にんじんブログ

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(メモ)にんじん的物理学の勉強 これまでのあらすじ

 私たちは物体の情報を次のスカラー値、ベクトル値、関数によって得る。「質量」「位置」「速度」そして「p(t)=mc'(t)」。最後のものは物理学において「運動量」と呼ばれる。実はp(t)の微分こそが「」と呼ばれるものなのだが、ここでは単に運動量の変化率と化しており、誰が押しただの蹴っただのは全く関係がない(力の原因は問われない)。前にやったように、運動量の変化率がゼロならば加速度はゼロであり、静止しているか等速直線運動を続ける。これは積分定数の値、すなわち初期値に依存する。また、向きも一定なので””直線””運動になっている―――逆にいえば、等速運動をしていて直線運動をしていないものはなんであれ運動量が常に変化している。そのような運動のうち最も直感的で典型的な例は円運動であろう。

 考察を進める前に、当たり前のように過ぎていることを整理しておこう。私たちの物理学の研究のために用意した精神と時の部屋はR^3の空間とRの時間から成り立っている。質量はスカラー値であり、位置はベクトル値で与えられる。これはR^3の標準的な座標系(1,0,0)(0,1,0)(0,0,1)によって表示されている。いずれにせよ物体の位置は点で表される。つまり、質量はあるくせに大きさはゼロなものを扱っているということだ。あまりにも非現実的な想定だが、大きさを考えるとひっくり返ったりとか壊れたりすることがあるので、物体の運動を考えるうえではちょうどよい。逆に、物体に大きさがあるくせにひっくり返りもしないし壊れないなどと仮定するほうが、「一体自分はいま何を仮定したのだろう。その仮定は具体的にどう我々の議論を拘束するのだろう?」という問いに頭を悩ませる原因になり、不合理である。私たちはそれを表現する手段を持たない。

 

 私たちは以上の準備を元手に、ようやく個別の「力」について知ることができる。力を教えるのはその物体の質量や速度、運動量であり逆ではない。この点を、ニュートンの第一法則は誤っていた。なぜならそれによれば、「力が作用しないと物体は静止するか等速直線運動を続ける」のだが、そもそも力が作用しているかどうかを判定するのが位置の変化なのだから、この説明は転倒しているのである。

 力を教えるのは個別の実験である。ただ、その実験は初期において、身近な場所で行われる。宇宙ステーションが身近なやつもいないだろうから、私たちは重力を普遍的に成り立つものとして見出すだろう。だが誰もが知るように、宇宙にはそんなものはなく、ボールを手から放しても落ちて行かない。残念なことに、当の実験が背負っている特殊な条件を、私たちは前もって知ることができない―――この最終決定的でない性質を、いったいどう定式化すればいいのだろう? できない。理論はそのたびに改訂されるのみである。そして改訂はいまも行われ、履歴さえ残らない。

 数学的には《力》、つまり《運動量の変化のパターン》はただ与えられるのみであり、実験した者のみがその妥当性を知っている。数学的には検討するとかしないとかいう話ではなく、単に「定義」なのである。実験は物理学者によって解釈され、彼らはその解釈を検証する。つまりまた実験に引き戻して予想されたことが起こることを確認し、確信を深める。一方、理論はその解釈をもとに整合的な組み立てを行う。ふたつは異なる論理によって支配される。語用論的論理と意味論的論理である。数学化するとその完全性から構文論的論理において間接的に後者が保証されることになっている。……と言う風に考えると、むしろ科学は真理の対応説よりも整合説をとっているように見える……が、正直このあたりはまだ確信していない。