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にんじんと読む「現代哲学の真理論」🥕 ①~③

真理論が共有してきた前提は、それを『特定の文化や社会を超えた確固不動の何かに支えられた観念とみなす』ということであり、これはそれを否定するという意味で相対主義者や懐疑主義者も同様であった。ところが二十世紀に入り、このような前提そのものが疑われ、それゆえにそれを追い求める価値さえも疑われた。ニーチェにとって『真理とは「錯覚であることを忘却されてしまった錯覚」』である。またウィリアム・ジェイムズにとって『真理は善の一種であり、われわれに幸福をもたらす。行動のための便宜が正義であるように、思考のための便宜が真理である』。この二人はそれ以前と二十世紀からの真理論の分水嶺となっている。

 ローティはこの分水嶺プラトン主義の終焉であると解釈する。プラトン主義は、認識にも言語にも依存しないような何かがあるとする立場である。プラトン主義の流れはこれを追求し、この「何か」についての多様な見方を展開したものだ。このような流れのなかに上で見たような伝統的な真理論が重なって来るのは見やすい。その流れはやがてカントへ至り、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」という主観主義的転回を経て、真理というものを考えるのに「何か」が不要になった。この地点で既に、ニーチェやジェイムズに至るのは理解しやすいだろう―――ローティのこの哲学史解釈は、反プラトン主義的な立場から行われている。

ハーバーマスはいわば「形而上学的思考」が、①同一性の思考、②イデア論、③強い理論的概念の三つから構成されると言った。同一性の思考とは、多様性の根底にある実在を想定し世界の統一性を確保する思考。イデア論とは、実在の属性を普遍性、必然性、非時間制とみるもの。強い理論的概念とは、実在の認識にあたって実践よりも理論を優先させることである。

 

 中世が終わり近世に至ると、いわゆる科学革命が起こる。自然科学がもたらした成果は、私たちがいったい何をどこまで知りうるかという問題意識を生みだした。そしてこの問題を史上はじめて引き受けたのがロックであり、それを引き継いだのがヒュームである。

 ロックによれば、『あらゆる観念は、結局、心の外の対象に関わる感覚と、自身の心的作用に関わる内省という二種類の「経験」に由来してのみ知覚される。どんなに複雑な観念でも、これらの「経験」を通して得られた相対的に単純な観念を材料に構成されたものにすぎない』。人間が得られる経験というものは有限であるから、知識はちょっとずつしか進歩しない。だが明らかに歩む道は見える。経験に起源をもたないようなごみくずを排除することも、重要な使命として含まれる。

 ところで、いわば真理の道は経験によって作られているのだから、他人の経験が経験できない以上、内的なものになるだろう。ロックもそのような立場で真理を取り扱っている。たとえば「白が黒でない」という命題は、白や黒といった観念の不一致の知覚を経験することで得られる。これは観念間の関係である。ところが「外界の実在」に対して話が及ぶと、ロックはその真理条件として実在と観念との一致を持ち出す。しかしそもそも「外界の実在」というものを認めるのは不整合ではないか? ロック自身も、あるものの観念を抱いたからといってあるものが外界に存在することを意味しないと言っている。だから自らの経験的な立場を堅持するなら、外界の実在など妄想だと切り捨てればよい。

 ではなぜロックはそんなことを言ったのか?

 

 ロックが経験を道としたのは、エセ真理を取り除くことに主眼があった。人類はそうした選り分けを行ううち、少しずつであるが確かな真理に向かって進んでいく。そんな彼が外界の実在についての判断を保留しなかったのは、最後の最後までついてくる懐疑論を退けるためであった。つまりどんなに確からしい道を辿ろうとも結局は正しい知識は得られないとする懐疑に対して、はっきりとした拒否をしたのだ。ではその根拠はなんなのか。それは「神」であった。人間の外界認識は神の与えた能力であるから、科学者は既に述べたようなモデルのなかで、真理探究に励めばよい。『私たちは実際、日常生活のなかで、例えば火が心の外に在って、触ればつねに「熱い」ことを知り、それに近づきすぎることは避ける』、『つまり、実在と感覚観念との間の恒常的な連関を因果性として理解する能力が私たちには現に与えられてある』。

 さて、楽観的ともとれるロックの真理観はヒュームにおいてどう捉えられるか。

 ヒュームは因果性を批判する。たとえば最も基礎的な「物体Aは同一のAである」という命題を考えてみても、永続的に感覚し続けることなど不可能なので、ブツ切りにされた感覚から一つの連続に結びついていると想定される。因果性が私たちの感覚以上のことを私たちに信じさせてくれるという役割を担ってくれるため、私たちの世界は相互の関連を保ちつつ、統一的にあることができる。因果性は『世界の接着剤』であり『科学的探究が有意味であるための権利根拠』なのだ―――だがこうした因果性は経験を超える以上、不完全な帰納的推論である。なのに科学的世界把握の根底に据えられている。

 ヒュームはロックを引きついて、因果性を経験から説明する。すなわち、『ある類型に属する出来事が、それに時空的に近接する別の類型に属する出来事に引き続いて繰り返し起こった、ということを感覚知覚する経験』である。この恒常的な連接によって、次にまたその出来事が起こった時には自然とそれに続く経験を思い浮べる。この習慣が形成されれば、前を原因、後を結果と呼ぶことになり、因果として繋ぎ合わされるのである。

 ここで注目すべきは、「習慣」という非合理的過程を経ていることである。なにかの出来事から未来のことを推論するという飛躍を遂げるためには、ロックのように「火を見たら避けるように、実際そうなっている。すると神意に照らせばここに因果を見出すのが合理的」というだけでは足りない。非合理的飛躍を遂げるために必要なのは神の慈愛ではなく、『私たち自身の心の主観的で非合理的な決定だけ』なのである。

このように、神の慈愛を信頼することでロックが問題としてほとんど顧みることのなかった「客観的真理」と「主観的真理」の分裂が、ヒュームでは、少なくともそれを意識せざるを得ない程度にまで深刻になっているように見える。そしてこの分裂こそ、のちにカントが、「主観から出発していかにして客観に至り得るか」という認識論的正当化の問題として再び捉え直し、壮大な超越論哲学を構築する導火線となったものなのである。

現代哲学の真理論―ポスト形而上学時代の真理問題―

 

ヒュームによって因果性が経験によって、特に習慣という非合理的経験によって説明された。だがそう考えてみると、自然法則など必然性を持ちようがない。それはその因果連鎖を保証するものは何もないからである。すると法則は「主観的信念」になる。以上より、ヒュームは結論づける。:『科学的法則とは実は「主観的信念」にすぎず、したがって、諸科学は厳密な意味では学問として成立していない』。つまりこの世に真理なるものはない。何もたしかなものはない。

 これに正面から引き受けたのがカントである。彼の哲学的課題はこうである。

  1. 人間が確実なものとして知ることのできるものはあるか、あるとすればそれは何か(認識論的真理)
  2. 人間は何を規準として生きるべきか、どう行為すべきか(実践的真理)
  3. 人間は何を信じ、何を期待して生きればよいのか(宗教的真理)

 真理に関して、カントは「先天的総合判断はどのようにして可能であるか」という問いに集約させた。主語を分析すれば述語が出てくるような当たり前の判断を分析判断というが、やはり問題となるのは主語にはない新しい情報を得ることができる総合判断である。そしてまた、確実性をもつためには全面的に経験に依存しているのではいけないから、それを意味するために先天的と言っているのである。

 数学・自然科学に関していえば、先天的総合判断が可能だとカントは言う。たとえば二点間を結ぶ直線は、二点をつなぐような線のうちで最短である。私たちは紙に線を引けばそれを確かめることができるが、なぜこれが未来永劫それが最短であるといえるのか。カントによれば、幾何学は空間の学であるから。空間とはわたしたちが先天的にもつ感性というものの形式のひとつで、空間という感性の受容構造によって点・線・面などは成り立っていることから幾何学はこれらについての認識であるといえる。言ってみれば、自分の内側の話をしているので、その内側の確実性は私たちが保証することができるのである。

 カントのしたことは現象界と物自体界という二つの世界の区別であり、なにか物それ自体について私たちは確実な知を得ることはできないが、「現象」は私たちに先天的に備わっている構造から作り上げられているので確実な判断が可能なのである。対象の法則性は主観の法則性だという転回がカント哲学において重要なのだ。

物自体の性質は主観の能動性によってどうにかできるものではない。われわれに与えられているのは、感覚刺戟であり、そこに生じる諸表象のみである。主観の能動性はこれに働きかけてこれを秩序づける。この秩序付けられた諸表象の総体が現象である。この現象こそ、われわれにとっての対象(=自然)である。現象はこのような意味で、それ自体、主観の能動性によって構成されている。主観の能動性はカテゴリーに従う。カテゴリーは思惟の普遍的法則であり、このカテゴリーによって対象(=自然)は構成されるのであるから、その法則性は普遍的であると言える。

 カントのこのような転換は、哲学の構築法の転換をもたらした。カント以前の哲学は神だとか世界だとか魂だとかについて云々したが、カント以後は「そもそも人間にそんなことを知れる能力があるのか?」といった点をまず問題にしなければならなくなった。『哲学の体系構築には、それに先行した認識能力そのものの解明が必要であるとする哲学を「超越論哲学」という』。カントは超越論哲学の創始者となったのだ。