にんじんブログ

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にんじんと読む「木を見る西洋人、森を見る東洋人」🥕

 東洋人は環境に、西洋人は対象物に。東洋人は自己というもののありかをさまざまな人間関係や環境のつながりの中に見いだそうとするが、西洋人はそうしたものに囚われないところに自己の姿をさがす。東洋人にとって変化はあたりまえのことであり、西洋人は安定を仮定する。東洋人は関係を重んじ、西洋人はカテゴリーを好む。「自律」的な思想は西洋人に強く、意見の対立があったときにどちらが正しいか決着させようとするが、東洋人は矛盾にでくわしたとき「中庸」つまり調和すること、調停することを求める。

 こうした違いはそれぞれの住んでいた当時の環境によって説明されることがある。古代ギリシアはさまざまな思想の人々がたがいに出会い、さまざまな意見の対立があった。だからこそ他人に対して自分の意見を通す筋の通った哲学体系が必要とされたのだが、古代中国はそうではない。古代ギリシアは土地がきわめて厳しく農業よりも交易によって栄えたが、古代中国は土地が肥沃な農業社会でありそれゆえに中央集権的な国家が生まれた。互いに似通った文化のなかで意見が衝突するのは、権力的な上下であることが多く、相手の主張を叩きのめすよりはうまく調和させ、集団内でうまく生きて行くのが大事だった。

 西洋人は「選択」を重視し、シリアルひとつ選ぶのにマーケットにより多くの選択肢を求める。だが東洋人は〈自分が何かを選択しなければならないとき、「意思決定者としての自分の能力が試されている」などと感じてはいない〉。西洋人にとって自己は周囲と切り離された不可侵の自由な主体であるが、東洋人にとっては自己はきわめて状況依存的な存在である。西洋人は自分たちのことを他者とは違う個性的な人間だと捉え、持ち物も個性的であることを好む。東洋人はたいていの場合自分のことを低く評価し端緒を強調するが、それは特にその人が特別であることよりは、まわりとの支え合いのなかでいかにうまくやっているか、どんな役割を果たしているかが重要なのだ。

 

 

にんじんと読む「老化と老年病」🥕 第一章のみ

第一章 老化の概念

 老化とは、成熟期以降、加齢とともに個体を形成する各臓器の機能あるいは各臓器をネットワークとして統合する機能が低下し、個体の恒常性を維持することが不可能となり、ついには死に至る過程を指す。

 加齢とは生後から時間経過とともに個体に起こる、良いことも悪いことも含めたすべての過程を指す。

 健康寿命とは、ある健康状態で生活することが期待できる期間を意味し、一般に「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」を指す。

老化と老年病: 予防・治療・医療的配慮の基礎 (シリーズ超高齢社会のデザイン)

 老化は「不利」が関係するが、加齢には関係ない。

 老化には、生理的老化と病的老化があり、後者は《老化の過程が著しく加速され、病的状態を引き起こすもの》をいう。たとえば骨量が低下していくのは生理的老化であるが、その速度には個人差がある。閉経や遺伝的・環境要因が関与して老化が加速した結果、骨粗鬆症(病的老化)になると考えることができる。また、脳の高次機能の低下は生理的老化だが、アルツハイマー病がそれに拍車をかける。二つの概念は境界があいまいな例も多い。

 老化を評価する「老化度」の指標は、暦年齢を参照した、同年代の平均的数値との比較によって求められる。だが老化度を測定するたったひとつの指標などはなく、様々な側面から総合判定するのが一般的である。

 

 

にんじんと読む「人間交際術(A・F・V・クニッゲ)」🥕

 この本はドイツの著述家であるクニッゲ(1752~1796)が書いた処世哲学の古典的名著で、他にも小説などいろいろな作品があるが、自他ともに認める「粗製乱造」のせいもあってか、現在でも親しまれているのはこの一冊のみである。

 第三部まであり、第一部において一般原則と一般的の人に対する交際術を示し、第二部においては身分差のない人に対する交際術、第三部においては身分社会的関係、慣習によって左右される交際術を論じている。つまり基本的に「誰とどう交際するか」について書かれてあり、例外的に交際している時点の状況にも触れられている箇所がある。以上の事情から、<交際><交際対象><交際状況>がこの著作の基本的な枠組みといってよいだろう。

 クニッゲによれば、この著作に「くだくだしく、また大げさすぎる」題名をつけるなら、『世間と社交の場において、幸福かつ満足に他の人々と生活し、隣人を幸福かつ愉快にさせるために、人間はどのように振る舞うべきか、ということを定めた規則集』だと書いている。本人も注意しているように、人を自分の思うままに操る術を読者に伝えたかったわけではない。安定した、不安のない、安全な交際。そして仲を深めていくための交際。そうしたことが主眼であるはずだ。そうすると、理屈で言えばここに三つの態度が見いだされる。<自己本位><衝突回避><関係深化>の三つである。別にありがたくなかろうが「ありがとう」といわなければならない場面もあるし、つまらなくても笑わなければならない場面もあろう。衝突を避け、環境を整備し、互いに安定して過ごせる場所を確立するのが<衝突回避>の姿勢である。一方、互いの関係を深めていくためには自己をふつう以上にさらす必要があり、その面でいざこざも増えるだろう。関係を安定させ、自己を開示し、関係を安定させる。以上の意味で、これら三つの態度は<自己本位>に吊り下げられた円錐のように表示されよう(もちろん、関係を深めたくない場合もあるだろうが)。

 

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序論

 この「交際術」を用いるべき読者は、「善良な意志と忠実な真心の持ち主であり、なおそれだけでなく、多様で極めて優れた性質を身につけ、世間で成功するため、また他人と自分の幸福を築くため、熱心な努力を傾けて生活し、そしてそれにもかかわらず、他人から誤解を受け、見過ごされ、何一つ成功しない、そういった人」である。より簡潔にいえば、<高い徳性を持ちながら社会的に成功していない人>であろう。

※とはいえ、この時点で自分が想定される読者だと考える人はどれほどいるのだろう。

 そして社会的成功を収めていない原因は、「人間交際術」が欠けているからであると断ずる。無学な人間のほうがこうした作法を心得ており社会的に成功してしまうことの皮肉を嘆き、これのない読者は人間研究に取り組まなければならないと主張する。

社会で成功していない人間が、社会でうまくやっていくために社交術を身に着けようというのは自然な話の流れである。対象とする読者もそれほどハードを上げずに「高学歴ワーキングプア」といったようなものを一例として挙げることは可能だと思われる。

 

第一章 人間交際術についての一般的規則と注意事項

【人間は、世間の中では自分を演じなければならない】

 人間交際術を語る本の主題は「自分をどう演じるか」である。言い換えれば、「自分をどう見せるか」である。人間はみな完全ではないが、完全を目指さなければならない。約束・時間を守り、真実を語り、整理整頓し、勤勉であることなど(【十一】【十二】)。高い徳性を持った読者はひたむきにこの努力をし続けているであろうが、これを怠ってはならない。だが「完全無欠であるかのように振る舞ってはいけない」(【二】)。完全無欠人間の欠点を見つけると、人は鬼の首でも取ったような騒ぎで大喜びするから。「貴方がたった一度、失敗をするだけで、人々は貴方の失敗の方を、ほかの人の全失敗の総計よりも手厳しく評価する」から。それに、人はみな愉快な気持ちでいたいと思うもので、厳格すぎる人間は退屈である(【十五】)

 読者はただ自分のひたむきな努力を信じなければならない(【八】【九】)。自分の正しいと思うことをしなければならない。人間交際術は外面を取り繕い、八方美人になる術ではない(【三】)

【世間で演じるにあたって他人を利用してはいけない】

 隣人の欠点を暴いて自分を引き立てたり、嘲笑・中傷・噂話したり(【四】【十七】【十八】)他人の手柄を自分のもののように吹聴してはならない(【五】)自分の不幸をことさら外にあらわし誰かをあてにしたり(【六】)自分の幸福を声高に言いふらすのもいけない(【七】)。たとえ相手が配偶者や恋人であったとしても、自分を救うことができないなら、語るべきではない。なんでもかんでも自己開示すればいいわけではない(【十四】)家庭内の情報を流すのもよくない(【十九】)。もちろん非難や反論をするときは十分に慎重でなければならない(【二十】)もし反対された場合でも、それに対する反応は慎重でなければならない(【二十九】)。幸福は妬みを生むので、言いふらしてはならない。人にあまり大きな親切をしてやるのも控えるべきだというのもここに含まれる。また、他人からの親切もできるだけ少ないほうがよい(【十】)自分ばかりしゃべってはいけないし、自分にしか興味のないことをしゃべってはいけない(【二十一】、【二十二】)楽しみを求めて人々が集う場所で仕事の話などしてはいけない(【三十】)宗教の話、他人の欠陥の話は注意深く。他人を笑いの種にしてはいけない(【三十一】【三十二】【三十四】)

  •  他人を驚かせたり、からかったり、気をもませたりしてはならない(【三十五】)。
  •  不愉快な事柄を人に思い出させてはならない(【三十六】)。
  •  嘲笑の輪に加わるな(【三十七】)
  •  貴方が後見人でない限り、他人の行為については本人の責任に任せておくべきである(【三十九】)。

 ここで強調されているのは、他者との適度な距離であるように思われる。自分の世話はできるだけ自分でやり、受けた恩はそのバランスを保つために必ず返すものだ。借りたものは返すこと。みだりに与えないこと。みだりにもらわないこと。謙虚であること(【二十三】)

 

【基本的な振る舞い方:相手に興味を持つ】

 もしも自分に興味を持って欲しいと望むなら、まず自分が相手に興味をもつこと(【十三】)。これが関係を深めるのに重要である。たとえ興味がなくとも、もし興味があるならなおさら、内容のまったくない会話をしてはいけない(【十四】)。私はあなたに興味があります、という態度をとらなければならない。

  •  矛盾することを言ってはならない(【二十四】)。
  •  同じことを繰り返してしゃべってはならない(【二十五】)。
  •  いかがわしいことは言わないように(【二十六】)。
  •  月並みな決まり文句は言わないように(【二十七】)。
  •  無益な質問はしないように(【二十八】)。

 ここでの主眼は相手に興味を持つことであり、何事に対しても、その人がどう思っているのかを気にすることである。別に相手の反応などどうでもいいのに適当な言葉を吐くのを戒めているのだと考えよう。

 

 簡単にいえば、「自分の世話は自分でやり、関係を深めたいならまず他人に興味を持つこと」だ。人間交際術でありながら、それほど積極的に社交をすすめているわけではない。「人生を快適に送るためには、人々の中にあって、自分をほとんど常に「よそ者」にしておかなければならない」(【四十六】)。自分の領分に他人を入れることは戒められており、交際とはあくまでそのボーダーラインありきのものなので、人間交際術とは八方美人の術ではないのである。関係を深めたいと考えるのは相手が親切だからではなく、「自分の方から犠牲になってもよい」と思うほどになってからのことなのだ。

 

 

生き方についてTHINKする

 生きる目的はない。やるべきことはなく、つまり、何をしてもよいので別に自殺してもよい。だが、本当に「よい」と思えるはずはない。私たちはいろいろの理由で死にたくないと思っている。その主要な理由は「私たちはホモ・サピエンスという動物種の一人であるから」であろう。私たちは生まれてすぐ、何らかの文化のなかに放り込まれ、そこで育て上げられる。私たちのいかに生きるべきかという倫理的思考は、そこから始まるのである。「何をしてもよいので自殺してもよい。よし、自殺しよう」などと思う人間は、そもそもそう考える以前に死んでいるだろう。ほぼすべての社会では、自殺を良しとしていない。だが、自殺はしたくないことだしみんな駄目といっているから駄目なのだろう、と考えるのは早計である。死ぬのが嫌なのは、生物という枠に縛られているせいかもしれないのだから。環境のせいで、真実が見えなくなっているのかもしれない。アンチ数学教の親に育てられ、アンチ数学教の文化で育てられれば、1+1=2すらも否定してかかるように。

 人は「こうしたほうがよい」という意識的な、あるいは無意識的な判断を繰り返しながら、徐々に生き方の形が定まっていくのを見つける。つまり、「自分にはこれが向いている」とか「自分はこうあるべきだ」というものが見えてくる。そんなものが見えないという人もいるだろうが、ある程度一貫性(「自分」)を持っているならば、これはほとんど不可避的な傾向であろう。私たちは遂に、死を「よい」として考えるかもしれない。あるいは、それが人生の目的かもしれない。私たちは自分たちにとって何が「よい」かを、選び取ることはできない。倫理的決定でさえ、私たちはほとんど「自動的に」選択している。にんじんはこれを、必然性に身をゆだねる、という。だとすると、私たちに自由はないのだろうか。その通りだ。私たちが「自由」と呼んできたような意味とはもはやおさらばしなければならない。私たちが「こうしよう」というような意志は、実は変数のひとつに過ぎなかった。だが未来のことがすべて決まっていると考えるのはどうかしている。

 なにが「よりよい」か、ということのほとんどは私たちの知らぬところである。たとえば医者でなければ怪我に対してどう処置するのが医学的に理にかなっているかを知らない。あるいは、サッカー選手は、なにがよいサッカー選手であるかについて手探りの状態であることがほとんどだろう。私たちは時に、「よりよい」ことの、どちらが「よりよい」のかについて決定を迫られることがある。たとえばよい画家であることと、よい父親であることの行為が対立するとき、選ばされたりする。私たちは本によってどうすればよいのかを学ぶ。生き方を学ぶ。哲学も含め、理論的な探求はみな、このことに奉仕する。私たちの多くは、「合理的」たらんとしている。理性はよい生き方へのほとんど唯一の導き手なのだ。これは理性を重視するというご大層な話ではなく、真冬に凍えている私たちの手元にあるのが理性というマッチだったに過ぎない。できればストーブがいいのだが、そんな都合のよいものは持っていないから仕方がない。

 もしもよく生きようと欲するならば私たちは絶望の上におらなければならない、と教えたのはスポンヴィルであった。絶望とは、何も望まないということである。望むとは、望まれる何かが手元になく、それがどうなるかわからず、自分ではどうにもならないという特徴を持つ。換言すれば、何も望まないとは、そこにあるもので満足し、それをよく知り、自分の手に届くことである。どうにもならないことをどうにかしようとしてはいけない。どうであるか、よく知らなければならない。また、ありのままを受け入れなければならない。そして、必然性に身をゆだねよう。よりよく生きたいと考えるすべての人は、必然性の声に耳を傾けながら、自信を持ってそのまま進めばよいのである。この意味で、生きる意味は存在せず、また、生きる意味はつねに既に製作されつつあるとは言えないだろうか。

 

 

夏目漱石のこと2

 漱石が求めた「個人の自由」は、単なる信念では押し通せない。何が必要かといえば「金」である。が、漱石は「金」が力を持ちすぎる社会にも嫌気がさしていた。漱石の神経を参らせたのは、〈金力の不徳義に対する怒りと、無金力の不如意に対するあせり〉であった。金には力があり、それが故に金持ちは力を持つ。だが世の中の金持ちは無学無知な連中ばかりである。無学不徳義でも金を持てば強いから、国民は金を持とうとばかりする。それで秩序が乱れてしまう。結果として、〈愚なるもの・無教育なるもの・齢するに足らざるもの・不徳義のものをも士大夫の社会に入れたる〉(夏目漱石全集第二十四巻六十四頁)ようなことになる。

 ここで注目すべきだと林田さんが言うのは、『無教育なるもの』という言葉である。教育のあるなしを以って人をはかる基準としてしまっている。だが勘違いしてはいけない。教育があるのはその人が環境に恵まれていたかどうかも大きく関係するのだ。そもそも漱石は自分がまるで貧乏人の代表選手のように語っているが、彼はそんなに金がなかったわけではない。彼には「女中」のいない家庭というものを、考え得なかったことを思い出さなければならぬ。

 この例にみられるように、漱石は基本的に自分の有する「権力」に無自覚である。彼は悪口をいうときにいつも「車夫」を口に出す。車夫には教育がないというわけだ。だから漱石が〈どんなに自我の尊厳を力説しようとも、大学講師と車夫とが肩をならべあう社会にはがまんができない〉。〈個人主義思想の個人的要求としての「自我の自由」をあれほど強調しながら、個人主義思想の社会的要求としての「自由主義」を、『秩序を壊乱』するものとして非難した矛盾〉を彼は抱えているのだ。

 そもそも日本の個人主義は西洋からの輸入ものである。つまり個人個人の内部の圧力によって生まれたのではなく、まず知識として入って来た。その知識をまず摂取したのは前時代の封建的な「金持ち」なのである。漱石も士族の出で、もちろん明治になってその勢力は廃れたもののそれでもなお豪勢な遊楽のできる家だった。だが、漱石にとって重要なのは、裕福な子たちの集まる裕福な大学では、彼の仲間たちがみな彼以上に金持ちだったことだろう。なんにしても、〈漱石が人間なみの基準としていた「教育ある者」になることのできる人は、事実としては、士族・大地主・豪商などの子弟でしかなかった〉。

 しかし『私の個人主義』においても見られるように、彼は他我への尊重ということも忘れていない進歩的な個人主義だった。無意識ながらも、自分の抱える矛盾に漱石は気づいていた。だがやはり意識的には、気が付かなかった。漱石個人主義は「我」を通すために孤独な戦いを強いた。「我」を通すためには誰もが敵になる。それが彼の家庭での振る舞いに現れた。一方で、彼はエゴの醜さを作品を通して描き、『それから』で人妻を奪い返させ、『門』で人妻を奪った罰を描き、『心』において先生を自殺させた。

夏目漱石のこと

 夏目漱石ほど魅力的な作家はそういない。

 彼が魅力的なのは、文学的な芸というものにとどまらない。どれだけ中身がうまくてもそれで繰り返し読む気にはならない。彼には、何度でも読ませるなにかがある。それを言葉にしようと試みているのが林田茂雄氏の書いた『漱石の悲劇』である。調べてみると、林田さんというのは共産主義の旗を振っていたようなひとで、ともかく「政治の人」という印象を受けるプロフィールなのだが、書いているものはたいへん面白い。『般若心経の再発見』などでは「自分はさとりをひらいた」といっており、それだけ見ると相当エキセントリックだが、ぐんぐん読み進めてしまう魅力がある―――この種の不思議な引き寄せられは、魅力というのがふさわしい。

 林田さんはまず、漱石の精神病的症状をとりあげる。彼が実際精神病だったのかはともかく、彼の作品にみられる特徴・世間を驚かせた行動には彼自身の思想的なこだわりがあったに違いないと診断する。この診断の可否はどうあっても推測の域を出ないが、「何か考えがあったのだろう」と思わせるのもまた漱石の魅力が為せるわざである。それに『文学論』と彼の作品群との関連性が指摘されるにつれて、「何か考えがあったのだろう」感は増している。

あくまでもまともであった神経が、あくまでも彼としてのまともさをつらぬこうがしたがために、しばしば病的な現われ方をしてしまったのではないか、というぐあいに考えずにおれないのである。

漱石の悲劇』(林田茂雄)

 

 漱石作品の特徴として、林田さんはまず「女中」を取り上げる。一言でいうと、漱石作品の連中はどいつもこいつも、どれだけ貧乏であろうが(!)、かならず女中を雇っているのである。『野分』の主人公・白井道也は貧乏人の筆頭であり、その貧苦は相当なものである。「質に入れるものはもう何もない」とさえ言う。しかしちょっと横を見ると、なんと女中がいる。なぜ女中を解雇して費用を節約しないのか。

 漱石作品の第二の特徴は、漱石の思想を代弁する登場人物は誰も彼もみなたいていが「無職」だということである。漱石には明らかに、働かずに食っていける人間たちへのあこがれがある。ここには〈真に自由にものを言い、自由に行動することができるためには、勤めや商売にしばられていたのではだめだという主張〉が見え隠れしている。

 みずからの自由を阻む物や者に対する漱石の抗議は尋常ではない。漱石は「個人の自由」ということにたいへんこだわった。自由にものが言える安全地帯というのは、特別な条件に支えられ、だれもが簡単に果たせるものではない。それに果たせたとしても、それはきわめて不安定であり、『それから』の代助などはその幸福の地盤がくずれた男である。

 

 個人の自由という点について、象徴的な事件がある。それは「語学試験(担当)拒否事件」および「博士号辞退事件」である。まず前者は簡単に、講師として雇われていたにも関わらず教授たちから語学試験を担当するように命じられ激怒した事件である。次に後者は、博士号を授与するといわれそんなものはいらないと拒否したという事件である。前者に関しては、多くを語らずともわかりやすい。要するに自分の職務の範囲外のことを「命令」されて、「誰がそんなことをやるか馬鹿野郎」と抵抗しただけのことだ。もちろん、お上からの命令ということもあるし、時代もあるし、最高に断りづらいことは間違いない。

 だが後者はどうだろう。せっかく博士号をやろうといっているのだから、もらってもよさそうなものだ。もちろん博士号なんか足の裏の米粒だからいらないかもしれないが、別に突き返すほどでもない。実際、当時も漱石に対する世評にはその向きのもあった。林田さんはこの事件が〈主義の問題〉であると捉える。漱石は妻・鏡子あてにこういう手紙を書いた。

せんだってお梅さんの手紙には「博士になって早くお帰りなさい」とあった。博士になるとはだれが申した。博士なんかはばかばかしい。博士なんかをありがたがるようではだめだ。お前はおれの女房だから、そのくらいな見識は持っておらなくてはいけないよ。

 この手紙は博士号の授与される前のものである。つまり彼は博士号なんかくれるといったっているものかと思っていたところ、くれるといってきたので、実際断ったのである。林田さんは中村光夫というひとの先行研究を引いたあと、こう書いている。

中村さんがいうとおり、自負心の強かった漱石は、もっと若いころから博士号など問題にしていなかった。むしろ、無視していたというよりもにくんでいた。博士という称号そのものをにくむ理由はないのだが、文部官僚とその手下どもが、学者文人の値うちをかってにきめる制度をにくみ、その出すぎた権力の横暴と軽率をにくみ、そこからつくり出された権威と栄誉がものをいう風潮をにくみ、官許の「栄誉」にあこがれたり「権威」をふりまわしたりする学者文人たちの不見識をあわれんでいたのである。

漱石の悲劇』(林田茂雄)

 博士号問題は単に自尊心という内的欲求の問題以上に、『お上の御威光』に対する積極的なたたかいとして捉えるべきなのだ。