令」されて、「誰がそんなことをやるか馬鹿野郎」と抵抗しただけのことだ。もちろん、お上からの命令ということもあるし、時代もあるし、最高に断りづらいことは間違いない。

 だが後者はどうだろう。せっかく博士号をやろうといっているのだから、もらってもよさそうなものだ。もちろん博士号なんか足の裏の米粒だからいらないかもしれないが、別に突き返すほどでもない。実際、当時も漱石に対する世評にはその向きのもあった。林田さんはこの事件が〈主義の問題〉であると捉える。漱石は妻・鏡子あてにこういう手紙を書いた。

せんだってお梅さんの手紙には「博士になって早くお帰りなさい」とあった。博士になるとはだれが申した。博士なんかはばかばかしい。博士なんかをありがたがるようではだめだ。お前はおれの女房だから、そのくらいな見識は持っておらなくてはいけないよ。

 この手紙は博士号の授与される前のものである。つまり彼は博士号なんかくれるといったっているものかと思っていたところ、くれるといってきたので、実際断ったのである。林田さんは中村光夫というひとの先行研究を引いたあと、こう書いている。

中村さんがいうとおり、自負心の強かった漱石は、もっと若いころから博士号など問題にしていなかった。むしろ、無視していたというよりもにくんでいた。博士という称号そのものをにくむ理由はないのだが、文部官僚とその手下どもが、学者文人の値うちをかってにきめる制度をにくみ、その出すぎた権力の横暴と軽率をにくみ、そこからつくり出された権威と栄誉がものをいう風潮をにくみ、官許の「栄誉」にあこがれたり「権威」をふりまわしたりする学者文人たちの不見識をあわれんでいたのである。

漱石の悲劇』(林田茂雄)

 博士号問題は単に自尊心という内的欲求の問題以上に、『お上の御威光』に対する積極的なたたかいとして捉えるべきなのだ。