にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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生命ところどころ

 ビッグバンが起きたことはほぼ間違いないと言われているとはいえ、門外漢からすると「へぇ」の域を出ないのもこっちからすると確かなことである。だがともかく何かが原因で始まらねばならぬ、もしこの世界が永遠にこの形であるのでなければ。まぁ永遠にはありそうにないのでビッグバンにご登場いただき、物体の部品を生成していただくことにしよう。重力などのいわゆる4つの力が混合して区別できないほどの超高エネルギー状態であったプランク時代を過ぎ、重力が生じ、強い力が生じ、電子が生じ、クォークハドロンとなり、38万年後ぐらいに水素原子が爆誕、30億年後に銀河ができ、90億年後に太陽と地球、んで100億年後にわれら生命が生まれ来たる……という経過を経て、まぁなんちゃらかんちゃらあって現在に至る。ちなみに今はビッグバンアタックから137億年後の世界です。

 ところで倫理的な事情から菜食主義となった人々が百万回言われているであろうことは、「野菜も生きてますが?w」だと思われる。厭世にんじんというハンドルネームでやらせてもらっているだけあってこの反発は実にありがたいのだが、とはいえ、直感的に申し上げると、野菜は動物ほどには生きていないのではないかと考えるのもまた自然なことではないだろうか。いや、生きてるんですよ多分野菜もね。でも動物ほどじゃないよね。たとえばぶんぶん飛んでる蚊に対して、イヌほどの「生きてる感」は感じないでしょう。これに同意いただいたとしても、主観と客観の差を持ち出されて、つまり、感じるのと実際そうかは関係ないでしょみたいなお説教を食らう。そんなこと言い出したらキーボードだって生きてるかもしれないわけでボンボコ叩くのはどうなんだという話になるのだが、つまりそれが彼らの論理で、「そう、だから何を食べてもいいってわけだ」に行きつく。いや、しかしここに至って、「本気で言ってる?」と自己反省してほしいほど自らも極端な立場にあることを自覚してほしい。ちなみににんじんとしては、肉を食うなとまではいわないが少なくとも今ほどガツガツ消費しなくてもいいのではないかと思っている。さらにちなみにだが、劣悪な環境で飼育されるペットたちより、良い環境で飼育される牛たちのほうがマシなのではないかという意見もある。

 私たちは「生きている」というのを実感として程度問題であると考えている。

 アパートの隣の部屋でガタガタやってる住人は今まさに生きているのだろうし、病院で死にかかっている人も当然生きている。では認知症になってまるきり別人になりまったく何も覚えていないような人はどうだろう。赤ん坊は? 生命のステージとして、人間はヒト以外の動物たちを下位に置く。その下位区分のなかにも階級があって、イヌやネコは微妙だが、ハエはだいぶ下のほうにいるだろう。ハエたちも一定の知性を持ってはいるのものの、まさか人間よりも賢く、文明の発達した地下帝国を建設していると思っているひとはいないだろう。イルカはとても賢い動物だが、過大評価することはできない。そして動物たちの下位に植物たちがいる。

 ベジタリアンの人々はここにラインを引いている。一方、何を食ってもいいという人々は「人間」と「動物」のところでラインを引いている。もちろん線引きは微妙であって、細かい条件はあるだろう。アマゾンの奥地にいるしかじかという植物は引っこ抜くときに叫ぶので殺してはいけないとかね。ともかくどこかしらラインを引いて、だいたい似たような範囲に居る人を「〇〇主義」とかいったりする。夏目漱石が『イズムの功禍』でいったように、イムズなんて色んなありかたを詰め込んだ引き出しに過ぎない。

 これらの序列は人間をトップにしていて、また生きていることの基準を「知性」といったようなものに置いている。そこでは概念プールが重視され、言語というマジカルアイテムを持っている人間は概念を無限に増やせるために『最強生物』の地位にいる。ヒト以外の動物たちも言語以前の原始的な直感を持ってはいるが、人間には到底かなわない。知性に依拠する限り、この階層構造からは絶対に逃れられない。『けものフレンズ』では、動物たちごとにいろいろな特性があり、みんな「すっごーい!」ことになっていた。瞬発力では人間は「すっごくない」ので、哀れ、かばんちゃんはすぐにサーバルちゃんに押し倒されてしまった。本当のところは「みんな違ってみんないい」はずなのだが、ライン決めは明らかに知性を主として行われている。

 

 

 

悟りとはなにか

 人間はひじょうに考えごとをする。考えるのは一見簡単だから、使い方を間違えてしまう。そこから哲学的問題が生じ、あるいは、死の恐怖が生じる。それで宗教をやる、考えなくてラクだから、運命はみんな神様にお任せ。あるいは考えるのをすっかりやめてしまう。その方策が座禅。お経を読むのも意味がわからないからいい。考えなくて済む。だから別にお経でなくたって「ウオウオウオ」でもいい。でもお経はいい感じに意味不明で、調べようと思えば中身が出てくるのがいい。それに委ねられるから。

悟りというのは「ああ、このままでよかったんだわ」と心から合点することです。仏法とは、ああ、このままでよかったんだと、それに気がつくということです。(略)また、こういう説明もできるかもしれない。日本海の塩水というのは、どんな味がするかと疑問を持って、ここに塩水を持ってきて、なめてみる。それで、ははあ、この味に違いないと思う。ところが、一度ね、この辺だったら、若狭湾のほうへ行って一度なめてみるとね、もう海の水はこういう味がするんだ、しょっぱいんだと分かる。それからは、「これに違いない」という「違いない」が消えちゃう。そうでしょ。もう二度と、海の水はどのような塩味だろうかという疑念がなくなるからね。悟りとは、それと同じなんです。

死と輪廻―仏教から死を見つめ直す― (別冊サンガジャパンVol.4)

 

 うーん、いいね と思ったので、ちょっと紹介しておきます。

 はしごはのぼりきったら投げ捨ててもいいってことだ。

 

 

にんじんと読む「動物が幸せを感じるとき(テンプル・グランディン)」🥕

動物の幸せ

 動物をただ単に生かす方法なら、つまり死なせない方法ならいくらでもあるだろうが、生き残れば幸せだろうと考えるのはどうかしている。このことは人間に当てはめても明らかなことだ。この件に関わって、イギリスの科学者による家畜福祉の諮問委員会ブランベル委員会が「動物のもつべき権利」を五つあげた。

  1.  飢えや渇きにさらされない権利
  2.  不快な環境におかれない権利
  3.  痛み、怪我、病気の苦しみにさらされない権利
  4.  自然な行動をする権利
  5.  恐怖や苦悩にさらされない権利

 たしかにそんな感じがするが、「自然な行動をする」というあたりからちょっと考えなければならないことがある。たとえばイヌにとって一日に何キロもうろつきまわるのは自然なことだ。できればそうさせてやりたいところだが、あらゆる動物が自由に市街地を動き回るのはお互いにとってたいへん危険である。そうすると自然、代わりの行動を考えてやらなければならないことになる。あるいは、そもそも自然な行動というのがなにかわからない場合がある。生殖は自然なことだが、ところが、動物園にいる動物たちのなかには生殖が出来ないものがいる。与えた環境のどこかが間違っているのだ。たとえば、その件で長年動物園の悩みの種だったチータだが、1994年、オスとメスを一緒にさせていたのが逆にまずかったのだと判明したことがある。

 アレチネズミは穴掘りが好きそうに見えるし、実際、野生のアレチネズミも穴を掘っている。というわけで彼らに存分に穴を掘っていただくため、掘りまくれる砂がたっぷりある場所に案内してみる。すると彼らはどんどん掘り始める。ずっと、ずっと掘っている。活動時間の三割は掘っている。ところが残念なことに、野生のアレチネズミならこんなことは絶対にしない。実はこれは変化のない、無意味で異常な反復行動・常同行動の一つなのだ―――今度はアレチネズミ氏を、巣が出来上がっている代わりに掘ることのできない場所へ案内してみる。彼らは掘ることはもちろんしないし、その他の異常行動をとらなくなった。彼らに必要だったのは「掘る」ことではなく、「安全」だったのである。

 動物たちが、ほんとうは、なにを必要としているのかを知らなければならない。

【にんじんまとめ】

 なるべくなら動物たちに自然なふるまいをさせてやるのが一番だ。だがそうするなら彼らがそれを行なえる環境を整えなければならないし、もし色々な理由で自然なふるまいが不可能ならべつの方法を考えなければならない。

 そもそも「自然なふるまい」が良いと考えられるのは、そのふるまいが彼らの基礎となる情動システムを満足させるように、彼ら自身が進化してきたからだ。根本的には、このシステムに対する理解も欠かせない。

 ワシントン州立大学神経科学者・パンクセップ博士は「システム」をいくつか挙げている。そのシステムは脳の部位と対応していて、その部位を電気的に刺激するとそのような行動を発現する。

  1.  「探索」 
  2.  「怒り」 捕食者につかまって身動きができなくなった経験から進化した情動で、敵につかまった動物に爆発的なエネルギーを与える。欲求不満はこの穏やかな形態。
  3.  「恐怖」
  4.  「パニック」 社会的なものに関連して使われることば。
  5.  「欲情」
  6.  「保護」
  7.  「遊び」

 「探索」とは、「自分の身のまわりを探検し、調べ、理解したいという基本的な衝動」である。いいものを手に入れようとして調べたり、身を守るところを探したり、安全かどうか確かめたりする。奇妙な物音が聞こえそちらに振り向く、そしてどうしようか決める。探索システムはそこから数多くのシステムが発現していく出発点なんだと博士は述べている。

 「怒り」は、捕食者につかまって身動きができなくなった経験から進化したシステムで、敵につかまった動物に爆発的なエネルギーを与える。欲求不満はこの穏やかな形態。たとえば動けないように押さえつけられると激しく怒る。動物たちにどれほど快適な環境を与えても、欲求不満を含めた怒りを感じることがある。そもそも与えられた環境の外に出れないという時点で彼らが怒りを感じてもおかしくはなく、「しょせん近代的な牢屋」なのである。

 「恐怖」は、生存が脅かされた時に反応する部位で、偏桃体にその中枢がある。なので偏桃体を破壊されると恐怖を感じなくなる。ネズミが穴を掘るのも捕食者から逃れるためである。

 「パニック」は、社会的なアタッチメントに関連する。動物の赤ん坊は母親の姿が見えなくなるとパニックになる。このシステムは身体的な苦痛から進化したと考えられている。いわば、心が痛い、わけだ。

 

 これら四つの情動システムは動物たちにどのような環境を与えればいいのかを教えてくれる。好ましい環境では、脳が健全に発達し、問題行動が少なくなる。最後の三つの情動システムは生涯を通じてみられるものではない、複雑な特定の目的を持つ社会的情動システムである。「遊び」はまだよく解明されていないものの、怖がっているときに遊ぶ動物はいないので遊んでいるのはおそらく幸せな証拠なのだろうといわれている。

 

【にんじんまとめ】

 動物に対してどのような環境を与えればよいか、というようないろいろな工夫を「環境エンリッチメント」という。環境エンリッチメントについて考えるうえでも情動システムを考慮することには意味がある。探索システムをほどほどに満足させ、怒り・恐怖・パニックを与えない安全でつながりのある環境が大事なのだ。

 

 そもそも肝心の「動物が幸福を感じてるのか」という判定をどうやって行うかだが、そんなものを生物学的に調べるテストなどありえない。見るべきなのは「行動」であり、特に考えられているのは「常同行動」つまり異常な行動を起こさないかどうかであると考えられてきた。

 常同行動にはいろいろあって分類は難しいが、①行ったり来たりする(動物園でなんの意味もなくうろうろするのが見れる)、②口を使う(柵をかじる、物を異常になめる、舌先を丸めて動かす)、③その他(体を揺らす・飛び跳ねるなど、移動しないタイプの多動)となるだろうか。テニスのシャラポワが相手のサーブを待つときにラケットをくるくる回すのは「常同行動」のひとつだが、これは一過性のものだから問題ない。一日に何時間も同じ行動をする継続的なものが、異常行動なのだ。動物園の檻のなかにいる動物たちがうろうろ、うろうろと同じ場所をうろつくのはよく見られるし、あるいは人間にもそういうことがある。隔離して育てられた孤児たちはベビーベッドでよつんばいになって体を揺らしたり、柵につかまってずっと足踏みをしている子もいた。自閉症児においては自傷行為もみられ、自分の手を噛んだり、壁に頭を打ちつけた。

 ところが、妙な研究例が出てくる。

 常同行動をしているグループのほうが、していないグループよりもおとなしくて恐怖心も強くなかったのだ。それはミンクに関する研究論文で、彼らは活発な動物であるのに小さな檻で飼われている。対象の1/4に常同行動が「見られなかった」。しかし異常行動にはある程度個体差があるのでこれ自体は特別驚くに値しない。だが、常同行動をしていたほうのグループのほうに棒を突っ込むと、彼らはそれを恐れずに探索をはじめた。一方、常同行動をしていないほうは、恐れて逃げ出した。

 

 常同行動をすることと不幸であることを即座に結びつけるわけにはいかない。だがなんのつながりもないわけではない。ここでそのような行動を引き起こす状況を整理して見ると、

  1.  現在苦しんでいる
  2.  過去に苦しんでいたが今はそうでもない
  3.  今は恵まれていないが、同じ退屈な環境ならしていないやつよりは精神状態がいい

 探索システムをうまく働かすことができない小さい檻のミンクたちは、行ったり来たりすることによって緩和していたのだ。

 

 さらに驚くべき発見がある。野生のものを動物園に連れてきたときと、生まれた時から動物園にいた動物とでは、前者のほうが常同行動が少なかった。一方例外もある。生まれた時からペットとして買われているあるトラの話だが、彼には常同行動がなかった。いったいどういうことなのか。

 

 答えは単純で、「不幸」な動物たちには刺激が足りなかったのだ。野生にもともといた動物は多くの刺激を受けて脳を育てて来た。一方、最初から動物園にいるとそのような刺激がなく、まるで孤児のような状態で育つ。ペットとして飼われていたトラは、その環境に刺激が多かった。また、常同行動をとるミンクたちは、刺激によって精神的な安定をはかっていた。だがこれは彼らを小さい檻にとじこめていいというわけではもちろんない。常同行動は生活の質を下げる、なにしろその活動に多くを費やされるわけだから。動物たちには、生涯のケアが必要なのだ。

 

【にんじんまとめ】

 動物たちの幸福の尺度は行動であり、継続的な異常行動の少なさである。彼らが異常行動を起こすのは情動システムが十分に刺激されていないためであり、もしこれを幼い頃から与えていれば脳が健全に発達するがそうでない場合は人間でいう「孤児」のような状態にある。異常行動は生活の質を低下させるため、事前に防止したほうがよく、既に起きているなら減らす努力をしなければならない。

 

 

 

 

自分を見失うことについて

 お釈迦様の話ではどうも我というものには実体がないそうだし、スピノザやプロティウスによると私たちは「神」「一者」と呼ばれるようなものから生物的必要性などに応じて自ずから分節化され来たったものだそうである。小馬鹿にしたような書き方で始めてしまったが、にんじんはこうした理屈にそれほど否定的であるわけではない。ハイデガーが『存在と時間』において指摘した通り、あるいは釈迦も「縁起」と言っていた通り、ある一枚の紙があるというのはそれが置かれている机があるということであり、机があるということは床があるということで、重力がなければならず、……ともかく色々通じ合っていて、それ自体として存在しているものはない。スピノザの「神」が自然そのものだという発想は、まさに自然なものだったと思える。正確にいえば、『エチカ』定理十一:神あるいは、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は、必然的に存在する、である。釈迦本人はこういう形而上学的な、あるいは軽めの言葉でいうと「あっち系」、のことには関わらなかったが。

 私らしさというのも私たちが信じるような意味ではもはや通じないことは、まあ大体わかって来る。年をとったのもあって、そんな素朴な直感を現実が支えられなくなった、とも考えられる。生きる意味に関してもそうで、「私がうまれてきたのにはなにか意味があるのかもしれない」なんて真面目に言ってるやつは、大学生を過ぎて、まぁいないだろう。別にいてもいいが。やりがいがあるのはいいことだ。もちろん「いい」というのは、本人にとって、という意味だ。だが、そういや、この本人というのも実体としては存在しないのだった。ここで妙な気分になる。自分を見失う。

 

 素朴実在論というのは、きわめて素朴に、そう見えるものはそうなんだろうという立場だが、錯覚論法がこれを阻むから困る。蛇かと思ったらロープだった、みたいなことで、見えてるものは実は本当じゃないんじゃないかという疑念が生まれる。この世界は本当の世界ではないのでは、と思って科学者は顕微鏡やら実験器具を手に取り、坊主は座り、宗教家は毎日祈っている。目の前にあるものをぼうっと見るんじゃなくて、いろいろな手段で、もっとよく見ようとする。このように人々の営みを概括してみると、どうやらそれぞれにもっともな理由がありそうで、どうも一つには決めかねる。決めかねるとうっかり書いてしまったが、要するに、選択の問題に見える。顕微鏡をのぞいて違う世界が見えたからってそっちが本当の世界だと思うのはどうかしてるし、瞑想で「無分別」の境地に達したからってこれこそが真実、あるべき姿だといわれるのも違うし、まぁ祈ってて意識がトぶのも瞑想と同じ理由でやっぱり違う。かといって全部が全部おかしいわけではなく、人それぞれだよねみたいな、相対主義に行きたくなる。この見地から見ると、神からすべてが派生するのも、そういう色んな正しさを受け入れるための理論のひとつなのではないかと思えてくる。なにが「神」だ「絶対無」だ「一者」だ、誰も確かめたことがないのに。それとも釈迦とか、道元だったらその境地を知ってるんだろうか。井筒俊彦さんが「二重の見」といったものを、彼らは有していたのだろうか。

 

 かくいうわけで、私たちとしては「そういう営みひっくるめて人生だよね」みたいな、そういう感じに落ち着く。正しいかもしれないね、でも正しくないともいえるね、いいんじゃない、判断しなくて―――これは古代懐疑主義、つまりピュロン主義の立場だが、実に懸命だった。そのうえ彼らのえらいところは、自分たちの流儀を通してもつらいもんはつらいぜと言っているところだ。「これだけやって駄目でも、この手法ならダメージが最小限になる」って。メトリオパテイアっていう。節度ある感情、っていう意味。正しいことがないわけじゃなくて、正しいことがありすぎて困ってる。1+1=2は正しい。でも十進法でね。全部はうまくいかない。犬にいっても通じないだろうし、客観的真理といわれてもこの世界以外の場所で飾られてるわけじゃないだろうし。問題はどこにスポットライトを当てるかっていうことだ(スポットライトが当てられるかどうかは、私たちが思うように完全に「自由」ではない)。世界レベルで、マジで客観的なことを言おうとしたら、「絶対無」っていう否定の否定の否定みたいなワールドに行くことになるけれど、そこから「派生した」といわれる「私」にも、一応独自の秩序が、上階層の話とはほとんど無関係になりたっている。だから私について話をしてもいいし、逆に、しなくてもよい。

 

 

 

 

 

 

吾輩はニーチェである2

 「なぜ人は自分らしさを求めるのか?」

 

 この問いを吟味するうえでまず確認しなければならないことは、「自分らしさ」とはなんであるのかである。そもそもこの点がわからなければ、人がそれを求めているのかどうかさえわからない。

 そもそも自分らしさというのは、他者の目を意識しているものである。他者がいなければ自分らしさもない(自分/他人は区別される)。自分らしさは、他者との差異であり、他者によっても認識されなければならない(自分らしさは他者との差異であり、他者を標識とする)。だがより一般に考えれば、「自分」というものの範囲は「私」とは限られないのであって、一企業が他社との差別化をはかる場合にも上の問いは成り立ちうるのである。私たちは暗黙のうちに歴史というものを「集団→私」へと収束していくと仮定してかかっていることにも気づく。集団主義の時代は終わり、個人主義を迎え、自分らしさというものが私らしさと同等の意味を持っている。というよりむしろ、この問い自体が個人の自律を重視する個人主義的な思想を社会的な背景としたものだといえる。

  •  社会的背景としての個人主義的考え → 「私」という単位 (背景)
  •  自分らしさ=私らしさ=私と私以外との差異
  •  私以外によっても認識され、また承認されねばならない。

 だからこんなことが問いとして成り立ちうるのは、問うている本人が個人の自律を重んじる価値観を有しているからである。同じ価値観を有しないものがこの問いを聞けば、一体何を気にしているのかと不思議がられることだろう。何が言いたいかというと、「私らしさ」というものを求めるというのはまったく普遍的な現象ではないということだ。承認欲求があるからといって、私らしさを求めているとは限らないのは承認される単位が「私個人」とは限らないからである。もっと一般に考えれば、私らしさの特異さがえがける。

 

 ある個人にとってのそのような単位を〈基礎単位〉と呼ぶことにしよう。

 ここまでの流れで確かなことに思われるのは、その個人は基礎単位への所属をまず第一に求めるであろうということだ。この〈基礎単位〉が私自身である場合、事情は複雑であるが、その私が実際の私自身であるとは限らない。これと同様に、〈基礎単位〉が家やグループなどの一定の集団である場合、その集団が””ありのまま””のものであるとは限らない。〈基礎単位〉はその個人によって、というよりも、基礎単位を為す集団の総意によってその姿を加工されている、理想的なものである。

 私たちはここに、「証明欲求」と「承認欲求」と呼ばれてきたふたつを見つける。

  •  個人が〈基礎単位〉に所属することを求める「承認欲求」(所属していると認められる)
  •  個人が〈基礎単位〉に所属していることを証明する「証明欲求」(所属者として””ふさわしい””)

 そしてこのような単位は多種多様なため、「アイデンティティ」という概念と接近してくる。これが「私らしさ」となると、理想自己との一致を求め、理想自己として振る舞うことを要求される。理想は現実と異なっているのが普通だから、基本的に、一生満足することはないし、他者一般が相手だから確認するのも一苦労だし、あるいはできない。満足する方法は「まずはここまで」と線を引いて、進歩とともにゴールラインの引き上げを自動的にしないことだろうが、そうだとしても「いつまで頑張ればいいの?」という次の苦境が待っている。

 私たちの多くは個人主義的な価値観を持っているから、「認められようとする」ことが一つの「選択」のように見え、「個人が」という部分が非常に際立って見えるかもしれない。しかしアイデンティティを形成するうえでのステレオタイプは意識にのぼった時点で既に醸成されている。「私」というものに対するイメージも、その一つの例に過ぎない、とも言える。

 集団主義は集団を重視しすぎ、個人主義は私を重視しすぎたのかもしれない。集団主義は「私らしさ」を軽んじ、個人主義は「私らしさ」しか基本的に見ようとしなかった、いや、見ようとはしていないのではないか。

 

「人はなぜ私らしさを求めるのか? ……それ以外にも求めるが。哲学者らしいかとか、画家らしいかとか、大人らしいかどうかとか、男らしいかどうかとか。」

 

 しかし結局個人の問題ではないか? だって「画家としてこうするのがよい」+「父親としてはこうしたほうがよい」…といったような様々なことを考えて、結局私がどうすべきかを選択するのだから。

 たぶん、その点が悩みの根っこだろうと思う。にんじんが思うに、このような倫理的決定が行われるのはまったく正しいにしても、それは「決定」と呼びうるほど意識的なものであることはほとんどないし、というかむしろ、基本的にその「決定」は自動的に行われる。こうしてみると「求める」という語もミスリーディングだろう。

 

  •  環境が私に取り込まれ、その情報をもとに私が判断する。
  •  色々な環境をある関数gを以て「私」に取り込み、「私」がその情報と自分の内部の状況を変数とする関数fを以て、外部に表出する。その計算は、もちろん「私」が行う。
  •  Y1,… という環境因子は私に取り込まれる際にg(Y1),…という因子になり、X1,…という内部因子を考慮した関数fによってf(X1,…,g(Y1),g(y2), …)として表現される

 そもそも内部/外部という区切りが、病根にあるのかもしれない。もし人の行動というものを関数で表すのであれば、単に f(X1,…,Xn,…) という風になるはずで、「n番目からは『外部』因子なんでよろしく!」と勝手におのおのが呼んでいるにすぎない。それこそが外部であり、選択の外にあり、私ではないものとされる。だが一体、なぜそれが『内部』と呼ばれたのか。

 私たちが「こうしよう」と考え、行動の方向性をつけることは変数の一個である。だが重要な一個である。だが行動を「決定」するために不可欠な要素でもなければ、確実な要素でもない。

 

 

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

 

 

 

吾輩はニーチェである

 夏目漱石吾輩は猫である』において、二度、哲学者ニーチェの名前が登場する。

 一つは第七章の、猫の銭湯見物の折。猫はふだん服を着ている人間たちが裸体で集合しているのを見て仰天する。人間の歴史は衣服の歴史であり、衣服は人間同士を差別してきた。生まれた時はみな裸、だが人間は平等を嫌い、自分が目につくように色々なものを穿いてみる。彼らは競争し、自分が他とは違うといって他者との差異を目立たせようとする。これが人間というもので、衣服を着ていない人間は人間らしい感じがしない。だというのに、銭湯に集まるものは平然と談笑している。

 そうしていると風呂の湯が熱いといって大騒ぎするものが現れた。その銭湯がその男一人になったように、群衆を圧倒している。猫は思う。「超人だ。ニーチェの所謂超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁だ」このことから猫は、いくら服を脱いで平等になろうと思っても、他の群小を圧倒してしまう豪傑が出てくるのでそうはいかないと考える。

平等という観点から人間の本性を考え、競争に明け暮れた結果、差別が生じることを衣服の歴史を素材にしながら述べたて、こうした競争の一大勝者という文脈で超人が出てくる。これが『猫』で漱石ニーチェに言及した第一の場面である。

漱石の『猫』とニーチェ―稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち

 とはいえ、服を着るのが個人主義の象徴であるわけはない。集団として外部に差異を強調しつつ、内部には同質たることを目立たせる目的もある。しかしいずれにしても結果的に差異は生まれるし、差異に力点があるには違いない。たしかに人は人と同じであることが嫌いらしい。それに関しては「個人主義」のなした業か。世はまさに大〈私〉時代。

 

 

 キーワード:吾輩は猫である 超人 個人主義 明治維新 西洋/東洋 私らしさ