にんじんブログ

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生き方についてTHINKする

 生きる目的はない。やるべきことはなく、つまり、何をしてもよいので別に自殺してもよい。だが、本当に「よい」と思えるはずはない。私たちはいろいろの理由で死にたくないと思っている。その主要な理由は「私たちはホモ・サピエンスという動物種の一人であるから」であろう。私たちは生まれてすぐ、何らかの文化のなかに放り込まれ、そこで育て上げられる。私たちのいかに生きるべきかという倫理的思考は、そこから始まるのである。「何をしてもよいので自殺してもよい。よし、自殺しよう」などと思う人間は、そもそもそう考える以前に死んでいるだろう。ほぼすべての社会では、自殺を良しとしていない。だが、自殺はしたくないことだしみんな駄目といっているから駄目なのだろう、と考えるのは早計である。死ぬのが嫌なのは、生物という枠に縛られているせいかもしれないのだから。環境のせいで、真実が見えなくなっているのかもしれない。アンチ数学教の親に育てられ、アンチ数学教の文化で育てられれば、1+1=2すらも否定してかかるように。

 人は「こうしたほうがよい」という意識的な、あるいは無意識的な判断を繰り返しながら、徐々に生き方の形が定まっていくのを見つける。つまり、「自分にはこれが向いている」とか「自分はこうあるべきだ」というものが見えてくる。そんなものが見えないという人もいるだろうが、ある程度一貫性(「自分」)を持っているならば、これはほとんど不可避的な傾向であろう。私たちは遂に、死を「よい」として考えるかもしれない。あるいは、それが人生の目的かもしれない。私たちは自分たちにとって何が「よい」かを、選び取ることはできない。倫理的決定でさえ、私たちはほとんど「自動的に」選択している。にんじんはこれを、必然性に身をゆだねる、という。だとすると、私たちに自由はないのだろうか。その通りだ。私たちが「自由」と呼んできたような意味とはもはやおさらばしなければならない。私たちが「こうしよう」というような意志は、実は変数のひとつに過ぎなかった。だが未来のことがすべて決まっていると考えるのはどうかしている。

 なにが「よりよい」か、ということのほとんどは私たちの知らぬところである。たとえば医者でなければ怪我に対してどう処置するのが医学的に理にかなっているかを知らない。あるいは、サッカー選手は、なにがよいサッカー選手であるかについて手探りの状態であることがほとんどだろう。私たちは時に、「よりよい」ことの、どちらが「よりよい」のかについて決定を迫られることがある。たとえばよい画家であることと、よい父親であることの行為が対立するとき、選ばされたりする。私たちは本によってどうすればよいのかを学ぶ。生き方を学ぶ。哲学も含め、理論的な探求はみな、このことに奉仕する。私たちの多くは、「合理的」たらんとしている。理性はよい生き方へのほとんど唯一の導き手なのだ。これは理性を重視するというご大層な話ではなく、真冬に凍えている私たちの手元にあるのが理性というマッチだったに過ぎない。できればストーブがいいのだが、そんな都合のよいものは持っていないから仕方がない。

 もしもよく生きようと欲するならば私たちは絶望の上におらなければならない、と教えたのはスポンヴィルであった。絶望とは、何も望まないということである。望むとは、望まれる何かが手元になく、それがどうなるかわからず、自分ではどうにもならないという特徴を持つ。換言すれば、何も望まないとは、そこにあるもので満足し、それをよく知り、自分の手に届くことである。どうにもならないことをどうにかしようとしてはいけない。どうであるか、よく知らなければならない。また、ありのままを受け入れなければならない。そして、必然性に身をゆだねよう。よりよく生きたいと考えるすべての人は、必然性の声に耳を傾けながら、自信を持ってそのまま進めばよいのである。この意味で、生きる意味は存在せず、また、生きる意味はつねに既に製作されつつあるとは言えないだろうか。