にんじんブログ

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自分を見失うことについて

 お釈迦様の話ではどうも我というものには実体がないそうだし、スピノザやプロティウスによると私たちは「神」「一者」と呼ばれるようなものから生物的必要性などに応じて自ずから分節化され来たったものだそうである。小馬鹿にしたような書き方で始めてしまったが、にんじんはこうした理屈にそれほど否定的であるわけではない。ハイデガーが『存在と時間』において指摘した通り、あるいは釈迦も「縁起」と言っていた通り、ある一枚の紙があるというのはそれが置かれている机があるということであり、机があるということは床があるということで、重力がなければならず、……ともかく色々通じ合っていて、それ自体として存在しているものはない。スピノザの「神」が自然そのものだという発想は、まさに自然なものだったと思える。正確にいえば、『エチカ』定理十一:神あるいは、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は、必然的に存在する、である。釈迦本人はこういう形而上学的な、あるいは軽めの言葉でいうと「あっち系」、のことには関わらなかったが。

 私らしさというのも私たちが信じるような意味ではもはや通じないことは、まあ大体わかって来る。年をとったのもあって、そんな素朴な直感を現実が支えられなくなった、とも考えられる。生きる意味に関してもそうで、「私がうまれてきたのにはなにか意味があるのかもしれない」なんて真面目に言ってるやつは、大学生を過ぎて、まぁいないだろう。別にいてもいいが。やりがいがあるのはいいことだ。もちろん「いい」というのは、本人にとって、という意味だ。だが、そういや、この本人というのも実体としては存在しないのだった。ここで妙な気分になる。自分を見失う。

 

 素朴実在論というのは、きわめて素朴に、そう見えるものはそうなんだろうという立場だが、錯覚論法がこれを阻むから困る。蛇かと思ったらロープだった、みたいなことで、見えてるものは実は本当じゃないんじゃないかという疑念が生まれる。この世界は本当の世界ではないのでは、と思って科学者は顕微鏡やら実験器具を手に取り、坊主は座り、宗教家は毎日祈っている。目の前にあるものをぼうっと見るんじゃなくて、いろいろな手段で、もっとよく見ようとする。このように人々の営みを概括してみると、どうやらそれぞれにもっともな理由がありそうで、どうも一つには決めかねる。決めかねるとうっかり書いてしまったが、要するに、選択の問題に見える。顕微鏡をのぞいて違う世界が見えたからってそっちが本当の世界だと思うのはどうかしてるし、瞑想で「無分別」の境地に達したからってこれこそが真実、あるべき姿だといわれるのも違うし、まぁ祈ってて意識がトぶのも瞑想と同じ理由でやっぱり違う。かといって全部が全部おかしいわけではなく、人それぞれだよねみたいな、相対主義に行きたくなる。この見地から見ると、神からすべてが派生するのも、そういう色んな正しさを受け入れるための理論のひとつなのではないかと思えてくる。なにが「神」だ「絶対無」だ「一者」だ、誰も確かめたことがないのに。それとも釈迦とか、道元だったらその境地を知ってるんだろうか。井筒俊彦さんが「二重の見」といったものを、彼らは有していたのだろうか。

 

 かくいうわけで、私たちとしては「そういう営みひっくるめて人生だよね」みたいな、そういう感じに落ち着く。正しいかもしれないね、でも正しくないともいえるね、いいんじゃない、判断しなくて―――これは古代懐疑主義、つまりピュロン主義の立場だが、実に懸命だった。そのうえ彼らのえらいところは、自分たちの流儀を通してもつらいもんはつらいぜと言っているところだ。「これだけやって駄目でも、この手法ならダメージが最小限になる」って。メトリオパテイアっていう。節度ある感情、っていう意味。正しいことがないわけじゃなくて、正しいことがありすぎて困ってる。1+1=2は正しい。でも十進法でね。全部はうまくいかない。犬にいっても通じないだろうし、客観的真理といわれてもこの世界以外の場所で飾られてるわけじゃないだろうし。問題はどこにスポットライトを当てるかっていうことだ(スポットライトが当てられるかどうかは、私たちが思うように完全に「自由」ではない)。世界レベルで、マジで客観的なことを言おうとしたら、「絶対無」っていう否定の否定の否定みたいなワールドに行くことになるけれど、そこから「派生した」といわれる「私」にも、一応独自の秩序が、上階層の話とはほとんど無関係になりたっている。だから私について話をしてもいいし、逆に、しなくてもよい。