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数学的プラトニズム

 プラトニズムは、具体的な事物とは異なるものを独立の存在者として認める。

 数学的プラトニズムは数や集合・関数・構造といったものが私たちの認識とは独立に存在すると主張する。だがこれは一見して、およそまともな立場には見えない。なにしろ抽象的な存在がいったいいかなる意味で「存在する」といっているのかただちに明白ではないからである。しかし多くの人々はこの立場に引きつけられてきた。ときには、数学的なものがたんなる記号であるという形式主義よりも説得的に見える。そのゆえんは、「公理」という体系内で証明できないものを別の仕方で把握しようとするとき、私たちは””それはそうだから””という日常的な感覚能力に依拠することであろう。つまり、数学体系の公理の正しさを把握する能力がわれわれにはあり、それが物理的世界に見出せない以上、なにかそれに類した能力があるのだと。

 たとえば形式主義者は「このモデルだったら」と前置きをつけて発言する。なぜなら彼らにとってどんな数学的な主張もモデルに相対的なものだからである。これはすなわち、数学というものは『Aモデル島』『Bモデル島』……といった島々から成ることを意味する。だが、私たちは知っている。数論において自然数を扱い、解析学において実数を扱い、集合論において集合を扱う。これら三つが基本的な領域であると知っている。なにしろ、私たちはこの基本的島さえ確立されていれば、可算無限個だろうが非可算無限個だろうがそれより上であろうが、その存在に悩まされることはないのだから。形式主義はこの序列を説明する能力がまったくない。

 

他の数学理論が、そこでの証明に際して、安心して一定の総体の存在に訴えることができるのは、数論や解析学がその総体の存在を保証してくれているからである。

ダメットにたどりつくまで