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幸福の発達過程と社会関係【「依存的な理性的動物」】

開花Flourishing

 私たちがいかに「傷つきやすいvulnerable」存在であるかということ、すなわち、私たちの生が苦しみに満たされているということ。私たちは日ごろ、その憂鬱の中に身を置くよりも、傷つきやすさを放擲しまるでそれがないかのように振る舞うことによって、アダム・スミスが指摘するが如くに想像力を逞しくし、絶えざる活動の中に身を置くことが出来るのである。だがもし思い切って反省的に物事を把握しようとするならば、このことは脇に押しやるべきことではないのだ。

 つまるところ、私たちはそれほど特別な存在ではない。もちろん、どれほど人間中心主義的だと言われようとも、ホモ・サピエンスが際立った特徴を持っていることは事実である。特別な存在ではないということの意味は、ヒトの中に潜む動物性に目を向けさせることにあり、すなわち、ダーウィンの「進化」という思想によってボトムアップ的に組み上げられ、また、組み上げられつつあるという事実を強調することでもある。マッキンタイアはヒトとそれ以外の動物を区別しようとする議論について『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』の第三章~第六章のなかで順に整理し検討を加えている。とはいえ、そこで強調されている、ヒトのもつ「言語」に由来する人間のさまざまな「特権」すらも、進化によって練り上げられ、練り上げられつつあるものに過ぎず、少なくとも部分的には人間特有のものではない。

 倫理学の使命のひとつは、「よく生きるとはどういうことか」である。よく生きるというのを幸福Eudaimoniaとか、あるいは動物一般に適用するときには開花Flourishingと呼ぶが、この開花の本性を突き止めるにあたって、その動物の属する社会関係を考慮するのが大切である

イルカがその一生の異なる段階において、子どもを連れたメスの群れ、成長期を終えたばかりのオスの群れ、年老いたオスとメスの群れといった種々の群れにそのメンバーとして属することによって、また、各々の群れの中で種々の協力関係を形成することによって、彼らの中にさまざまなかたちの社会関係が構築されていることが、彼らの生存と開花の可能性を著しく増大させていることにほとんど疑いの余地はないように思われる。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス) p84

  この直感は〈傷つきやすさ〉に関する一定の観念と関係する。すなわち、何かが危害や危機的状況とみなされるのは、その何かが特定の善の達成や開花一般の達成を妨げることである。社会関係の構築が生存と開花の可能性を増大させると考えるのは、その反対が生存と開花の可能性を減少させると考えるからに他ならないだろう。

 そうしてさらに明らかなことは、イルカにはイルカの、ヒトにはヒトの開花があるということ。そうしてそのような開花のために必要なことは、『それがその種のメンバーとして所有している特徴的な諸能力』に求められると推論することはそれほど突飛なことではないだろう。この推論によってさらにわかることは、開花というものが少なくとも部分的には科学的文脈に即して答えが与えられる事実的なものだということである。即ち、『ある特定の種に属する個体ないしは集団が、特定の環境下で、特定の成長段階にある際に開花するために備えるべきさまざまな性質を同定する』ことができる。もちろん、なにかが開花しているというときはそのような性質を持っているという以上のことを述べているのであるが、そのような性質(=徳)のおかげで開花しているという事実に変わりはない。

 開花についてのいくつかの事実を整理しておこう。

  1.  開花はよく生きることであるから、特定の場面での感覚や気分ではなく(短期的幸福)、生き方としての幸福(長期的幸福)を指す。
  2.  開花に関する理論は、「その環境のもとでどのように生きるか」(〈生きることそれ自体〉)に関する理論である。これは「どのような環境のもとで生きているか」(〈生活の環境〉)と区別されなければならない。すなわち、なんらかの状態に達することが開花ではなく、それがなんであれ、なんらかの状態のもとでの生き方が開花である。
  3.  エウダイモニアと有徳に生きることは何らかの仕方で積極的に結びつく。

(二回目)にんじんと読む「徳は知なり(ジュリア・アナス)」🥕 第六章まで - にんじんブログ

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 何かを善に帰するのには、少なくとも三種類のやり方がある。

  •  (手段としての善) まず第一に、『私たちが何かを一つの手段としてのみ評価することによって』、たとえばそれを食べるのはヒトとしてのあなたにとって善いことだという意味である。つまりそれは何か別の善を得ることを可能にするかぎりにおいて善である。
  •  (ある特定の実践において特定の役割を模範的に果たす者としての善)第二に、『誰かをある一定の役割を担う者として、あるいは、ある社会的に確立された実践の枠内である一定の役目を果たす者として善い』、たとえばアスリートとして、回復期の病人として、相撲取りとして、画家として、父親として善だという意味である。この善に特徴的なことは、一般に、その特定の活動について手ほどきを受けることによってしか学ばれえない。だが、この種の善は、「善い泥棒」という使い方もある。しかしそれは、泥棒としての技能を備えていること自体に対する評価であって、その技能を泥棒に使うことではない。
  •  (開花についての判断)第三に、『その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善か』、たとえば父親としての善と画家としての善が対立した時に何をなすべきなのかについて私たちは判断を下す。

 ヒトが特徴的なのは、「なぜあれではなくこれをすべきなのか」という問いがつねにつきまとい、時にはそれを反省し、正当性を評価し、それに対する答えが付与されうることである。

ヒトは、善に関する、また、特定の状況下で何をなすことが最善であるかに関する、そしてどのような人生を送ることが最善であるかに関する実践的な推論者として、自己を理解することを学ぶ必要があるのだ。

ヒトはこのことを学ぶことなしには開花することはできない。そしてこの点に関して、やはりヒトはイルカとは違うので、ヒトの〈傷つきやすさ〉もまた、イルカのそれとは違ったものになる。(略)イルカは、イルカの開花について他のイルカと議論しあったり、他のイルカから学んだりすることができなくても開花することができる。だが、ヒトはしばしば、ヒトの開花について他者と議論しあったり、他者から学ぶことなしには開花することができない。またそうであるがゆえに、推論能力の行使を妨げたり、抑圧したり、その能力を損なったりするおそれのあるすべてのことがらが、[ヒトの開花にとって]潜在的な脅威である。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス) p90

  ヒトは、自分自身が抱く欲求から自分自身を切り離すという段階を経なければならない。「したいからやったんだ」というのは日常的にはありふれた正当化であるが、その言わんとすることは「そうしたかったし、なおかつ、それ以外の行動をとるべき善い理由はなかった」ということだろう。大抵の場合、行動選択の思案は意識されることなしに進行する。もしこれが絶えず意識されるとすれば身動きがとれなくなる。子どもたちは言語を手に入れることによって行動すべきさまざまな理由を比較衡量することができるようになるが、その力を身に着けるうえで大事なのは、「いま欲求している通りに行動するより、他にすべきことがあるかもしれない」すなわち「なぜあれではなくこれをすべきなのか」への学びである。

 私たちは欲求から離れて行動するわけではないし、そのようにいうのは危険でさえある。しかし言葉通り単純な意味で、欲求に従って行動しているわけではない。欲求を評価することと表明することに対する区別は、子どもの発達過程に生じる段階を切り分けるにあたって重要性を有する。彼らがこの区別を他者から学んでいくが、このとき同時に学ばなければならないことは、自らの欲求に関する判断と自分にとって何が最善なのかについての区別である。自分が何を欲求しているのか、何をするのがいいのかというどちらの判断も難しい。だが前者は私に権威があるのに対し、後者はそうではないということである。もしあなたがスポーツ選手なら、スポーツ選手としての善についてはコーチのほうが適切な判断を下し得るのである。つまりここで行われる移行は『私たちがある特定のしかたで行動することに関して善い理由を与えてくれるものとして、その判断の正当性を私たちが自分自身と他者たちに対して合理的に説明できるような、そうした諸々の善に関する自身の判断を自立的にくだしうる段階への移行』である。

  •  この移行には三つの特徴がある。(1)単に行動の理由をもつ状態から理由を比較衡量できる状態への変化だということ。これはこれまでも指摘してきた区別(2)欲求や情念の変容。つまり自らの欲求から一歩身を引くことができるということ。これに失敗した人間は、小児的欲求を善そのものに対する欲求だと言い聞かせている。(3)現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態への変化。言語を持ちえないメンバーはこれを持ちえない。イヌは主人が玄関の前にいることは信じても、あさって帰って来るとは考えられない。

幸福への発達

 私たちがヒトとして開花する=ヒトとして所有している特徴的な諸能力のおかげで開花する=自立した実践的推論者になることで開花するとはどういうことかを知るためには、すなわち、自立した実践的推論者の諸徳とはどのような諸徳であるのかを知る必要がある。問いは次のようなものである。

  1.  それらなしには、私たちが自立した実践的推論者になることはできない社会関係とはどのようなものだろうか?
  2.  私たちが自立した実践的推論者であり続けるうえで欠かせない社会関係というものも存在するのであろうか?
  3.  そのような諸々の社会関係を生みだしたり、維持したりするうえで欠かすことのできない諸徳とはどのようなものであろうか?

 幼児期から自立した実践的推論者へ至る道は、他者たちの貢献が本質的である。他者たちから与えられるのは、次の能力の成長に欠かせない社会関係である。(1)自己の実践的判断を評価し、ある場合にはそれを修正し、またある場合にはそれを退ける能力、(2)実際に生じうる未来像の中から合理的な選択をおこないうるために、それらをリアルに想像する能力、(3)自己の欲求から身を引き離す能力。

 自分の欲求から身を引き離す能力について考えよう。たとえば子どもは自分の欲求を満たすためには大人を喜ばせる必要があることを、大人に対する愛着や愛情を抱く経験を重ねることを通じて学ぶ。子どもは大人を喜ばせようとするが、彼らが一歩前へ進むためには、大人としては教えなければならないことがある*1。とはいえ、大人がいつでも完全でない以上、学びも不完全なものとなる。もちろん、不完全なその大人もまた、不完全な教師によって教えられたのだが。このようにして発達した子どもは、色々な葛藤を抱きながら、その時々に応じて、それを処置する技能を身に着ける。もちろんそれは対症療法のようなもので、不完全なものだ。たいていの子どもたちはそのようにして生きており、むしろ「完全」などということはほとんどないだろう。しかし、精神分析に関するウィニコット曰く、―――それを引きずったまま遂げる自立とは、他者たちへの依存や愛着を事実に即してリアルに認識しうるような類の自立ではなく、依存や愛着や葛藤に囚われたままの状態になる、と。だがこの囚われの状態は私たちにとって望ましいものではない。依存の承認が鍵なのだ。

 「遊び」というものが重要なのは、私たちが感じている欲求の圧力から私たちを解放してくれるからであり、また、それ自体として追及する価値があるとみなされる活動の範囲が広がり、感受される快楽の範囲が広がるからである。もし囚われから脱し、適切な自我意識を獲得したならば、私のもっている一連の欲求と私の善との関係を問題とすることができる。子どものときはニーズを越えた善などというものは一切顧慮されない。また大人になったとしても、自身にとって最善であるはずのことが欲求と異なる場合も起こるのである。それゆえ必要となってくるのは、欲求をそれら善に向けて一貫して方向づけることである。そしてそのために発達させなければならない性質こそ、諸々の知的な徳や、道徳的な徳なのである。大人、つまり教師の典型である親の役割は『その子どもを彼ら自身によって、また、その他の多様な種類の教師たちによって教育を施されうるような状態にいたらしめることである』(p124)。この状態とはつまり、欲求から身を引き離すことを学ばせ、動機を比較衡量させる、あの段階である。

 

 子どもがこの段階へ至った時、他者に対する依存は新たな局面を迎える。つまりその依存は「教師」への依存である。特定の実践に関する卓越性を身に着けた存在が、教師として生徒から区別されるところのものである。教師のもつ諸々の徳は、さまざまな種類の状況に対する適切な反応の内に示される諸性質、すなわちどこで押すか引くかといったことや、仕事をどのような場合に他者に委ねるかといったこと、非難に値することへの非難を慎むべきなのはどのような場合か等々によって特徴づけられるだろう。これらの徳はたとえば勇気や正義や節制や機知などといった「徳」として既になじみ深いものである。正しく反応することは〈規則に従うこと〉を含むのであるが、どんな規則であってもただそれだけでは正しい反応のしかたを決定しない*2。『有徳なしかたで行動する術を知ることのうちには、つねに〈規則に従うこと〉以上のことが含まれているのである』。

 「この規則……このケースではどうだろう、あのケースではどうだろう、従うべきなのだろうか?」といったような問いに対する答えを私たちは弾き出すが、しかしそうした実践的推論のためにはもちろん、「自己認識」というものが重要になってくる。なにしろそれがないということは、自分の社会環境や自分の特性を踏まえて選択肢を吟味できないということなのだから。そしてそうした「自己認識」もやはり、それが自分自身に対して自分自身に下す判断であるとはいっても、本質的に他者たちから学ぶことに依拠しており、他者が与えてくれる承認に依拠している。

 さまざまな徳や技能や自己認識を身に着け、晴れて自立した実践的推論者となった場合、他者との依存関係はある程度終了する。しかしすべてではない。『私たちは人生の最後にいたるまで、私たちの実践的推論を支えてくれる他者たちを必要とし続ける』のだ。それは私たちがいつでも知的な誤謬に陥りうるような、道徳的な誤謬に陥り得るような、そんな存在者だからである。こうしたとき、私たちに誤りを気づかせてくれるのは、その実践にともに取り組む熟練の仲間なのだ。

 

 ※

 

 ところで、自立した実践的推論能力の発揮は、ヒトの全面的な開花に欠かせない要素の一つではありながらも、推論能力を欠く場合は誰しもまったく開花できないということを意味しない。自立という言葉の意味は、行動の諸理由を比較衡量する能力と意志を備えているということであり、自らの実践的結論について説明責任を負うことができ、他者の結論について他者に理解可能な説明を提示できるということである。推論能力を欠いたり、推論について自立していないことは由々しき障碍・欠陥ではあるが、『健全な実践的推論者であるために、農民やフルート奏者は、同時に論理学者でもなければならない、ということはないのである』。

 

 

にんじんと読む「依存的な理性的動物(アラスデア・マッキンタイア)」🥕 一度目の読み - にんじんブログ

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(三度目!)にんじんと読む「依存的な理性的動物」🥕 - にんじんブログ

【エッセイ】傷つきやすいvulnerable存在 - にんじんブログ

 

社会との関係

 実践的推論者が立ち現れ、そうあり続けることのできる社会関係というものは、さきほどから説明し続けているように特定の他者たちに対して「借り」があるような諸関係である。しかしこの説明で注意しなければならないのは、与えることと受けとることの非対称性である。たとえば、借りを返す相手は借りのある人ではない場合もありうるし、たとえば借金と返済のようにそれを測るうえでお金という共通の尺度があるわけではないし、たとえばもらった分に対してまったく釣り合いのとれないような返済をする羽目になるかもしれないし、たとえば何を求められるのかまったく未知数ということである。

 ともかくなんらかの諸関係に参加しない以上は実践的推論者も立ち現れないし、それを維持することもできないのであるが、フーコーなどさまざまな哲学者が指摘してきた通り、〈与えることと受けとることのネットワーク〉というものは、『権力が不平等なしかたで配分されている社会組織であり、しかも、そのような不平等な権力の配分を隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えた社会組織である、ということである』。社会とはそういうものであり、そこに参加するという以上は、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついている。制度化された諸関係は、(1)与えることと受け取ることという種類の諸関係であり、それによって力を獲得し維持してきた、そういう諸関係であり、一方で(2)支配や略奪の道具として機能することで善の追求を妨げる諸関係でもある。この二重の性格を作動させている〈与えることと受けとることを律する規則群〉が権力の諸目的に従属している場合、私たちにとってそれは最悪の状態である。一方、もしそうした規則群が向いている方向に権力が奉仕しているならば、それが最善の状態といえるだろう。

  •  (家族)とある父親は過去に自分があきらめた夢を子どもに託している。しかし自立した実践的推論者としての力を発揮しつつある子どもは、その職業につかない理由を見出している。父は自らの熱望を果たすために、経済的制裁をちらつかせ、親の権威によって制裁を正当化しつつ、また母親は母親で父の命令に従わない子どもを恥ずかしいことだとみなしている。
  •  この種の両親の態度を正当化するような権威が親の権威として、確立された諸規則によって認められているような文化はいまだに数多く存在することだろう。親の権威を規定するその諸規則は、与えることと受けとることの諸規則と齟齬をきたす。なぜなら、もし子どもが親の言う通り行動したとするなら、(1)子どもは自立した実践的推論能力を備えていないし、(2)自分がなにを受けて来たのかに照らして他者にどれぐらい与えるべきかということについて判断ミスを犯すことになるからである。親に育ててもらったからといって、職業までどうこういわれたり命令されるいわれはまったくないのに、「育ててもらったから」といって命令に従うのだから。
  •  「悪い親」が悪い親であるゆえんは、第一には、子どもが親に対して与える義務を負っていないものを与えるよう子どもに要求している点、第二には、そのようなみずからの要求を公正なものとして提示する点である。
  •  もちろん、ヒトの開花のために必要な〈与えることと受けとることの諸関係〉を表現している、良好な関係をもつ家族のパターンもあるのだが。

 私たちは「自立した実践的推論者であるとはいかなることか」を学ぶ段階から、自己の推論能力を文脈に即して展開できるようになる段階へ向かわなければならない。それは社会の二重性格を理解し、開花をもたらしたり妨げたりする諸関係を識別することを通じて「ヒトの開花とはなにか」に関する適切な理解を獲得していく段階でもある。人生のいかなるときに自立を維持し、あるいは他者に依存するべきであるのかということを経験を通じて学ぶ必要がある。

それゆえ、人が実践的推論者になろうとする場合に必要とされる実践的な学びとは、人が与える者と受けとる者のネットワークの中に自己を位置づけようとする場合に必要とされる学びと同一のものであって、そのネットワークにおいては、その人の個人的な善の達成は共通善の達成と不可分のものとして理解されているのである。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

 だからこそ、

各人の善は、それらの関係に参加するすべての人々の善を同時に追求することなしには追及されえない。

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

 のであり、

私たちは、そこに自分が位置づけられているのを見出す一群の社会関係全体の開花とは独立に、それとは切り離されたものとして、みずからの善やみずからの開花について実践的に適切な理解を得ることはできない

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)

 のである。

 

 以上のような見解は、次のような一般的な見解とはおおいに異なる。大雑把にいえば、人間関係とは利益か愛かのどちらかであるという見解である。

  •  私たちは生まれた当初から色々な社会関係に所属している。しかしだからといって、それだけではどうということはない。『借り[恩義]という概念は、自分の意志にもとづいて引き受けられたわけではない他者との関係や交渉に対して適用することはできない。私は、自分自身の利益にもっとも資することは何かを自由に計算することができるのと同時に、他者たちとどのような情緒的な絆で結ばれるかを自由に選択することもできる』のである。他者たちとの関係は「取引的な関係」もあれば「情緒的関与の産物としての関係」もある。前者の関係から課せられる道徳的要求はパートナーたちやそれになりうる可能性をもつ人々に対して効力をもつ。

 こうした見解が見逃していることはなにか。それはこれら二つの人間関係は、これまで描写してきた〈与えることと受けとることの諸関係〉に組み込まれており、このうちで特徴づけられる必要があるということだ。愛情や共感を示すのは、与えることと受けとることにおいてであり、その適切・不適切さは与えることと受けとることにかかわる規範から切りはなすことができない=愛情にもとづく関係において要求されることがらを正しく理解できるのは、与えることと受けとることの諸規範の文脈の中でしかありえない。また市場における交換も制度化された与えることと受けとることの諸関係があればこそである。

 

全体の素描

 第一点目、『合理的行為者としての私たち自身の当初の段階は彼らの状態にきわめて近いということ』。*3

 第二点目、私たちはヒトの〈傷つきやすさ〉から出発し、他者に依存的なありかたをしていることを見て来た。「そのような存在のヒトが開花するとはどういうことか」「与えることと受けとることのネットワークに参入するうえでどのような性格特性が必要か」*4に対して答えようとしてきた。

  •  開花するためには〈自立への諸徳〉=「自立した実践的推論者として必要な諸徳」、および、〈承認された依存の諸徳〉=「他者に対する依存の本性と程度を承認することを可能にする諸徳」の二つが必要であり、それらを獲得し行使することができるのは〈与えることと受けとることのネットワーク〉に参加する場合に限る。

 

過去記事

にんじんと読む「依存的な理性的動物(アラスデア・マッキンタイア)」🥕 一度目の読み - にんじんブログ

(二回目!)にんじんと読む「依存的な理性的動物(アラスデア・マッキンタイア)」🥕 - にんじんブログ

(三度目!)にんじんと読む「依存的な理性的動物」🥕 - にんじんブログ

*1:『子どもが大人たちを喜ばせるとすれば、それは、子どもが彼らを喜ばせるために行動することによってではなく、むしろ、そのような行動をとることが大人たちを喜ばせるか否かにかかわらず、子どもが善いことや最善なことを達成するために行動することによってである、ということである』という説明があるが、何を言っているのかよくわからない。

*2:「規則のパラドクス」なども参照のこと

*3:これに続けて『それゆえ、私たちの自己同一性はその当時もそれ以降も、動物的な自己同一性であるということでもあった』と書いてあるが、いまいちよくわからない。

*4:言い換えれば、『他者に与えてもらう必要のあるものを彼らから受けとることができるようになるうえで、また、他者たちから受けとる必要があるものを他者たちに与えることができるようになるうえで』どんな性格特性が必要か、ということである。