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「好きの反対は無関心」のこと

好きの反対は無関心

 誰が言ったのか知りませんが、かなり含蓄があるなと今更感心しています。

 この言葉の有難いところは、「好きでなければ嫌わなければならない」という思いを否定してくれるところです。「好きじゃないな~」って言われたら「嫌いなのかよ!」と感情的になるのを抑えることができます。どうでもいい、と同じ意味です。

 

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↑ 「新たな次元の発見」と言うべき、素晴らしい言葉の図

 

 横軸は「必要性」の次元です。どうでもいいというのは「関与しない」ことではありません。「必要なら関与する」というのが、どうでもいい、ということです。道を歩いている他人はきわめてどうでもいい人たちですが、必要とあらば関わります。

 縦軸は「よい・わるい」の次元です。不必要なときに関わろうとする点ではどちらも同じですが、「関わり方」に違いがあります。よい・わるいというのは道徳的判断ではなく、あくまで自分にとって心地いいとかうっとおしいとかそういうのです。

 

 

 職場・学校にいろいろ「好きじゃない」人はたくさんおられるかと思います。しかし「嫌う」必要はありません。「嫌う」というのは、ひとつの態度で、具体的行為によって表現されるため、ギクシャクします。「どうでもいい」は必要なときに必要なように最低限手短に関わります。関わるというのは、感情的なかかわりも含めます。思い出したり、あんなこと言われたなあとか、関係一般を指します。

 

 

 できるだけ「嫌う」のは避けて、「どうでもいい」にシフトすればいいんじゃないかなという、メモです。そう思うと「みんな仲良く」という標語も、気楽に履行することができそうですね(?)

 

 

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労働基準法まとめ【社会保険労務士】平成29年度

第一章 総則

労働基準法第3条は、使用者は、労働者の国籍、信条、性別又は社会的身分を理由として、労働条件について差別的取扱をすることを禁じている。>⇒✖

 

 よくある引っかけ。性別による賃金差別を禁じているのは4条。賃金以外の性別差別は別の法律。

 

労働基準法第5条に定める強制労働の禁止に違反した使用者は、「1年以上10年以下の懲役又は20万円以上300万円以下の罰金」に処せられるが、これは労働基準法で最も重い刑罰を規定している。>⇒〇

 

 強制労働は最高の刑罰。ヌルい感じがしないでもない。

 

労働基準法第6条は、法律によって許されている場合のほか、業として他人の就業に介入して利益を得てはならないとしているが、「業として利益を得る」とは、営利を目的として、同種の行為を反覆継続することをいい、反覆継続して利益を得る意思があっても1回の行為では規制対象とならない。>⇒✖

 

 「一回目で~すw反復継続じゃないで~すw」というような子どもみたいなことは言えない。

 

<労働者(従業員)が「公職に就任することが会社業務の逐行を著しく阻害する虞れのある場合においても、普通解雇に附するは格別、同条項〔当該会社の就業規則における従業員が会社の承認を得ないで公職に就任したときは懲戒解雇する旨の条項〕を適用して従業員を懲戒解雇に附することは、許されないものといわなければならない。」とするのが、最高裁判所判例である。>⇒〇

 

 公民権の行使は権利であるから、懲戒解雇までしてはいけない。

 

<同居の親族は、事業主と居住及び生計を一にするものとされ、その就労の実態にかかわらず労働基準法第9条の労働者に該当することがないので、当該同居の親族に労働基準法が適用されることはない。>⇒✖

 

 就労の実態にかかわる。

 

<法人に雇われ、その役職員の家庭において、その家族の指揮命令の下で家事一般に従事している者については、法人に使用される労働者であり労働基準法が適用される。>⇒✖

 

 されない。判断基準は「家族の指揮命令」である。

 

<何ら事業を営むことのない大学生が自身の引っ越しの作業を友人に手伝ってもらい、その者に報酬を支払ったとしても、当該友人は労働基準法第9条に定める労働者に該当しないので、当該友人に労働基準法は適用されない。>⇒〇

 

 引っ越し作業は事業ではない。

 

<株式会社の取締役であっても業務執行権又は代表権を持たない者は、工場長、部長等の職にあって賃金を受ける場合には、その限りにおいて労働基準法第9条に規定する労働者として労働基準法の適用を受ける。>⇒〇

 

 実質的に労働者と同じやつは労働基準法の適用を受ける。

 

<工場が建物修理の為に大工を雇う場合、そのような工事は一般に請負契約によることが多く、また当該工事における労働は工場の事業本来の目的の為のものでもないから、当該大工が労働基準法第9条の労働者に該当することはなく、労働基準法が適用されることはない。>⇒✖

 

 指揮命令があれば、それが「〇〇契約」のどれだろうが適用される。

 

医科大学附属病院に勤務する研修医が、医師の資質の向上を図ることを目的とする臨床研修のプログラムに従い、臨床研修指導医の指導の下に医療行為等に従事することは、教育的な側面を強く有するものであるため、研修医は労働基準法第9条所定の労働者に当たることはないとするのが、最高裁判所判例の趣旨である。>⇒✖

 

 指揮命令があれば、労働者である。


第二章 労働契約

<満60歳以上の労働者との間に締結される労働契約について、労働契約期間の上限は当該労働者が65歳に達するまでとされている。>⇒✖

 

 上限は5年。入ってくる奴が全員60歳であるはずがない。

 

派遣労働者に対する労働条件の明示は、労働者派遣法における労働基準法の適用に関する特例により派遣先の事業のみを派遣中の労働者を使用する事業とみなして適用することとされている労働時間、休憩、休日等については、派遣先の使用者がその義務を負う。>⇒✖

 

 派遣元が全部やる。

 

<明示された労働条件と異なるために労働契約を解除し帰郷する労働者について、労働基準法第15条第3項に基づいて使用者が負担しなければならない旅費は労働者本人の分であって、家族の分は含まれない。>⇒〇

 

 家族も一緒に帰らせてくれる。

 

<使用者は、労働者が業務上の傷病により治療中であっても、休業しないで就労している場合は、労働基準法第19条による解雇制限を受けない。>⇒〇

 

 その通り。

 

<使用者は、労働者が退職から1年後に、使用期間、業務の種類、その事業における地位、賃金又は退職の事由について証明書を請求した場合は、これを交付する義務はない。>⇒✖

 

 時効は2年


第三章 賃金

労働協約の定めによって通貨以外のもので賃金を支払うことが許されるのは、その労働協約の適用を受ける労働者に限られる。>⇒〇

 

 通貨払いの原則を破るには労働協約が必要。

 

<賃金の過払を精算ないし調整するため、後に支払われるべき賃金から控除することは、「その額が多額にわたるものではなく、しかもあらかじめ労働者にそのことを予告している限り、過払のあつた時期と合理的に接着した時期においてされていなくても労働基準法24条1項の規定に違反するものではない。」とするのが、最高裁判所判例である。>⇒✖

 

 合理的に接着していないといけない。要はすぐに済ませろということ。

 

<1か月の賃金支払額(賃金の一部を控除して支払う場合には控除した額。)に100円未満の端数が生じた場合、50円未満の端数を切り捨て、それ以上を100円に切り上げて支払う事務処理方法は、労働基準法第24条違反としては取り扱わないこととされている。>⇒〇

 

 一か月賃金の端数50円切り捨ては許される。また1000円未満の賃金は翌月に繰り越してもよい。

 

労働基準法第25条により労働者が非常時払を請求しうる事由は、労働者本人に係る出産、疾病、災害に限られず、その労働者の収入によって生計を維持する者に係る出産、疾病、災害も含まれる。>⇒〇

 

 本人でなくてもよい。

 

労働基準法第26条に定める休業手当は、同条に係る休業期間中において、労働協約就業規則又は労働契約により休日と定められている日については、支給する義務は生じない。>⇒〇

 

 正しい。

 

第四章 労働時間、休憩、休日及び年次有給休暇

 <1か月単位の変形労働時間制により、毎週日曜を起算日とする1週間について、各週の月曜、火曜、木曜、金曜を所定労働日とし、その所定労働時間をそれぞれ9時間、計36時間としている事業場において、その各所定労働日に9時間を超えて労働時間を延長すれば、その延長した時間は法定労働時間を超えた労働となるが、日曜から金曜までの間において所定どおり労働した後の土曜に6時間の労働をさせた場合は、そのうちの2時間が法定労働時間を超えた労働になる。>⇒〇

 

 まず前段。土日と水曜休みで9時間労働と決めたので、それを超えたら当然時間外。

 そして後段。36時間労働したあとで土曜日に6時間労働させられたら上限40時間なので2時間が時間外になる。

 

<1か月単位の変形労働時間制により、毎週日曜を起算日とする1週間について、各週の月曜、火曜、木曜、金曜を所定労働日とし、その所定労働時間をそれぞれ9時間、計36時間としている事業場において、あらかじめ水曜の休日を前日の火曜に、火曜の労働時間をその水曜に振り替えて9時間の労働をさせたときは、水曜の労働はすべて法定労働時間内の労働になる。>⇒✖

 

 違う。変形時間労働制で9時間働かせてもOKとなっているのは水・土日以外なので、いくら振り替えてもそれは動かせない。だから原則通り8時間を越えたら時間外になる。

 

労働基準法第34条に定める休憩時間は、労働基準監督署長の許可を受けた場合に限り、一斉に与えなくてもよい。>⇒✖

 

 一斉付与の除外は労使協定が必要と、結構厳しい。

 

労働基準法第35条に定める「一回の休日」は、24時間継続して労働義務から解放するものであれば、起算時点は問わないのが原則である。>⇒✖

 

 原則として問う。0時から24時までキッチリ労働から解放しないといけない。

 

労働基準法第36条(以下本問において「本条」という。)に定める時間外及び休日の労働に関して】
<本社、支店及び営業所の全てにおいてその事業場の労働者の過半数で組織する単一の労働組合がある会社において、本社において社長と当該単一労働組合の本部の長とが締結した本条に係る協定書に基づき、支店又は営業所がそれぞれ当該事業場の業務の種類、労働者数、所定労働時間等所要事項のみ記入して、所轄労働基準監督署長に届け出た場合、有効なものとして取り扱うこととされている。>⇒〇

 

 36協定は労働基準法のなかでもメジャーな労使協定であり、重ためです。過半数越えの労働組合か、過半数代表者の同意を取り付けなければなりません。

 本問の場合、ある労働組合が支店A,B,C……どれをとっても過半数の労働者がいるというやりやすい状況のため、単一の労働組合で済んでしまっています。しかしそれでもいいのです。

 

<労働時間等の設定の改善に関する特別措置法第7条により労働時間等設定改善委員会が設置されている事業場においては、その委員の5分の4以上の多数による議決により決議が行われたときは、当該決議を本条に規定する労使協定に代えることができるが、当該決議は、所轄労働基準監督署長への届出は免除されていない。>⇒〇

 

 普通は労使協定なのですが、例外としてなんちゃら委員会がいるとそいつらの決定でいいことになってます。いきなり登場人物が出て来て初学者は最高にいらつくかもしれませんが、なんとなく覚えておきましょう。

 

<1日の所定労働時間が8時間の事業場において、1時間遅刻をした労働者に所定の終業時刻を1時間繰り下げて労働させることは、時間外労働に従事させたことにはならないので、本条に規定する協定がない場合でも、労働基準法32条違反ではない。>⇒〇

 

 だそうです。

 

<坑内労働等の労働時間の延長は、1日について2時間を超えてはならないと規定されているが、休日においては、10時間を超えて休日労働をさせることを禁止する法意であると解されている。>⇒〇

 

 だそうです。じゃあ最初からそう書けやという気もします。

 

<坑内労働その他厚生労働省令で定める健康上特に有害な業務(以下本問において「坑内労働等」という。)の労働時間の延長は、1日について2時間を超えてはならないと規定されているが、坑内労働等とその他の労働が同一の日に行われる場合、例えば、坑内労働等に8時間従事した後にその他の労働に2時間を超えて従事させることは、本条による協定の限度内であっても本条に抵触する。>⇒✖

 

 しません。坑内労働が10時間超えなきゃいいんです。

 

【ここまで】

 

休日労働が、8時間を超え、深夜業に該当しない場合の割増賃金は、休日労働と時間外労働の割増率を合算しなければならない。>⇒✖

 

 休日に時間外はありません。


第五章 安全及び衛生 = 安衛法


第六章 年少者

労働基準法第56条第1項は、「使用者は、児童が満15歳に達するまで、これを使用してはならない。」と定めている。>⇒✖

 

 細かいが、違う。15歳に達する年度の末まで。

 

<使用者は、児童の年齢を証明する戸籍証明書を事業場に備え付けることを条件として、満13歳以上15歳未満の児童を使用することができる。>⇒✖

 

 違う。行政官庁の許可が必要。

 また戸籍証明書は18歳以下全員、働くときには備え付けておかないといけない。

 

労働基準法第56条第2項の規定によって使用する児童の法定労働時間は、修学時間を通算して1週間について40時間、及び修学時間を通算して1日について7時間とされている。>⇒〇

 

 正しい。学校に行くのは子どもの仕事らしい。やっぱりあれは仕事だったのか。


第六章の二 妊産婦等

<使用者は、すべての妊産婦について、時間外労働、休日労働又は深夜業をさせてはならない。>⇒✖

 

 請求しなかった妊産婦は働かせてもよい。

 

<使用者は、生理日の就業が著しく困難な女性が休暇を請求したときは、その者を生理日に就業させてはならないが、請求にあたっては医師の診断書が必要とされている。>⇒✖

 

 診断書はいらない。


第七章 技能者の養成
第八章 災害補償
第九章 就業規則
第十章 寄宿舎
第十一章 監督機関
第十二章 雑則
第十三章 罰則              ← 今回はなし

 

比較認識法(R)で社労士マスター 択一対策編 2020年度

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にんじんと読む「哲学的思考(西研)」🥕

 第五章まで。

 

 

序章 現代思想の〈真理〉批判をめぐって

 〈真理〉、つまり客観的真理(①認識関心以前の客観的な事態の存在、②それは言語で言い現わすことができる)を批判する戦略はいくつかある。

  1.  言語以前・認識関心以前に存在する「客観的現実」なるものには、そもそも私たちは出会うことができない。
  2.  真理というものは、相対的なものである。
  3.  慣習は言語化できない(「言語ゲーム」)
  4.  真理は社会的な実践と正当化にかかわる事柄である。①真偽の判断基準は社会的な規約、②この社会的規約に絶対的な基準などというものはない。

 〈真理〉批判の主張は大きく二つに分割することができる。

  1.  言語以前、認識関心以前にそれ自体として存在するとイメージされるような”客観的事実(客観的真理)”に私たちは出会えない。
  2.  あらゆる真理は、特定の時代や文化に固有な前提のもとで判断される以上、普遍的なものではありえず、根本的にローカルなものである。

 著者はこの二番目に疑問を持つ。果たして「特定の時代や文化に固有な前提のもとで」判断されたら、もう全部がローカルになってしまうのだろうか。それは相対主義に導くのだろうか。

 反例としては、数学や自然科学がさまざまな文化のなかで広く認められているということ、そして「知覚事実の普遍妥当性」である。確かに、虹の色をどう呼ぶのか・どう分けるのかはもちろん文化に依存するし、単なる机でも机のある文化・ない文化があるだろう。しかしそもそもそこに物体があるかないか、形や、色の”感じ”(どう呼ぶかはもちろん異なるだろうが)は、決してローカルなものだとは考えていない。文化によって扱いは異なりこそすれ、無視されたり気づかれていないことがあるとはいえ、少なくともその物体のあるなしは文化に依存するものではないだろう。

 

 知覚することについてもう一度考え直してみよう。知覚することはたとえば、想像することとは違う。想像の物体なら、形を変えたり消してしまったりすることができる。しかし知覚された机は、考えただけで動かせたりはしない。しかも、よく知っていると思っていても、現実の机には「こんなところがいつの間にか汚れてる!」というようなことがある。『つまり知覚された事物は、私の意図や思いこみを超え出てそれ自体としての秩序をもつもの、として経験されるのである』(p.35)

 こうした思い込みを超えた何かを示してくる事物知覚と、そしてその何かについて他人とたいていの場合に合致するということの2つが、「客観的な何か」という信念を維持しているといえる。だから特別、この信念が有害だとかそういうわけではないが、これが自然科学を絶対化したり、これこそが人間の生の意味だと言い出すと、有害になってくる。

 以上をまとめれば、

  •  客観的真理という観念が生じるのには必然性があり、そのようになる機制を理解することが〈真理〉批判の完遂には必要になってくる

 ということである。

 

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

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  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
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第一章 ”学問の基礎づけ”とは何か

〈普遍学〉の構想

 フッサールは生涯、哲学は「厳密な学問」でなくてはならないと主張した(p58)。このような情熱は時代遅れの基礎づけ主義とみなされ、たとえばローティなどによって『神学的』とさえ言われ、古めかしい真理主義だとして葬り去られようとしている。

 フッサールは『デカルト的省察』において哲学者デカルトのモチーフを徹底的に展開すると宣言し、自らの目指す学を「一種の新デカルト主義と呼んでさしつかえないだろう」とさえ言っている。彼がはじめた現象学という哲学はデカルトを徹底することによって生み出されたものなのである。

 デカルトは「哲学を絶対的な基礎づけにもとづく学問にする」ことを目的とした。今の哲学にはあらゆる学問の基礎としての哲学がない。だから彼は「われ思う、ゆえにわれあり」を出発点に据えて、その哲学を打ち立てようとした。フッサールはこのようなデカルトの姿勢、つまり、

 絶対的に疑いえない出発点を定め、そこから出発して諸学を基礎づけようとしたデカルトの姿勢

 を現代によみがえらせようとした。哲学は「あれやこれやの思いつき」などではなく、徹底的に洞察したもの、つきつめたものを受け入れなければならない。デカルトは哲学するための地盤の可能性を本気で追い求めた。フッサールはだから、自分もそこから始めようとする。

 

 ところで先ほども言ったように、基礎づけ主義というのは基本的に時代遅れだとされている。実際、そういう風に言われると誰もがとうていできそうにないと思う。だから、フッサールを理解するには、彼が求めた「基礎づけ」の意味を見直さなければならない。

 デカルト先輩の基礎づけは、まさに想像通りの基礎づけである。絶対に正しいことから出発して、論理的に正しいことを導いていく……。

 しかしフッサールは少し違う。彼の基礎づけは、

 ある学問はどのような「前提」のもとに成り立っているのか、その学問の「領域」ないし「対象」の特質は何か、そこでの諸命題の正当性(ただしさ)は何に由来するか

 を理解することなのである。

 

”学問の理念”と基礎づけ

 フッサールは、学問という営みじたいがそもそも「基礎づけの要求」だという。つまり「絶対的基礎づけと正当化にもとづく普遍的学問」という理念は個々の学問的営みのなかに潜在的にふくまれている―――このフッサールの学問観をまず見てみよう。

 フッサールによれば学問とは、基礎づけによってだれもが信頼し利用できる知識を創り出すことである。たとえば「三角形の内角の和は二直角である」という判断が幾何学的に証明され基礎づけられることによって、誰もが利用できる知識の在庫ができる。私たちは必要ならばいつでも、この基礎づけに戻ってそれが正しいことを確認できることになる。学問的営みの核心をなすものは「基礎づけ」なのである。

 では基礎づけとは?

 基礎づけには二種類ある。間接的なものと、直接的なもの。間接的な基礎づけとは、すでに基礎づけられた諸判断をもとに新たな判断を基礎づける場合である。つまり結局大事なものは直接的な基礎づけなのだが、これはどのようなものだろう。

 たとえば「たしか隣の会議室にはホワイトボードがあったな」と推測する。これを基礎づけるのは、実際に隣の会議室を覗いてみることである。ホワイトボードが実際にあることが、その推測を基礎づける。難しく言えば、「ホワイトボードがあるな」という推測に対して、まさにホワイトボードがあるという事態それ自身が現前している。事態それ自身が現前していることをフッサールは明証という言葉で呼ぶ。あらゆる判断はこうした明証によって充実され、基礎づけられる

 もちろん、明証は覆ることがある。隣の部屋にヘビがいたという判断をせっかく基礎づけたのに、よく見たらロープだったということは容易に考えられるだろう。しかしそれでも、「じっさいに事態そのものを見ている」という感触に従って確かめたということには違いない。間違いはありうるが、少なくともわたしたちがなにかを正しいと思うのは上のような基礎づけのプロセスを踏むのである。

 明証には、見たり触ったりといったような経験的直観と、もうひとつ、本質直観がある。本質直観について考えるには、たとえば幾何学について考えるのがよい。たとえば「三角形の内角の和が二直角」なのは何故だったかな、と思ったとしよう。いろいろ考えていると、とある図が浮かんできて、ああそうだったと納得する。このときもやはり、空虚だった信念が事態そのものの現前によって充実されたといえる。ただ、これは知覚とは違う。

 

 まとめると、

  1.  学問には基礎づけの努力が含まれている
  2.  基礎づけは、判断にその根拠・理由を与えること
  3.  基礎づけは、明証によって判断を充実することによって行われる。
  4.  明証には、経験的直観と本質直観の二種類がある。

 

 学問のめざす「絶対に万人に妥当する真理」とは、批判を拒みうけつけないという意味での「絶対化」された真理であってはならない! むしろ、だれもがそこに参加してみずから洞察することができ、そうしてみるとその明証性にある種の完全性が伴っていてそのただしさを決して疑うことができなくなる、という意味での”絶対性”でなくてはならない。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

  学問は、権威や権力が「真理」を独占する宗教などとは違い、一人一人の洞察・納得を通じて共通な世界像を作り上げる。そのために必要な手続きは、基礎づけである。だれもが判断を明証的に確かめ、納得することができる。それが学問である。

 二つの方法

 デカルトは『省察』において、二つの異なった方法を用いている。

 一つは、意識体験の反省にもとづく方法である。そもそも「われ思う、ゆえにわれあり」という基本命題も、反省することによって導かれた。デカルトの記述を読んだ人も、やはりその是非を自分自身の体験に向かって問うことになる。思いだしつつ、あぁ確かにそうだなと思って、記述に賛成する。

 このような方法は、誰もがあとを追うことができ、場合によってはデカルトの記述を訂正することも可能にするだろう。

 デカルトが開始したこのような作業の意味あいをより一般化してみれば、それは各人が各人の意識のありようをみずから確かめては報告しあうことによって、”意識一般に共通する記述”をつくりあげようとする営み(言語ゲーム)である、ということができるだろう。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

 

 ところでこのような報告のやり取りは、「相手の意識と私の意識に共通な構造がある」という信念・確信を育てる。もちろん他人が自分と同じように感じているかは大きな哲学的問題となる。しかしその確信は私たちがやりとりをするための土台となる非常に基本的な信念の一つであることに違いはない。

 この方法には次の前提が含まれる。すなわち、

 各人がつくりあげる世界像は多様でも、どの意識にも共通な構造――事物知覚や数学的な認識、また善悪や美醜をもつことなど――が存在しているはずである。その構造は自分じしんの意識体験を一つの実例としながら、相互に確かめあっていくことができる

 というものである。

 

 他我の存在や、意識の同型性を前提とするのは哲学的には安易とはいえないだろうか……と思うかもしれない。しかしこの方法において、この前提を有することは問題とはいえない。この方法は、『各人の洞察にもとづく共有』という新たな次元を発生させる。しかも、それによって他我や意識などについてやり取りし合うこともできる。

 また、そもそも他我の存在や意識の同型性という問いは原理的に解答不可能である。誰も他人の意識のなかに入り込むことはできない(入り込めたとしてもそれはもはや自分の意識だから)。むしろ問題とすべきなのは、厳密に証明できないのに何故信じ切っているのか、ということである。何かの存在を客観的に証明するのではなく、何かの存在確信の成立の仕方を問う(デカルトはまだ客観的に証明しようというレベルにあり、そのために「神の存在」を持ち出さなければならなかった)。実際、他我の存在や意識の同型性の確信について、フッサールは詳細に分析を行っている。

 くわえて、これ以外の方法はありえない。たとえば考えたものを読んでもらうときも結局、相手と自分が大体似たようなもんだと思ってそれを公にする。相手が自分とまったく違う世界に生きていたり、そもそもゾンビだったりしたら、文章なんて読んでもらおうとは思わないだろう。

 

 もうひとつの方法は、意識の場を出発点としてその外部を推論していく、というものである。しかしこの「内から外へ」という方法は大きな難問を残してしまった。主観と客観の一致問題である。

 フッサールは意識体験の反省的記述(①)を推し進めていった結果、次の結論に至る。:「真とは、意識の外にそれ自体として存在する客観と”一致”することなどではない。真とはそもそも、意識の内部で生じる確信なのだ」。主観の外に客観的現実が存在すると思っているから、どうしたら一致するだろうと悩んでしまうのである。

  しかしこの解決は、やはり気味悪く感じられるだろう。わたしたちが意識なんかしなくても、客観的なものはわたしたちに関係なく普通にあるように思われるからである。フッサールはそういうものを無視して、客観的現実を否定するのだろうか?

 もちろん、フッサールは否定しない。彼が言いたいのは、そもそもその意識を超越した客観的現実とやらも意識のなかで信じられている、ということである。この確信成立の問いは「超越論的問題」と呼ばれ、フッサール哲学の核心をなす。

 

※この説明だと「結局否定してるじゃねえか」という気分になるかもしれない。しかしたとえば知覚というのは想像と違って自分の思い通りにはならないものだったから、すべてを自分のなかで始末してしまう観念論とは異なることは指摘しておかなければならないと思う。

 

”学問の基礎づけ”とは何を意味するか

 われわれはもはや、フッサールの「絶対的・究極的」な基礎づけが何を意味しているのかを理解することができる。それは、なにかを批判の免れた真理として権威づけることではない。だれもがみずから反省しながらそれを洞察できること(普遍洞察性)と、およそ考え得るあらゆる疑いを根拠なきものとしてあらかじめ排除するような明証(必当然的)であることのふたつが「絶対性」の意味である。

 必当然的については説明が必要だと思う。明証というのはいつも疑いの余地を残すものだったが、たとえば「われ思う、ゆえにわれあり」というものはそういう疑いを徹底的に排除していった結果残ったものである。そういう明証は、ふつう明証に残される疑いの余地をできる限り消すような特別な明証である。それをフッサールは「必当然的な明証」と呼ぶ。

 この「絶対性」は個々人の洞察を禁止したりはしない。

 

 この普遍洞察性と必当然的であることを求める姿勢をフッサールデカルトから学んだが、デカルトは客観的現実を証明しようとしている立場にある。だから、彼のそうした方法は打ち切って、大きく方向転換しなければならない。デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を数学の公理のようなものとして扱い、外部を推論して行こうとした。しかしフッサールはそうしない。

 フッサールにとって意識とは、推論の出発点ではない。意識は、あらゆる対象や世界がその意味を獲得していく場なのである。彼はさまざまなものの意味と、それが存在しているという確信(「存在妥当」)がいかにして成立するのかを問うていく。デカルトのように、外に向かって推論して行こうとはしない。

 

 デカルトの基礎づけは、お墨付きを与えようとすることであり、

 フッサールの基礎づけは、その真理性の意味を理解することである。

 

第二章 〈生〉にとって学問とは何か

人間の全生存に意味はあるか

 学問なんて生きる上でなんの役にも立たない、という敵意のあることをフッサールは感じ取っていた。物理学などの諸学はこれまで多くの成果をあげてきたが、むしろ成果をあげればあげるほど、人間の生の意味を削り取るようなはたらきをすることがある。自分なんてこの宇宙においては取るに足らない、時間的には一瞬で消えてしまう存在であって、しかも物理学的な法則に従って生きている……結局なるようにしかならないし、このことを押し進めると、人間にはそもそも「進歩」なんてものはないんだろう……公正で豊かな社会をめざしてやってきた人間の努力はすべて無駄で、学問なんか別になくってもよかった……という深い絶望である。

 科学には実証がつきものである。それ自体にはなんの問題もないが、「価値判断を切り捨てて客観的にものをみることこそが厳密性なのだよ」とも言いがちである(実証主義)。だから、科学はわたしたちの生きることについては答えられない。その問いを最初から排除してしまっているからだ。真理についても、科学は答えない。実験や資料で答えられないからだ。

 

 現象学は、ありとあらゆる現象を取り扱う。現象学は、価値や規範に関する問いを、だれもが参加し確かめ合うことができるような仕方で、共通のまな板の上に乗せようとする。

 

自然科学の成功と「二元論」のもたらす困難

 真・善・美の問題が切り捨てられていった原因を、フッサールは歴史的に追っていく。実証主義的な学問理解を定着させたのは、まずなにより自然科学の圧倒的な成功にある。自然科学こそが世界の真相を解き明かす、という信頼感は現代でさえごく普通に存在している。

 自然科学は、世界を「数学的な法則の支配する宇宙」とみなすことによって可能となる。この前提をもとに打ち立てられたニュートン力学の体系は、自然界を支配する数学的な法則(運動方程式)によって物理現象を記述した。そしてこれが、「さぁ、どんどん世界の秘密を発見していきましょう」という感覚に火をつけた。世界は法則を有しており、人間はどんどんとその秘密を暴き出していくというストーリーは、こうしたバックグラウンドのもとに築かれていったわけである。

 

 しかしその楽天的な世界観は、物的世界と心的世界の分裂を生み出し、「主観と客観の難問」をはじめとする困難がたちはだかってきた。決定論的な世界観で、この世のすべてはおのずからすべて定まると言っているうちは得意でいられるのだが、そうすると行為の善悪というのもないことになる。また、心という実体のなさそうなものがどうして物的なものと関係を持てるのかという心身問題もある。

※実際、大学で学問をやっている人と話をすると「我が学問こそは」という風に来る。心の問題を結局物理学の問題にすぎないと思っている唯物論者もいる(「思う」というのも物理学の記述に還元できるという)。カルナップという哲学者は本気ですべての学問が物理学におさまると思っていた。そして、「心」の問題は、世界観の把握のために当然ぶつかる課題なのに「心理学者におまかせ」という人もいる。これは学になる以前の問題である。

 

現象学の課題

 自然科学の語る「客観的真理」の、その意味を問わなければならない。

 あらゆる実証科学は、唯一の客観的世界があると世界信念を当然の前提とし、実験によってその理論の客観性を保証できる、とする。

 しかし実験も、一種の知覚に他ならない。物理学においても、知覚された事実における検証が必要とされる。だとすれば、物理学的世界よりも、知覚によって与えられる具体的・日常的世界(「生活世界」)のほうが根源的である。まず生活世界が与えられ、そこに生じる物事を合理的に「説明」するために科学が登場するという順番になっている―――だから「客観的世界がまず存在して、その客観的真理を問う」という客観主義の見方からの転換をしなければならない。

 その転換先のことを、フッサールは「超越論主義」と呼ぶ。これは客観的真理の意味を経験する生に向かって問うことである。あらゆる対象と世界の存在妥当とその意味は生活世界において形成される。物理学的客観的真理とは何かを理解するためには、生活世界からどのようにして物理学が成り立ってくるかを理解することである。そして、「唯一の客観的世界」などという信念がどこから生じて来て、どうして維持されているのかを問うことでもある。

 

 この問いに答えるためにフッサールが用意した方法は「現象学的還元」と呼ばれる。

 

第三章 何のための〈還元〉か(1)——体験への”内圧”

 何のための〈還元〉?

 現象学的還元とは、現象学の方法的核心である。

  1.  わたしたちは自然に現実世界が確かに存在し、事物がそこに属しているということを信じている(世界信念)。世界の存在は日常生活の土台であるし、学問の土台でもあるような、大前提である。
  2.  しかし厳密な学としての哲学を求めるならば、この世界信念を一旦保留しておかなければならないだろう(「エポケー=判断停止」)。私たちはこれによってすべてを失うのだろうか? そうではないとフッサールは言う。
  3.  私たちの手元には「意識」が残る。一切の事物や自然というものは意識体験の経過のなかで意味と存在様相を獲得してくるのである。意識はそのような場であり、世界というものについての判断を保留したとしても、意識は残る。
  4.  そのような意識は、世界の一部というようなものではない。たとえば、その意識には身体がない。身体はあるかどうか疑わしいものとして厳密のためには保留しておかなければならないだろう。このような意識のことを「純粋意識=超越論的主観性」と呼ぶ。

 ……と、このように常識的信念をエポケーすることによって純粋意識の存在を露わにする作業こそが現象学的還元である。では次に問題になるのは、当然「純粋意識」って一体なんなのかということだと思われる。

 上のような、身体を持たない純粋意識の説明は、幽霊のようでかなり気持ち悪く感じられるに違いない。率直に言えば、現象学が極端な独我論だと勘違いされてきたのは当たり前のようにすら思える。しかも残念なことにフッサールの説明が下手でわかりにくかったおかげで余計に誤解が進んでしまった。

 どうしてフッサール現象学的還元をし、その立場に立つべきだと言ったのだろうフッサールに可能性を感じその後ろに続いた人々でさえ、超越論的主観性なんてしろものはキツイと感じていた。だが冒頭に書いたように現象学的還元は現象学のコアに属するものであり、彼が何故そんなことをしたのかを理解しないことには現象学がはじまらない。

 

 彼が現象学というものに対して与えた説明に沿って、純粋心理学というものから見ていこう。彼は現象学というものをブレンターノの記述心理学から出発することで築きあげていったのである。

純粋心理学の立場

 フッサールは、心というものを研究するに際して、自然科学とは違ったアプローチが必要だと考えた。心は大脳生理学などによって解消されるようなものではなく、物的な因果関係によっては説明されないようなものだという観点である。

 フッサールは問う。:

『どういう種類の経験が「心的なもの」を私たちに経験させるのだろうか』

 事柄に向かっているとき、私たちは心というもののことなんて考えていない。ただそこでは事柄だけが意識されている。それなのになぜか私たちは心というものの存在を考える。そうさせるものは一体なんなのだろうか。

 たとえば「あの時私はこんな風に感じたんだよ」と言うことがある。こういうときは、私たちは自分の心的体験をはっきり捉えている。またあるいは、目の前の理不尽な上司に対して怒りを感じる時、その情動を振り払うことができないとき、私たちは心の存在を意識する。

 このように、人が心的なものを意識するのは、自分の体験を見つめ、体験を体験として意識するとき、つまり「反省」というものによってである。反省こそが心的な体験を与えてくれる。そうである以上、フッサールはこの反省というものを見ることによって、心的体験のありかたを探求していくことになるだろう。

 

志向性と総合

 心的体験(=現象)の本質性格は、志向性と呼ばれる。志向性とは、意識はいつも「~について」の意識であるということを意味する。意識というものは単に眼前にあるものを映し出すスクリーンではなく、焦点があり何かに向かっているものだ、と主張しているのだ。*1

 志向性は、「総合」というはたらきをもつ。たとえばあるサイコロを見るときのことを考えよう。ぱっと見ただけでも、たとえばサイコロはすべての面が見えているわけではないし、遠くで見たり近くで見たり角度を変えたりしたらどんどんと見え方(パースペクティブ)が変わっていくだろう。しかしどれだけ変わっても、わたしたちはそのパースペクティブのそれぞれを、同じこのサイコロのいろんな見え方なんだと考える。つまり、どんどんと与えられてくるパースペクティブを、「同じサイコロについての意識」という仕方で総合していっている。

 この総合というはたらきもまた、誤解されてきた。「形や色感覚が与えられてそれを組み立てて対象の像が成立すると言いたいのか?」と思われたのだ。しかし実際には、机の上にある白いものは、最初から「サイコロ」として捉えられている。たとえ裏が見えなくても、あとで4,5,6の目しかないイカサマサイコロだとわかっても、ひとまずはまともなサイコロだろうと予想されることになる。

 このことからわかるのは、きわめて実在的に見えるものでも、それは思い描いたものであり意味的なものだということである。「うん、たしかにサイコロだね」と思っても、裏返したら1の目がなかったりするかもしれない。でもそれをあらかじめ予想してかかっている。私たちが捉えているのは「意味」である。

 フッサールは意識対象を「ノエマ」といい、注意を向けたり価値評価したり等々といった意識作用一般を「ノエシス」という

 たとえばあなたはこの記事を読みながら、「にんじんは何が言いたいんだろう」に焦点を合わせていると思う。この志向のもとで文章が総合されていって、だんだん「にんじんの言いたいこと」がわかってくる。しかしあなたの考えたその「言いたいこと」はあなたの思い描きだから、読み直したら相当イメージが変わるかもしれないし、他人とは読みが異なるかもしれない。

 材料が同じでも、成果物は変わってくるかもしれないというわけだ。志向された「にんじんの言いたいこと」がノエマであり、そこに総合されていく作用がノエシスである。ノエシスノエマは志向性の二つの側面といえる。

 

心理学的‐現象学的還元

 私たちは哲学などしようとは思わず自然的態度をとっているとき、サイコロは客観的に存在していてそれが色んな仕方で目に入って来る、と考えている。わたしたちが知覚する以前にもサイコロは存在しており、それ自体としてしかじかの特徴を備えている、と思っている。

 ショッピングをしていて、人だと思って近づいたらマネキンだった、としよう。これを第三者的に見れば、「それはもともとマネキンだった。でも遠目に見て人だと勘違いしてしまった。近づいてみて、マネキンだと気づいた」ということになる。だが当人からすれば、人だと思って近づいたんだからマネキンだったわけではない。「人だと思って近づいたら、あらかじめしていた予想が裏切られてしまい、その結果としてマネキンの現われとして捉え直されることになった」のだ。

  こうした体験によりそっていくなら、やっぱり自然的態度は一旦忘れなければならない。現象に立ち戻るためには、自然的な判断を中止しなければならない。これは心理学的-現象学的還元と呼ばれる。それが単なる現象学的還元ではないのは、この還元によって得られるのはまた「純粋意識」ではないからである。二つの還元の違いをもっと詳しく知ることは一つ課題として残る

 

 心理学的-現象学的還元を行ったのち、フッサールが次に行おうとすることはやはり、そこに一般的な構造を見出すことである。一般性の取りだしを形相的還元、あるいは本質観取ともいう。

 純粋心理学は「心理学的-現象学的還元」ののち「形相的還元」によって一般性を取りだすことだ。

 

第四章 何のための〈還元〉か(2)——超越論的問題

 純粋心理学はあくまで「心の記述」をする。しかしフッサールが目指したのはあらゆる学問の基礎である。純粋心理学はより深められなければならない。その決定的な歩みこそが、例の超越論的主観性であり、現象学的還元である。

 掘り下げるにあたって、深く関係してくるのが「超越論的問題」と呼ばれるものである。この問題にこたえようとするとき、純粋心理学は超越論的現象学となる。だからともかく、この超越論的問題について考えよう。

 

 謎の提示

 超越論的問題は、自然的態度を変更することによって生じる。

 私たちはふつう、事物が客観的にあることを信じている。しかしその態度を変更することによって、たいていのものは意識のなかで成立してくるものになる。それが「机」であることもそうだし、そうした「机」がたしかにあるという確信も、意識が形成した。……ここにモヤモヤとした感じがある。たしかに意識が作り出したというのもわかる一方で、確かにそこに実在しているということもまた正しいと思われる。

 私たちはいわば二つの世界を生きている。ひとつは私から見える世界である〈実存的世界〉と、もうひとつは確かに存在していると思われる〈客観的世界〉。このどちらが真の世界であるか、ということで観念論vs実在論の対立が生じてくる。フッサールはどちらかに与することはせず、こう問うてみせた。

  •  なぜ二つの世界が相互排他的にあらわれるのか?
  •  この二つの世界はどのようにつながっているのか?
謎の解決と超越論的問題

 フッサールのアプローチは意識からはじまる。客観的世界が意識されようがされまいが存在している、という信念自体が意識のなかで成立するからである。なぜこのような信念が生じてくるのだろう。意識を超越した客観が、意識においていかに確信されるのだろうか? これが超越論的問題と呼ばれる。

 意識を超越してそれ自体として存在している対象を超越物といい、

 そうした超越物の確信を生み出す意識を、超越論的主観性と呼ぶ。

 そして超越物の確信をつくりだす働きを解明しようとするとき、純粋心理学は超越論的現象学へと変わる。純粋心理学における心理学的‐現象学的還元は、いまだに「世界の中に心がある」という考えを残しているが、超越論的問題を考えるときはもっと徹底してエポケーを行わなければならない。世界を含む一切の超越物の確信を成立させる場としての意識を、超越論的主観性と呼ぶわけである。

 

  1.  超越論的主観性において一切の超越物の確信が生まれる
  2.  いかにしてそのような確信が生まれるのかが、超越論的問題と呼ばれる。
  3.  超越論的問題を扱う純粋心理学は超越論的現象学となる。そのとき、心は「世界内部の心」という意味を失う。 

具体的には、超越論的問題とは次の二つの問題として捉えられる。

  1.  客観性の妥当条件・確信条件の問い
  2.  客観性の意味と根拠への問い

 

 

第五章 いかにして〈現実〉は形づくられているか

知覚の特権性は何に由来するか

 客観的現実が存在するという信念がつくりあげられる特別な意識体験は「知覚」である。たとえば「あの教室にマイク設備がある」ということを確かめるのには①記憶②証言③見に行く、ことなどがあるが、結局は知覚に頼っている。「設備があった」ことを確かめるのにはもはや実際に見に行くことはできないが、証言や資料を用いることができる。それを確認するのもやはり知覚である。また、科学理論が客観的現実に一致しているだろうという確信を得るためには実験をするだろうが、実験は知覚によって確認される。

 フッサールが知覚という言葉を用いる時、それは①想起(過去の状態の思い描き)、②予期(未来の状態の思い描き)、③想像(まったくの思い描き)との区別が念頭に置かれている。知覚は現前化(対象を現に与える働き)という働きをもつが、想起・予期・想像という働きとははっきり区別される。もし目の前の机が知覚か想像かという確信が持てなければ、私たちに現実というものは持ちえないだろう。

 そのような区別を、わたしたちはどのような基準で行っているのだろう。

 第一に、知覚には想起や予期などにはない、ありありとした感じがある。この具体的でありありとした感触のことをフッサールは有体性と呼ぶ。

 第二に、想像などの場合には机を消してみることができるが、知覚の場合には消してやることができない。知覚された対象には、動かしがたく向こうから現れてくるという感触がある。人だと思ったらマネキンだったというとき、知覚というものはわたしたちの良きを叩きのめすほどのふてぶてしさを持っているのである。

 第三に、想起や想像の場合には、そもそも実物でないものを思い浮かべているという感触が確かにある。今のは想像だったのか知覚だったのかなどとはほとんど悩むことがない。机を見ているとき、私たちは机という表象を受け取っているなどとは思っていない。まさに、その机を見ている、と思っている。このことを主観客観図式としてみれば、知覚においてはふたつが確かに一致したものとして受け入れられているのである。

 第四に、ここに居合わせている他の人にも同じものが見えているはずだ、という確信が伴っている。もちろん遠視やら乱視やらで見え方は違うだろうが、自分とおなじこのナニカを認めてくれるだろうと思っている。

 

 知覚の特権性をまとめれば、

  1.  現実それ自体がじかに与えられるという感触を伴う
  2.  だれにとっても同じように知覚されうるという信念が伴う

 

 では通常は知覚できない電子や原子などの「仮説」はどのように客観性を持っているのだろうか。このことは別個に議論する必要があるが、ひとまずは、それは二次的に認められているもので知覚が一次的なものだという結論だけ書いておく。

 

知覚が確証されるための条件

 知覚が基盤にあることがわかっても、知覚すれば即ち現実だという確信を得るというわけではない。知覚はひとつのパースペクティブから別の面も含めた「机」を志向し、実際にぐるぐる机を回ってみることで、どんどんと総合していく。たまに予想を裏切って机の裏に「カス!」と落書きされていたりもする。

 別の面も含めた「机」があらかじめ受け取られているが、それは身体をこう動かせばこういう風に見えるだろうという、運動感覚(キネステーゼ)と対象の現われの相関の予想も含まれている。実際に身体を動かしてみてだいたいの予想通りにハイハイと「机」が総合されていくことを、フッサール調和的な経験によって証示されると呼ぶ。逆に机が予想を裏切って来ると対象の確信は大きく訂正されるだろう。知覚の確証のためには、体験の調和的総合という条件が必要なのである。当たり前のように、しばらくの間はうまく行っていても、次の瞬間にはとんでもない裏切りに遭うかもしれないが。

※運動感覚と対象の現われの相関、などなどを生まれたての子どもが知っているとは思えない。子どもはこれを日々自覚的に、無自覚的に学んでいく。

 

知覚の”背景”としての時間的・空間的世界

 調和的な経験が確信を強めることは理解できるが、それじゃあこれだけで十分なのかというとそうではない。たとえば家に帰ったら、そこにパンダがいたとしよう。パンダはばたばたと走って逃げて行ってしまった。

 リアルパンダは普通、居間にはいない。そんなものを見たら心底戸惑うことだろう。このような体験が最終的に現実として妥当するかどうかは、後続する体験がそれに調和して行かなければならない。一緒に居た人が「パンダじゃん……」と言ったり、あとでニュースで「パンダが脱走しました」と見たりすれば、現実になっていくだろう。逆に「パンダなんているわけねえだろ」と言われたり、一緒に居た人さえ「何をびっくりしてるの? パンダ? 私たち二人だけだったじゃん」などと言ったり、ニュースにすらなっていなかったらさすがに夢だと思うだろう。

 このように、単独の経験としていくらパンダがありありと居間で茶をすすっていようが、そもそも自分が抱いてきた「現実」と調和しなければ、その知覚が現実とはみなされない。逆に言えば、どんな知覚体験もその背景として現実に関するイメージをもっており、それによって支えられている、ということになる。もう少し詳しく見よう。

 

 知覚は、時間的な脈絡の理解(記憶)によって支えられている

 目の前に机があると一口にいっても、その机は先週Amazonで購入してクロネコさんが運んで来てくれたものだ。だからこそ、持ち主であるニンジンさんは友達がおらず誰も訪ねてきていなくてもその机を確かなものとして扱っている。それに机を見ているわたしたちは、どこかから、この場所に来た。つまり、どんな知覚体験のさいにも、どのような時間的経過を経て現在の知覚に至ったのか、ということを了解している。そして必要ならそれを呼び出すことができる。

 過去の記憶が現実だったことはどうだろうか。記憶を掘り起こし、一緒にいった人や、何をしていたかを確認するだろう。まったく思いだせないとすれば、現実かどうかは疑わしい。時にはその体験がいつ起こったか、そういうことも考えるに違いない。わたしたちは自分の体験をストーリーにしていて、なにかあれば記憶をもとにそれを確かめ直している。

 さらに、この現実は空間的な秩序としても理解されている

 机は部屋のなかにあり、ワンルームで横には隣人が住んでおり、〇〇町であることもわかっている。このようなことも、現実を支えている。部屋にいて、次の瞬間には職場にいるなんてことがたびたび起こっていたら、現実とは思わないだろう。

 

 以上のことから、客観的な現実においてさまざまな体験をしてきた、というよりも、これまでの体験が首尾一貫してきたからこそ動しがたい現実の秩序があるという確信が形づくられ維持されてきた、とわかってくる。私たちは幼い頃から現実を作り上げて来た。矛盾が見つかれば、それをうまく調和する説明を考えてきたりもした。久しぶりに行った町で、あったはずのレストランがなくなっていたら、瞬時に消えたとは誰も思わない。マズかったから潰れたんだろうとか考える。

 

 私たちは「現実がひとつである」と信じて疑わず、最終的には調和されると確信している(レストランが消えたのにはワケがあるはず)。世界信念は、生を貫くもっとも基本的な地盤なのである。

 もろもろの体験がじっさいに相互に調和する(ツジツマがあう)からこそ、唯一の堅固な現実があるという信念は持続する。また逆に、この信念があるからこそ、私たちはもろもろの体験を調和させようと努力する、と。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

 他我と相互主観的世界

 そして以前からたびたび登場しているが、現実世界を支えているのはみずからの体験だけではない。他人が「パンダがいたよな」と言ってくれたり、「あそこのレストランは潰れたよ」と教えてくれたり、「本日未明、パンダが動物園から逃げ出しました」と報じてくれるのは、他人である。教科書に載っていることももともとは赤の他人が体験したことである。現実は、直接経験の世界を超えて、拡大している。

 こういうことが可能になるのは、「世界信念」ももちろんだが、他者も自分と同じ世界に生きているだろうという「同一世界」信念のおかげである。同一世界なので、他者の言うことはわたしにとっても大きな意味をもってくる。

 

 そうすると他我が問題になってくるが、フッサール式に「わたしたちは他我というものをどう体験しているんだろう」と問うてみる。フッサールはこれに対して、通例通り他我という確信を一旦エポケーし、原初的な状態に戻る。そして最終的に他人にじぶんを投入することで、自分みたいなものとしての他我を得た。しかしフッサール他我論には痛烈な批判が多数寄せられている。

  1.  他人というのは自分の似た動きをする似たモノのことでしょう。それって自分の動きを客観的に、外側から把握してるってことでしょう。しかも似てるってわかるんだから自分の形もわかってるよね。原初的状態に、そんなことがわかるか?
  2.  他者に自分を入れ込んだら、それって他者か?
  3.  そもそも自我の成立は? 自我の成立には他我が絡んでいるのでは?

 フッサール他我論の難点は、他我の意味がまったく存在しないフィクションからはじめたからだと著者は主張する。フッサールはそれを「固有領域」と呼んでいたが、そもそもそんなものはどこにも存在しないし、だれも経験したことがない。私の生はつねに他我と関わって営まれている。*2

 簡単に結論だけ述べれば、

 他我の存在をわたしたちが確信するのは、言葉やふるまいによって示される他者の世界経験がわたしの世界経験と一致するからである。

 しかしこのことは、もう少し議論を深めたほうがいいだろう。他我の議論は現象学におけるメイントピックとして扱われている。

 

 以上まででわかったのは、客観性にはいくつかのレベルがあるということ。

 ひとつは知覚によって与えられるわたしの体験からくる客観世界であり、もうひとつは自他の体験が総合されることによって登場した「それ自体として存在する客観的世界」である。そして第三に、物理学の語る客観世界がある。これらはひとつ下の段階が基盤となって成立している。その意味で、物理学などの学問は二次的、三次的なのだ。

 

*1:もちろん、志向されている何かの背後にももちろん何かがあるし、それが見えていないわけではない。志向されているものと、その背後にあるものには関係があるのだが、ここではこれ以上言わない。ただ、考慮されていることだけ注意しておく。

*2:それを言い出したら世界信念をエポケーするのもフィクションじゃねえのか、という気もする。赤ん坊のときに体験しているからそうでもないんだろうか。でも覚えてないからなぁ

にんじん読書日記

「ぶれない 骨太に、自分を耕す方法」

  •  「底辺」を広げると「高さ」が生まれる。基礎力をつけよ。肝心なときにがんばる力。
  •  「君、そうやって、ただ便利なだけの人間になるなよ」
  •  古典を学び、自然をよく見る・一流に接する・「向こう十年間は絵でお金をとるな」お金を得ることで生まれる隙。砂漠に行ったら砂嵐を浴びよ。
  •  『考えながら書いているようでは、すでに手遅れでダメ。発想の段階でほぼでき上がっていなければ何も描けません。だから、描くときには何も考えず無心な状態です』 つべこべ言わずに最後まで行ってみろ。
  •  『型に入り、型を破る』とらわれず破るための教養。教養は広い視点。

 

ぶれない―骨太に、自分を耕す方法

ぶれない―骨太に、自分を耕す方法

 

 「民間人のための戦場行動マニュアル」

 開戦によってミサイルが飛び、近海を艦隊が取り囲む。上陸されて占領されれば①捕虜にされて収容所に入れられる、②戒厳令が敷かれて自宅軟禁、③悪くて虐殺ということにもなる。戒厳とは憲法で保障された権利が停止し、軍の管理下におかれることである。攻撃される以外にも生活インフラが使用不可能になったり、物資不足になる。それに応じてパニックになり、略奪や強盗などの犯罪が増加する。

 

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※その他戦時下マップの作製・集合場所(ランデブーポイント【三か所】)、ゴーバッグ(持ち出し袋)。

 

 戦争が始まる前にもしかするとテロ攻撃やゲリラ攻撃が起こるかもしれない。攻撃方法を予測することは難しい。爆発物や銃器は攻撃方法として想像がつきやすいが、たとえば飲み水などに化学物質を混入させたり、毒ガスを人口密集地帯に散布することもあり得る。また、自動車も凶器である。車が突然突っ込んできて、停止した後でナイフを持ったゲリラが出て来て人間を刺す(ラミングアタック)。相手は民間人ではなく訓練を受けたプロだから、日本で起きる通り魔事件よりよほど被害が出る。攻撃方法は予測が難しくても場所は分かりやすい。まず人口が密集しているところ、ライフライン、軍事施設などである。

 危険を察知する方法として「ベースライン」がある。つまり、「いつもの風景」である。レレレのおじさんがいたら町が安心だろうとかそういうもので、ベースラインは自分で作ることもできる。財布のなかのお札の向きを揃えたり、スプーンやグラスの置き方を決めておいたりする。

 しかしどうしても遭遇してしまうことはある。このとき「RUN」「HIDE」「FIGHT」の基本原則を守る。まず何よりも逃げること、逃げられないなら隠れること。そして最後は戦う。生活用品などを武器にして、徹底的に抗戦する。ナイフによる攻撃は音が少なく、周囲が異変に気付きにくい。襲撃を受けた際は大声をあげながら、バッグを盾にして身を守る。ただしバッグと自分との距離は近すぎると切られるし、遠すぎると腕を狙われる。手が相手にできるだけ見えないように露出を少なくする。銃を突き付けられたとき、逃げも隠れもできない状況なら抵抗しないほうがよい。殺すのが目的なら既に撃ってきている。強盗や誘拐が目的なら、ともかく命をとられることはない。ゆっくりと動き無抵抗をアピールする。よく洋画で見かける光景だなあ。

 

 

 究極のサバイバルテクニック

 サバイバルでいちばん大切なこと。(1)身を守る、(2)救助を求める、(3)水、(4)食べ物 ———— 極端に暑い寒いでも三時間は死なない、水を飲まなくても三日は死なない、食べなくても三週間は死なない。

 

テクノロジーに守られた人間がそれを失ったときのことを考える。

  • ①火、②食料の保存、③ナビゲーション・エイド、④気象、⑤結び目、⑥健康維持。(総論・一般的技術)
  • 夏山・氷点下・ジャングル・砂漠・海(各論)。

 

究極のサバイバルテクニック

究極のサバイバルテクニック

 

 

にんじんと読む「省察的実践とは何か(ドナルド・A・ショーン)」🥕

第一章 専門的知識に対する信頼の危機

 プロフェッショナル=専門的職業は、主要なビジネス――たとえば戦争・国防・教育・医療・法律・経営・建築・福祉――を担当する、社会にとって必要不可欠なものである。われわれは彼らを尊敬しみずからもそうなりたいと思うが、一方で、彼らが自分の持つ特別な権利を濫用する不祥事を多く見ておりその信頼が揺らいでいる。また、プロフェッショナルは有能であり、一方で恐ろしく無能である……ベトナム戦争、ピッグス湾事件、スリーマイル島原発事故、ニューヨーク市場の株の暴落などなど。

  1.  プロフェッショナルのもつ実効性に対する疑いの増大
  2.  プロフェッショナルが人びとのウェルビーイングに貢献していることを疑おうとする懐疑的な評価。自己の利益・官僚化傾向・ビジネスや政府の利益に服従している。
  3.  専門的知識は、プロフェッショナルであることを信じるに足る要件を満たしているのか? 専門的知識に対する疑問。

 

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

 

第二章 技術的合理性から行為の中の省察

 〈技術的合理性〉のモデルとは、プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する、道具的な問題解決という考え方である。つまり専門的職業の独自性は、「ある理論を前提とする特殊な技能を身につけている」というような。彼らが持っている体系的な知は、(1)基礎学問、(2)応用・工学、(3)技能や態度の三つの要素がある。つまり基礎が応用を産み、応用が技法を生み出し、技法が適用されてサービスが提供される。たとえば司書という専門職について考えよう。ある著者はコミュニケーション理論・社会学・心理学などを基礎としようと提案する。使い方を実地で学びながら、利用者にサービスを提供するわけだ。

 しかし、人々は気づいている。

 司書の仕事の大半はその場限りのマニュアルに基づいたルーティンワークである。たまに選書などの問題を扱うときでさえ経験的なものに頼り、一般的な科学が参照されることなどない。ただ、このように疑問を抱いたとしても、〈技術的合理性〉のモデルは既に制度のなかに埋め込まれており、あなたがもし司書なのだとすると最早あなたはその制度の当事者である。実際、このモデルから導かれる基礎と応用、そして適用の階層構造は育成のカリキュラムに組み込まれている。

 

 技術的合理性は、実証主義の遺産である。技術的合理性は、実証主義の基礎となる実践の認識論である。

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

 ここまで一般的になった技術的合理性であるが、その正当性を問われることはなぜかほとんどなかった。その答えは「実証主義」である。その経緯をたどってみよう。

 科学と技術の成功・産業化の運動によって科学的世界観が支配的になるにつれ、次のような「技術プログラム」という考え方が優勢となってきた。つまり、『人間の進歩は、科学を用いて人類の目的を達成する技術を創造していくことで達成される』。医学は科学に基礎づけられ、健康維持を目的とする技術というイメージをまとい、政治学社会工学の一種となった。

 科学運動・産業主義・技術プログラムが浸透してくると、科学と技術の勝利を説く哲学「実証主義」が登場した。経験科学は世界の知識のための唯一の源泉である! それは迷信やら神秘主義やら、さらには形而上学を追放する。そして科学的知識と技術的コントロールを社会に持ち込む。

 ところで実証主義が確立してくると余計に、実践的な知の置き所がわからなくなってくる。実践をすぐに世界についての知識であるなどとすることはできないし、当然、数学や論理学などではない。この困難に対する解答は、実践を目的ー手段という関係をめぐる知として見ることだった。ひとくちにいえば、実践は道具である。

 エンジニアと医師は道具的実践のわかりやすいモデルとなった。やがて、大学におけるプロフェッショナルスクールができ、研究と実践との分離という分割のひな型が誕生した。

 

 しかしわれわれはもはや、〈技術合理性〉の限界に気が付いている。この観点から見れば、プロフェッショナルの実践は問題解決のプロセスである。つまり定められた目的に対して適切な手段を選び取ることである。しかし解決の側面ばかりを強調することは、設定の問題を無視することなのだ―――つまり、どのような解決がよいか、どんな目的を達成すべきか、選ぶべき手段が何かを決めるプロセスは? 考えてみれば当然だが、そもそも現実において「問題」は所与のものではない。プロフェッショナルがまずなすべき仕事は、『そのままでは意味をなさない不確かな状況に、一定の意味を与え』(p40)ていく、つまり設定である。〈解決〉と〈設定〉!

 〈技術合理性〉のモデルは、〈設定〉を見逃している。なにか目的があって、それに対して何をすべきかは道具的な問いである。しかし目的が混乱していると、まだ解くべき問題自体が存在しない。混乱している状況に問題を〈設定〉するのは、技術的ではないプロセスだ。

 

 ここまでをまとめよう

 〈技術的合理性〉のモデルとは、プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する、道具的な問題解決という考え方である。このモデルは科学運動・産業主義・技術プログラムと、それに伴って現れた実証主義という哲学を起源に持つ。実証主義は「実践」の置き場を、道具に求めたのだった。

 しかし、このモデルは解決に重きを置くあまり、設定を軽んじる。問題の設定とは、注意を向ける事項に名前をつけ、注意を払おうとする状況に枠組みを与える相互的なプロセスである。言い換えれば、複雑な状況のなかから取り扱えるものを選び取り、注意を向ける範囲を定め、どういう進路を行くかなどを言えるようにする。設定された問題は手元の科学や技術では取り扱えないものもふつうは含まれる。

 

 

 そもそも、わたしたちの日常的な行為は手持ちのなにかを適用するようなものではない。たとえば関係性に応じてとる相手との距離を、わたしたちはそのつど計算しておこなっているわけではない。わたしたちはそのつど、大抵の場合うまくやるが、自分が何をしているのかを説明できないことのほうがおおい。『私たちの知の形成は、行為のパターンや取り扱う素材に対する触感の中に、暗黙のうちにそれとなく存在している。私たちの知の形成はまさに、行為の〈中(in)〉にあると言ってよい』。

 そして一方、わたしたちはうまく言葉にできない技能について、振り返ることができる。暗黙のままではなく、表に出して再設定し直す。これは「行為の中の省察と呼べるプロセスである。

  •  意識しないままに実施の仕方がわかるような行為、認知、判断がある。私たちは自分の行為に先だって、あるいは行為の最中にその行為、認知、判断について考える必要はない。
  •  私たちは、こうした行為、認知、判断を学んでいるのに気づかないことが多い。私たちはただ、そうしたことをおこなっているという事実に気づくだけなのである。
  •  行為の本質(staff)に対する自分たちの感覚の中には、あとから(subsequently)取り入れられることになる了解事項について、あらかじめ気づいていた場合もあるだろう。また、これまでまったく気づかなかったという場合もあるだろう。どちらの場合でも、私たちの行為が指し示すちの生成を記述することは、通常はできない。

 

 

労働基準法まとめ【社会保険労務士】平成30年度

第一章 総則

労働基準法第1条にいう「人たるに値する生活」には、労働者の標準家族の生活をも含めて考えることとされているが、この「標準家族」の範囲は、社会の一般通念にかかわらず、「配偶者、子、父母、孫及び祖父母のうち、当該労働者によって生計を維持しているもの」とされている。>⇒✖

 社会通念に従う。

 通達:法第1条は、労働条件に関する基本原則を明らかにしたものであって、標準家族の範囲は、その時その社会の一般通念によって理解されるべきものである。

 

労働基準法第3条にいう「賃金、労働時間その他の労働条件」について、解雇の意思表示そのものは労働条件とはいえないため、労働協約就業規則等で解雇の理由が規定されていても、「労働条件」にはあたらない。>⇒✖

 

 あたる。

 第3条:使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない。

 通達:「その他の労働条件」には、解雇、災害補償、安全衛生、寄宿舎等に関する条件も含む趣旨である。

 

労働基準法第4条の禁止する賃金についての差別的取扱いとは、女性労働者の賃金を男性労働者と比較して不利に取り扱う場合だけでなく、有利に取り扱う場合も含まれる。>⇒〇

 

 男女同一賃金の原則は、女性を優遇しろという意味ではない。

 第4条:使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取扱いをしてはならない。

 

<いわゆるインターンシップにおける学生については、インターンシップにおいての実習が、見学や体験的なものであり使用者から業務に係る指揮命令を受けていると解されないなど使用従属関係が認められない場合でも、不測の事態における学生の生命、身体等の安全を確保する限りにおいて、労働基準法第9条に規定される労働者に該当するとされている。>⇒✖

 

 労働者性は「指揮命令」「使用従属関係」が肝心。

 第9条:この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。

 

<いわゆるストック・オプション制度では、権利付与を受けた労働者が権利行使を行うか否か、また、権利行使するとした場合において、その時期や株式売却時期をいつにするかを労働者が決定するものとしていることから、この制度から得られる利益は、それが発生する時期及び額ともに労働者の判断に委ねられているため、労働の対償ではなく、労働基準法第11条の賃金には当たらない。>⇒〇

 

 「ストック・オプション」とは、株式会社の経営者や従業員が自社株を一定の行使価格で購入できる権利のことである(ストックオプション - Wikipedia)。要するに自分のところの株を自分のところの従業員に内部売りする。そして時価が上がったところで売りさばけば、その分儲かって、たとえば退職金がわりになる。内部なので、時価500円のところ300円で売ってくれたりするため、利益が出やすい場合がある。

 で、その利益は賃金なのかというのがこの問題です。

 

 ここで得た利益は「労働の対償」ではありません。

 第11条:この法律で賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう。

 

 第二章 労働契約

労働基準法第14条第1項第2号に基づく、満60歳以上の労働者との間に締結される労働契約(期間の定めがあり、かつ、一定の事業の完了に必要な期間を定めるものではない労働契約)について、同条に定める契約期間に違反した場合、同法第13条の規定を適用し、当該労働契約の期間は3年となる。>⇒✖

 

 60オーバーとの有期契約は5年以内。

 

債務不履行によって使用者が損害を被った場合、現実に生じた損害について賠償を請求する旨を労働契約の締結に当たり約定することは、労働基準法第16条により禁止されている。>⇒✖

 

 賠償請求すると約束してもいいが、金額を決めてはならない。

 

<使用者は、税金の滞納処分を受け事業廃止に至った場合には、「やむを得ない事由のために事業の継続が不可能となつた場合」として、労働基準法第65条の規定によって休業する産前産後の女性労働者であっても解雇することができる。>⇒✖

 

 解雇制限を破るには①金を払う(打切補償)、②やむを得ない、のどちらか。

 ただし、税金の滞納処分はやむを得ない事情ではない。

 

労働基準法第20条第1項の解雇予告手当は、同法第23条に定める、労働者の退職の際、その請求に応じて7日以内に支払うべき労働者の権利に属する金品にはあたらない。>⇒〇

 

 第23条によれば、契約を終えておさらばする際には7日以内に金品などを返してスッキリしなければならない。しかし、解雇予告手当は、解雇の申し渡しと同時に支払うべきものである。

 

労働基準法第20条に定める解雇予告手当は、解雇の意思表示に際して支払わなければ解雇の効力を生じないものと解されており、一般には解雇予告手当については時効の問題は生じないとされている。>⇒〇

 

申し渡しと同時に払うべきはずのもので、時効がどうとかはない。

 

労働基準法第22条第4項は、「使用者は、あらかじめ第三者と謀り、労働者の就業を妨げることを目的として、労働者の国籍、信条、社会的身分若しくは労働組合運動に関する通信」をしてはならないと定めているが、禁じられている通信の内容として掲げられている事項は、例示列挙であり、これ以外の事項でも当該労働者の就業を妨害する事項は禁止される。>⇒✖

 

例示列挙ではなく、制限列挙。国籍、信条、社会的身分、労働組合運動。

 

 <労働基準法では、使用者は、労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり療養のために休業する期間及びその後30日間は、解雇してはならないと規定しているが、解雇予告期間中に業務上負傷し又は疾病にかかりその療養のために休業した場合には、この解雇制限はかからないものと解されている。>⇒〇

 

 かかる。カウントが残り15日!となったとしても、休業したらそこでカウントはストップする。

 

第3章 賃金

<派遣先の使用者が、派遣中の労働者本人に対して、派遣元の使用者からの賃金を手渡すことだけであれば、労働基準法第24条第1項のいわゆる賃金直接払の原則に違反しない。>⇒〇

 

 正しい。

 

<使用者が労働者の同意を得て労働者の退職金債権に対してする相殺は、当該同意が「労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは」、労働基準法第24条第1項のいわゆる賃金全額払の原則に違反するものとはいえないとするのが、最高裁判所判例である。>⇒〇

 

 正しい。一方的な相殺は禁じられるが、合意があればよい。

 

ストライキの場合における家族手当の削減が就業規則(賃金規則)や社員賃金規則細部取扱の規定に定められ異議なく行われてきている場合に、「ストライキ期間中の賃金削減の対象となる部分の存否及びその部分と賃金削減の対象とならない部分の区別は、当該労働協約等の定め又は労働慣行の趣旨に照らし個別的に判断するのを相当」とし、家族手当の削減が労働慣行として成立していると判断できる以上、当該家族手当の削減は違法ではないとするのが、最高裁判所判例である。>⇒〇

 

 ストライキされたら家族手当を減らしてもいいらしい。

 

労働基準法では、年俸制をとる労働者についても、賃金は、毎月一回以上、一定の期日を定めて支払わなければならないが、各月の支払いを一定額とする(各月で等分して支払う)ことは求められていない。>⇒〇

 

 正しい。年棒一億円です! と言っていても毎月数千万円もらっているわけではない。

 

労働安全衛生法第66条による健康診断の結果、私傷病のため医師の証明に基づいて使用者が労働者に休業を命じた場合、使用者は、休業期間中当該労働者に、その平均賃金の100分の60以上の手当を支払わなければならない。>⇒✖

 

 健康診断で体が悪そうなので休ませるのは、使用者の責任ではない。

 

 

 

第4章 労働時間、休憩、休日及び年次有給休暇

 <常時10人以上の労働者を使用する使用者が労働基準法32条の3に定めるいわゆるフレックスタイム制により労働者を労働させる場合は、就業規則により、その労働者に係る始業及び終業の時刻をその労働者の決定に委ねることとしておかなければならない。>⇒〇

 

 正しい。就業規則だけでなく労使協定もいるので注意。

 

<いわゆる一年単位の変形労働時間制においては、その労働日について、例えば7月から9月を対象期間の最初の期間とした場合において、この間の総休日数を40日と定めた上で、30日の休日はあらかじめ特定するが、残る10日については、「7月から9月までの間に労働者の指定する10日間について休日を与える。」として特定しないことは認められていない。>⇒〇

 

 認められない。バシッときめろ。

 

<いわゆる一年単位の変形労働時間制においては、隔日勤務のタクシー運転者等暫定措置の対象とされているものを除き、1日の労働時間の限度は10時間、1週間の労働時間の限度は54時間とされている。>⇒✖

 

 54時間ではなく52時間。細かい問題で、非常にめんどうくさい。

 

 <労働基準法32条第1項は、「使用者は、労働者に、休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。」と定めているが、ここにいう1週間は、例えば、日曜から土曜までと限定されたものではなく、何曜から始まる1週間とするかについては、就業規則等で別に定めることが認められている。>⇒〇

 

 正しい。『一週間とは、就業規則その他に別段の定めがない限り、日曜日から土曜日までのいわゆる暦週をいう』である。

 

貨物自動車に運転手が二人乗り込んで交替で運転に当たる場合において、運転しない者については、助手席において仮眠している間は労働時間としないことが認められている。>⇒✖

 

 認められない。使用者の拘束を受けている。

 

<常時10人未満の労働者を使用する小売業では、1週間の労働時間を44時間とする労働時間の特例が認められているが、事業場規模を決める場合の労働者数を算定するに当たっては、例えば週に2日勤務する労働者であっても、継続的に当該事業場で労働している者はその数に入るとされている。>⇒〇

 

 正しい。いつものあいつなら数に入る。

 

労働基準法32条の3に定めるいわゆるフレックスタイム制において、実際に労働した時間が清算期間における総労働時間として定められた時間に比べて過剰であった場合、総労働時間として定められた時間分はその期間の賃金支払日に支払い、総労働時間を超えて労働した時間分は次の清算期間中の総労働時間の一部に充当してもよい。>⇒✖

 

 駄目。ちゃんとその月で清算しなさい。

 ちなみにH31の法改正で、清算期間は一月未満だったのが、三月未満になったので注意が必要

 

 

 次にこのような問題設定をする。

労働基準法第35条に定めるいわゆる法定休日を日曜とし、月曜から土曜までを労働日として、休日及び労働時間が次のように定められている製造業の事業場における、労働に関する時間外及び休日の割増賃金に関する記述に関して。
日 月 火 水 木 金 土
休 6 6 6 6 6 6
労働日における労働時間は全て
始業時刻:午前10時、終業時刻:午後5時、休憩:午後1時から1時間】

 

<日曜に10時間の労働があると、休日割増賃金の対象になるのは8時間で、8時間を超えた2時間は休日労働に加えて時間外労働も行われたことになるので、割増賃金は、休日労働に対する割増率に時間外労働に対する割増率を加算する必要がある。>⇒✖

 

 休日に時間外労働はない。

 

<月曜の時間外労働が火曜の午前3時まで及んだ場合、火曜の午前3時までの労働は、月曜の勤務における1日の労働として取り扱われる。>⇒〇

 

 正しい。千切られたりはしない。

 

<日曜から水曜までは所定どおりの勤務であったが、木曜から土曜までの3日間の勤務が延長されてそれぞれ10時間ずつ労働したために当該1週間の労働時間が48時間になった場合、土曜における10時間労働の内8時間が割増賃金支払い義務の対象労働になる。>⇒✖

 

 法定労働時間には一日と一週間で限度がある。

 一日:木・金・土の2時間(8時間を超える分)。

 一週間:週40時間を超えた8時間分について、6時間分の割増は上で行ったので、土曜日の2時間が割増される。

 

<日曜の午後8時から月曜の午前3時まで勤務した場合、その間の労働は全てが休日割増賃金対象の労働になる。>⇒✖

 

 休日労働は午後12時まで。

 

<土曜の時間外労働が日曜の午前3時まで及んだ場合、日曜の午前3時までの労働に対する割増賃金は、土曜の勤務における時間外労働時間として計算される。>⇒✖

 

 違う。日曜に入ったら休日労働となる。

 

 

 

第6章 年少者

<使用者は、労働基準法第56条第1項に定める最低年齢を満たした者であっても、満18歳に満たない者には、労働基準法第36条の協定によって時間外労働を行わせることはできないが、同法第33条の定めに従い、災害等による臨時の必要がある場合に時間外労働を行わせることは禁止されていない。>⇒〇

 

 されていない。次のものが禁止されている。

・ 1か月単位の変形労働時間制(法32条の2)
フレックスタイム制(法32条の3)
・ 1年単位の変形労働時間制(法32条の4)
・ 1週間単位の非定型的変形労働時間制(法32条の5)
・ 36協定による時間外・休日労働(法36条)
・ 労働時間及び休憩の特例(法40条)
・ 特定高度専門業務・成果型労働制(法41条の2)←H31法改正