にんじんブログ

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生命ところどころ

 ビッグバンが起きたことはほぼ間違いないと言われているとはいえ、門外漢からすると「へぇ」の域を出ないのもこっちからすると確かなことである。だがともかく何かが原因で始まらねばならぬ、もしこの世界が永遠にこの形であるのでなければ。まぁ永遠にはありそうにないのでビッグバンにご登場いただき、物体の部品を生成していただくことにしよう。重力などのいわゆる4つの力が混合して区別できないほどの超高エネルギー状態であったプランク時代を過ぎ、重力が生じ、強い力が生じ、電子が生じ、クォークハドロンとなり、38万年後ぐらいに水素原子が爆誕、30億年後に銀河ができ、90億年後に太陽と地球、んで100億年後にわれら生命が生まれ来たる……という経過を経て、まぁなんちゃらかんちゃらあって現在に至る。ちなみに今はビッグバンアタックから137億年後の世界です。

 ところで倫理的な事情から菜食主義となった人々が百万回言われているであろうことは、「野菜も生きてますが?w」だと思われる。厭世にんじんというハンドルネームでやらせてもらっているだけあってこの反発は実にありがたいのだが、とはいえ、直感的に申し上げると、野菜は動物ほどには生きていないのではないかと考えるのもまた自然なことではないだろうか。いや、生きてるんですよ多分野菜もね。でも動物ほどじゃないよね。たとえばぶんぶん飛んでる蚊に対して、イヌほどの「生きてる感」は感じないでしょう。これに同意いただいたとしても、主観と客観の差を持ち出されて、つまり、感じるのと実際そうかは関係ないでしょみたいなお説教を食らう。そんなこと言い出したらキーボードだって生きてるかもしれないわけでボンボコ叩くのはどうなんだという話になるのだが、つまりそれが彼らの論理で、「そう、だから何を食べてもいいってわけだ」に行きつく。いや、しかしここに至って、「本気で言ってる?」と自己反省してほしいほど自らも極端な立場にあることを自覚してほしい。ちなみににんじんとしては、肉を食うなとまではいわないが少なくとも今ほどガツガツ消費しなくてもいいのではないかと思っている。さらにちなみにだが、劣悪な環境で飼育されるペットたちより、良い環境で飼育される牛たちのほうがマシなのではないかという意見もある。

 私たちは「生きている」というのを実感として程度問題であると考えている。

 アパートの隣の部屋でガタガタやってる住人は今まさに生きているのだろうし、病院で死にかかっている人も当然生きている。では認知症になってまるきり別人になりまったく何も覚えていないような人はどうだろう。赤ん坊は? 生命のステージとして、人間はヒト以外の動物たちを下位に置く。その下位区分のなかにも階級があって、イヌやネコは微妙だが、ハエはだいぶ下のほうにいるだろう。ハエたちも一定の知性を持ってはいるのものの、まさか人間よりも賢く、文明の発達した地下帝国を建設していると思っているひとはいないだろう。イルカはとても賢い動物だが、過大評価することはできない。そして動物たちの下位に植物たちがいる。

 ベジタリアンの人々はここにラインを引いている。一方、何を食ってもいいという人々は「人間」と「動物」のところでラインを引いている。もちろん線引きは微妙であって、細かい条件はあるだろう。アマゾンの奥地にいるしかじかという植物は引っこ抜くときに叫ぶので殺してはいけないとかね。ともかくどこかしらラインを引いて、だいたい似たような範囲に居る人を「〇〇主義」とかいったりする。夏目漱石が『イズムの功禍』でいったように、イムズなんて色んなありかたを詰め込んだ引き出しに過ぎない。

 これらの序列は人間をトップにしていて、また生きていることの基準を「知性」といったようなものに置いている。そこでは概念プールが重視され、言語というマジカルアイテムを持っている人間は概念を無限に増やせるために『最強生物』の地位にいる。ヒト以外の動物たちも言語以前の原始的な直感を持ってはいるが、人間には到底かなわない。知性に依拠する限り、この階層構造からは絶対に逃れられない。『けものフレンズ』では、動物たちごとにいろいろな特性があり、みんな「すっごーい!」ことになっていた。瞬発力では人間は「すっごくない」ので、哀れ、かばんちゃんはすぐにサーバルちゃんに押し倒されてしまった。本当のところは「みんな違ってみんないい」はずなのだが、ライン決めは明らかに知性を主として行われている。