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にんじんと読む「省察的実践とは何か(ドナルド・A・ショーン)」🥕

第一章 専門的知識に対する信頼の危機

 プロフェッショナル=専門的職業は、主要なビジネス――たとえば戦争・国防・教育・医療・法律・経営・建築・福祉――を担当する、社会にとって必要不可欠なものである。われわれは彼らを尊敬しみずからもそうなりたいと思うが、一方で、彼らが自分の持つ特別な権利を濫用する不祥事を多く見ておりその信頼が揺らいでいる。また、プロフェッショナルは有能であり、一方で恐ろしく無能である……ベトナム戦争、ピッグス湾事件、スリーマイル島原発事故、ニューヨーク市場の株の暴落などなど。

  1.  プロフェッショナルのもつ実効性に対する疑いの増大
  2.  プロフェッショナルが人びとのウェルビーイングに貢献していることを疑おうとする懐疑的な評価。自己の利益・官僚化傾向・ビジネスや政府の利益に服従している。
  3.  専門的知識は、プロフェッショナルであることを信じるに足る要件を満たしているのか? 専門的知識に対する疑問。

 

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

 

第二章 技術的合理性から行為の中の省察

 〈技術的合理性〉のモデルとは、プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する、道具的な問題解決という考え方である。つまり専門的職業の独自性は、「ある理論を前提とする特殊な技能を身につけている」というような。彼らが持っている体系的な知は、(1)基礎学問、(2)応用・工学、(3)技能や態度の三つの要素がある。つまり基礎が応用を産み、応用が技法を生み出し、技法が適用されてサービスが提供される。たとえば司書という専門職について考えよう。ある著者はコミュニケーション理論・社会学・心理学などを基礎としようと提案する。使い方を実地で学びながら、利用者にサービスを提供するわけだ。

 しかし、人々は気づいている。

 司書の仕事の大半はその場限りのマニュアルに基づいたルーティンワークである。たまに選書などの問題を扱うときでさえ経験的なものに頼り、一般的な科学が参照されることなどない。ただ、このように疑問を抱いたとしても、〈技術的合理性〉のモデルは既に制度のなかに埋め込まれており、あなたがもし司書なのだとすると最早あなたはその制度の当事者である。実際、このモデルから導かれる基礎と応用、そして適用の階層構造は育成のカリキュラムに組み込まれている。

 

 技術的合理性は、実証主義の遺産である。技術的合理性は、実証主義の基礎となる実践の認識論である。

省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考

 

 ここまで一般的になった技術的合理性であるが、その正当性を問われることはなぜかほとんどなかった。その答えは「実証主義」である。その経緯をたどってみよう。

 科学と技術の成功・産業化の運動によって科学的世界観が支配的になるにつれ、次のような「技術プログラム」という考え方が優勢となってきた。つまり、『人間の進歩は、科学を用いて人類の目的を達成する技術を創造していくことで達成される』。医学は科学に基礎づけられ、健康維持を目的とする技術というイメージをまとい、政治学社会工学の一種となった。

 科学運動・産業主義・技術プログラムが浸透してくると、科学と技術の勝利を説く哲学「実証主義」が登場した。経験科学は世界の知識のための唯一の源泉である! それは迷信やら神秘主義やら、さらには形而上学を追放する。そして科学的知識と技術的コントロールを社会に持ち込む。

 ところで実証主義が確立してくると余計に、実践的な知の置き所がわからなくなってくる。実践をすぐに世界についての知識であるなどとすることはできないし、当然、数学や論理学などではない。この困難に対する解答は、実践を目的ー手段という関係をめぐる知として見ることだった。ひとくちにいえば、実践は道具である。

 エンジニアと医師は道具的実践のわかりやすいモデルとなった。やがて、大学におけるプロフェッショナルスクールができ、研究と実践との分離という分割のひな型が誕生した。

 

 しかしわれわれはもはや、〈技術合理性〉の限界に気が付いている。この観点から見れば、プロフェッショナルの実践は問題解決のプロセスである。つまり定められた目的に対して適切な手段を選び取ることである。しかし解決の側面ばかりを強調することは、設定の問題を無視することなのだ―――つまり、どのような解決がよいか、どんな目的を達成すべきか、選ぶべき手段が何かを決めるプロセスは? 考えてみれば当然だが、そもそも現実において「問題」は所与のものではない。プロフェッショナルがまずなすべき仕事は、『そのままでは意味をなさない不確かな状況に、一定の意味を与え』(p40)ていく、つまり設定である。〈解決〉と〈設定〉!

 〈技術合理性〉のモデルは、〈設定〉を見逃している。なにか目的があって、それに対して何をすべきかは道具的な問いである。しかし目的が混乱していると、まだ解くべき問題自体が存在しない。混乱している状況に問題を〈設定〉するのは、技術的ではないプロセスだ。

 

 ここまでをまとめよう

 〈技術的合理性〉のモデルとは、プロフェッショナルの活動を成り立たせているのは、科学の理論や技術を厳密に適用する、道具的な問題解決という考え方である。このモデルは科学運動・産業主義・技術プログラムと、それに伴って現れた実証主義という哲学を起源に持つ。実証主義は「実践」の置き場を、道具に求めたのだった。

 しかし、このモデルは解決に重きを置くあまり、設定を軽んじる。問題の設定とは、注意を向ける事項に名前をつけ、注意を払おうとする状況に枠組みを与える相互的なプロセスである。言い換えれば、複雑な状況のなかから取り扱えるものを選び取り、注意を向ける範囲を定め、どういう進路を行くかなどを言えるようにする。設定された問題は手元の科学や技術では取り扱えないものもふつうは含まれる。

 

 

 そもそも、わたしたちの日常的な行為は手持ちのなにかを適用するようなものではない。たとえば関係性に応じてとる相手との距離を、わたしたちはそのつど計算しておこなっているわけではない。わたしたちはそのつど、大抵の場合うまくやるが、自分が何をしているのかを説明できないことのほうがおおい。『私たちの知の形成は、行為のパターンや取り扱う素材に対する触感の中に、暗黙のうちにそれとなく存在している。私たちの知の形成はまさに、行為の〈中(in)〉にあると言ってよい』。

 そして一方、わたしたちはうまく言葉にできない技能について、振り返ることができる。暗黙のままではなく、表に出して再設定し直す。これは「行為の中の省察と呼べるプロセスである。

  •  意識しないままに実施の仕方がわかるような行為、認知、判断がある。私たちは自分の行為に先だって、あるいは行為の最中にその行為、認知、判断について考える必要はない。
  •  私たちは、こうした行為、認知、判断を学んでいるのに気づかないことが多い。私たちはただ、そうしたことをおこなっているという事実に気づくだけなのである。
  •  行為の本質(staff)に対する自分たちの感覚の中には、あとから(subsequently)取り入れられることになる了解事項について、あらかじめ気づいていた場合もあるだろう。また、これまでまったく気づかなかったという場合もあるだろう。どちらの場合でも、私たちの行為が指し示すちの生成を記述することは、通常はできない。