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吾輩はニーチェである

 夏目漱石吾輩は猫である』において、二度、哲学者ニーチェの名前が登場する。

 一つは第七章の、猫の銭湯見物の折。猫はふだん服を着ている人間たちが裸体で集合しているのを見て仰天する。人間の歴史は衣服の歴史であり、衣服は人間同士を差別してきた。生まれた時はみな裸、だが人間は平等を嫌い、自分が目につくように色々なものを穿いてみる。彼らは競争し、自分が他とは違うといって他者との差異を目立たせようとする。これが人間というもので、衣服を着ていない人間は人間らしい感じがしない。だというのに、銭湯に集まるものは平然と談笑している。

 そうしていると風呂の湯が熱いといって大騒ぎするものが現れた。その銭湯がその男一人になったように、群衆を圧倒している。猫は思う。「超人だ。ニーチェの所謂超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁だ」このことから猫は、いくら服を脱いで平等になろうと思っても、他の群小を圧倒してしまう豪傑が出てくるのでそうはいかないと考える。

平等という観点から人間の本性を考え、競争に明け暮れた結果、差別が生じることを衣服の歴史を素材にしながら述べたて、こうした競争の一大勝者という文脈で超人が出てくる。これが『猫』で漱石ニーチェに言及した第一の場面である。

漱石の『猫』とニーチェ―稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち

 とはいえ、服を着るのが個人主義の象徴であるわけはない。集団として外部に差異を強調しつつ、内部には同質たることを目立たせる目的もある。しかしいずれにしても結果的に差異は生まれるし、差異に力点があるには違いない。たしかに人は人と同じであることが嫌いらしい。それに関しては「個人主義」のなした業か。世はまさに大〈私〉時代。

 

 

 キーワード:吾輩は猫である 超人 個人主義 明治維新 西洋/東洋 私らしさ