にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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うまくやりたいの病(日記)

2022.05.29記

 うまくやろうとして成功することはほとんどない。文章も、うまく書いてやろうと思っているとうまくは書けない。世の中のうまい文章というのは推敲しているからうまいんであって、最初からうまく書けるひとはいない。磨いてうまくなる。

 出来事というのは、たいてい一回きりである。そうとはいえ、たとえば仕事などでは、毎日毎日似たようなことばかりをやっているかもしれない。仕事でなくったって、毎日が似たようなもんだという場合もあるだろう。これもまた磨けば案外うまくなる。こういうときはこうしようと、ああいうときはああしようと、だんだん要領がつかめてくる。技能というのはそうやって高めていくものだ。それで生きるのもうまくなる。小さいころに比べると、どんな人も生きるのがうまくなっているものだ。親と一緒でないと行けなかった場所に今は一人で行くことができる。

 そのせいだろうか。なにかに出くわすと「うまいやり方があるんだろうな」と思う。この極限として「うまい生き方があるんだろうな」と思う。それで生き方について考え始める。先取りして捕まえておこうという腹積もりである。最近教養がどうだの、とにかく色々なことを知ろう、知らないものはばかだ、という風潮があるのもそれが原因かもしれない。とにかくなんでも仕入れようとする。なにもかも、うまくやるためである。未踏の地の地図が欲しいのである。

 だが手に入るのは、ここには重力が働いていますとか、何らかの植物がありますとか、なんらかの微生物がいますとか、そんなことばかり。ナントカ地形かもしれないしそれでおおよそわかることもあるだろうが、「詳しいことはわからない」。当たり前だ、未踏の地なのだから。だが仕入れた知識が役立つときもあるし、せっせと知識を集めていく。修学旅行の荷物パンパンみたいなもんで、いくら沖縄について調べようが旅行を豊かなものにできるとは限らない。行ってみなくては。沖縄にはハブがいるらしいが行けば必ずでくわすわけではない。とはいえ対策するには越したことはないのじゃ、と荷物はかさばるばかり。それで動けなくなる。けれど、また調べたくなってしまうのだ。うまくやりたいから。これはもしかすると周囲の目を気にしているところもあるかもしれない。スマホを取り出し、グーグルにアクセスする。「動けないとき 方法」。

 

 

にんじんと読む「性の進化論」🥕

 男と女が出会ってからの「自然」な流れは大体次のように説明される。

 男と女が出会うと、二人はお互いの値踏みをはじめる。男は女が健康であるとか、若いとか、経験人数とか、貞節とかを気にする。女は男に力を求め、その力を自分と自分の子のために行使する意思があるかどうかを気にする。お互いの評価基準を上回ると二人はセックス契約をして、女が相手をその男だけに決める代わりに男の富を手に入れる。二人ともがいつも不貞行為の兆候を探し、しかし一方で、もっと出来のいい異性がいればなんとかかんとか言い訳をしてヤろうともくろんでいる。

 男は嘘つきゲス野郎で、女は金目当ての嘘つき男たらし。女は究極的には体と引き換えに金を得ようとする売春婦だというわけだ。これは進化心理学的な前提であり、私たちはそのように進化してきたのだといわれる。本当か?

 

 ある狩猟採集者が言った。「この世には、これほどたくさんのモンゴンゴの実が生っているのに、どうしてわざわざそれを植えなきゃいけないのか」と。しかし人類は農耕社会へと進み、エデンの園に生っている実をもいで食べるだけの生活をやめた。おかげで、とんでもない副作用が出た。ここに仕立て上げられたのが「原罪」というストーリーである。われわれがこんな目に遭ってるのは罪があるからだと。狩猟採集生活から農耕生活への移行がわれわれにもたらしたものは、飢餓の増大、ビタミン不足、発育不全、寿命の急激な縮小、暴力の増加であり、褒めるべき点はほぼない。

 ホモ・サピエンスの傑出した特徴は大きな脳ではなく、セックスをめぐることで大騒ぎすることである。大きな脳は私たちの社交性に由来しており、社交のための能力を磨くためにでかくなったのだ。一方、ホモ・サピエンスのエロは過剰に過ぎる。ボノボとヒトに「だけ」にとって、生殖に結び付かないセックスは自然である。生殖のためのセックスしかしないほうが自然界としては普通であり、生殖のためではないセックスは極めて人間的だといえる。

 狩猟採集社会の特徴を見よう。アマゾン先住民はこう考えている。「胎児というのは精子の蓄積によってつくられる」。だから母親は多彩な男たちに協力を要請し、さまざまな精子をミックスする。あの男はこんなところが素敵、この男はあんなところがいい、……だからそういうところをたくさん子どもに与えようとする―――このような胎児に対する理解は単純な狩猟採集社会から初期農耕社会までを含む広範囲の社会で見られる。つまり、一人の人間に父親が複数いるのはあたりまえのことなのだ。そして父親の数が多ければ多いほど、それだけ特別な関心を持ってくれる人が多いということで有利になることはあれど、サノバビッチと蔑まれることなどない。そして父親のほうも俺の子じゃないかもしれないなどとキレたりすることはない。では女は、特定の男の保護と特定の男のために貞節を捧げる必要があったのかというと、まったくそんなことはない。性的関係が入り乱れていると親の責任が分散し、子は共有される。

 人類にとって最も落ち着けるのが核家族なのか。私たちは法律的に優遇することで核家族を維持し、同性愛だとかはずれたことをすると非伝統的だと言ってなじる。だが現実は核家族世帯の割合はガンガン減少している。そもそも「結婚」を望むのはそれほど人類にとって普遍的な性向なのだろうか。普遍的だというからには狩猟採集社会においてもそうなのだろうが、そもそもこの社会では「結婚」とはなんなのか。どう定義されているのか。どこの人間だって男女一組になる瞬間はある。この世の中には多種多様な繋がり方があり、そのすべてを私たちのいうところの「結婚」という型にいれてしまうことなどとうていできない。古代ローマでは花嫁が新郎の前で友人たちとセックスする。こうした騒ぎは初夜を過ぎてもまだ続く。私たちの考える「結婚」など、恐ろしく特殊な形態に過ぎず、男女関係の多様さをその一言に押さえつけることなど叶いそうもない。

 

 

ここは家ではない(日記)

2022.05.22記

 

 あまりにも衝撃的だったので書かずにはいられない。

 誰かが間違って部屋の火災報知のボタンを押したらしく、アパートのサイレンが鳴り響いた。呑気な当人はいつまで経っても対処しないのでサイレンは鳴り響き、呼ばれてやってきた消防隊員も「早く切って!」と各部屋を回っている。にんじんはPC前から動いておらず、まったく関係がないのでやってきた隊員に対しても「何もないですよ」とアピールしておいたのだが、

 それから数十分、今度は警察が来た。

 にんじんはご飯を食べていた。チャイムが鳴ってから箸を置き、音楽の再生を切り、マスクをはめた。その間もチャイムはまた鳴った。相手はまた消防隊員だろうと思っていたので、早く出なくちゃいけないと思っていた。

 

 急いで鍵を開けようとすると、

 なんと勝手に開いた。

 

 いや、建物の管理者が警察立ち合いのもとで鍵を開けたのだ!

 

 チャイムは二度鳴った。

 

 そうか、たった二回鳴っただけで鍵は開けられてしまうのか……。

 

 もしにんじんが不在だったら勝手に中に入られていたんだろうなあとか、パンを尻にはさんで右手の指を鼻の穴に入れて左手でボクシングをしながら「いのちをだいじに」と叫んでいたら見られていたんだろうなあとか、綾波みたいに全裸だったらどうすんだとか、

 とりあえず気持ち悪くてしかたがない。

 

 せめてチャイムを五回ぐらい鳴らしてノックをして「〇〇という者です。何とかのために来てます。ご協力お願いします」とでも言って、「開けます~」とでも言ってから開けてほしい。開けたあとでもいいから、どの法律を根拠に開けたのかも言ってくれ。

 

 鍵なんてあってないようなものなのだ、と思い、

 急に「家」と呼んでいる構造物が頼りなくなってきた。

 

 

 

 

にんじんと読む「菜根譚」前集1

棲守道徳者、寂寞一時。
依阿権勢者、凄凉万古。
達人観物外之物、思身後之身。
寧受一時之寂寞、毋取万古之凄凉。

道徳に棲守する者は、一時に寂寞たり。
権勢に依阿する者は、万古に凄凉たり。
達人は物外の物を観、身後の身を思う。
むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄凉を取ることなかれ。

人生に処して、真理をすみかとして守り抜く者は、往々、一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。(これに反し)、権勢におもねりへつらう者は、一時的には栄達するが、結局は、永遠に寂しくいたましい。達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す。そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しくいたましい権勢におもねる態度をとるべきではない。

菜根譚 (岩波文庫)

 菜根譚は「道徳に棲守する」ことからはじまる。一番はじめだということもあって、この章はよく頭に残って、かなり好きだ。特に「真理を住処とする」という表現はすばらしい。真理は住まうものなのであって、宝箱に入れて保管するものではない。手を伸ばして獲得するものではなく、そこに生きるものなのだ。このような真理観は認識論的にも正当化されるものと信じているが、まぁ、そこは中国古典なので、たとえば『論語』などと同様に論証などは行われない。その代わりに「権勢に依阿する者」を出してきて、ほらそうでしょう? と囁くだけである。物足りないといえば物足りないが、西洋風の論証が書かれてあるのを期待するのは無駄だろう。

 しかしなぜ真理を住処とする者に対して、いわばその逆にあたる者が「権勢に依阿する者」なのだろう。というのも、おもねりへつらおうが内心では真理に棲守しているかもしれんではないか―――と思うのは、まず一次的には、完全に誤解だろう。これは真理というものをどう考えているかが現れる。つまり、「おもねりへつらう」ような奴はいくら内心で正しいことをぐちぐち言っていようがなんの関係もないのだ。「わかってんならじゃあやれよ!!」ということを強く強調する、「実践」というものに重きを置く、これが東洋風である。近似的にいえば、真理とはよき習慣だといえる。当然のように、なぜそれが正当化されるのかについては一切答えられないわけだが。

 しかし二次的には、つまりこの一時的な勘違いを乗り越えてなお、「養わなければならぬ家族がいるならおもねりへつらうことは責められることだろうか」といったような疑問を提出することもできる。たしかに、どうもこういう話の中に登場する奴らは、どいつもこいつも人間関係が希薄である。どこか超然としている。それでいていざとなれば死ぬことも厭わぬようなところもある。

 とはいえ、向こうとしても「おもねりへつらうな」というのを道徳規則として語ったわけではないだろう。彼が言っているのは永遠に寂しくいたましい道を選ぶなということである。そして「おもねりへつらう」ことはそれを導く。導かないことに対してまで、口を挟むことはないのではなかろうか。

 

 

 

にんじんと読む「日本の自然崇拝、西洋のアニミズム(保坂幸博)」🥕

「宗教とはなにか」が問われていない

 日本においてはオウム真理教の一連の事件において、宗教というものに一挙に注目が集まった。事件の背景にあった宗教とそれに対する熱狂的な信仰がもたらした残虐な行いはマスコミにも多く取り上げられることとなったが、実のところ、「あのような狂信を生み出す宗教とは、そもそもなんなのか」は議論されていない。私たちはこれを問う絶好の機会を避けて通ってしまった。

 

「マインドコントロールの不思議さ」で済ました

 「おかしなやつがおかしなことを言うのにおかしなことはない。しかしおかしいのは、自分の意志をまるで持っていないみたいに命令に従う信者たちである。いくら心酔している人のいうことであっても、人を殺せといわれてはいわかりましたとなるのはどうかしていないか?」

 この異常を説明するために、マインドコントロールという言葉が持ち出された。これによって宗教を宗教として考える道が閉ざされてしまったのだ。

 

できるだけ第三者的に宗教を見よう

 宗教とはなにかを知ろうとする試みは大きく二つの態度がありうる。

  1.  自分自身の宗教を探求すること。
  2.  自分自身以外の宗教を探求すること。

 一番目はまさに「修行」であり、本書では二番目を取る。離れた視点で宗教を見るというのはきわめて難しく、そもそも学問成立の土壌はキリスト教の文明圏にあった。だからまずは「宗教学」に踏み入る前にその方法論、つまり使う道具をチェックしておくことが大切である。

 

 

 

第二章 宗教多様性の社会、日本

  •  日本は多数の宗教を抱える国。日本人の「信仰」はどうなっているのでしょうか。私たちは無意識に宗教というものを””心から信じているかどうか””によって考えています。けれど実はそうした信じる・信じないという二者択一の視点は極めてキリスト教的です。たとえば、初詣に行く人は神様を「信じている」のでしょうか。手を拝む行為は信じる信じないと無関係に行われていて、それがなぜいけないのでしょう。なんとなくお社の前で立ち止まり、なんとなく手を合わせる……こうした行為をただ「信じていない」の一点だけで宗教的行為の枠から除外してもいいのでしょうか
  •  宗教は、ある民族やある個人のアイデンティティーを形成する根本要素の一つである―――各民族は自分たちと他を区別するために、宗教という手段をよく使いました。つまり、統一された集団の意識を支えるものが宗教だということです。

第三章 世界の宗教の「発見」

  「君の宗教は何か」この問いを携えて、キリスト教は布教活動を行ってきました。私たちはこう問われたとき戸惑いますが、戸惑ったのは日本人ばかりではありません。

  •  宗教研究というものはそもそも、キリスト教世界で始まったものです。そこでは「世界には宗教はただひとつしかない」「神はただひとつしかない」という絶対的な主張がありました。この主張が、世界の多様な宗教理解の妨げになっています。(一神教の世界観はキリスト教以外にも見られるもので、たとえばイスラム教やユダヤ教がそうです)
  •  『新約聖書』にはパウロが世界中各地の信者たちに向けて書いた手紙があります。そこには「あなたがたは、むなしい騙しごとの哲学で、人の虜とされてはならない」と書いています。この哲学とはギリシャ思想のことです。思想そのものを批判したのももちろんですが、もっと重要なのは、ギリシャ思想を宗教とは認定しなかったことです。つまり、それは人の頭でこしらえたものであって、キリスト教のように神から贈られた光に根差しているわけではない、ということです。
  •  ギリシャ思想家たちが「君らの考えって全然宗教じゃないね」と言われたら「は?」と思ったでしょう。彼ら思想家らの発想は宗教と連続的なつながりのなかにあって、決して断絶しているものではないからです。これは宗教だが、これは宗教ではない、といったようなものではないのです。
  •  「ギリシャ思想は宗教ではない。単なる理性の産物にすぎない」という決めつけは大きな影響を与え続けました。この決めつけはひとつの””離れわざ””で、思想を一つ一つ吟味して批判するのではなく、一つのカテゴリーにすべて押し込めて「人間がやったことなので」と価値を低落させたのです。
  •  宗教というのは思想だけでできてはいません。祈ったりなどのいろいろな活動があります。思想の面を以上のように攻撃したあとで、次は実践への攻撃に移ります。
  •  偶像崇拝。それがキーワードです。「神様は人間に及びもつかないものなのに、ナニカを神だといって崇めている」これが変だといったのです。

 とはいえ、偶像崇拝はなじれても、そこに崇拝という行為があることまでは否定できなかったようです。要するに、「君らは変だ。インチキだ」とまではいえても、そこにある””宗教””自体は否定できなかった。けれども、そういう””宗教””は見えないところにおかれ、「宗教と言えばキリスト教だ」という信念を作り上げてきました。大哲学者たちですら、宗教と書くときはいつもキリスト教を意味させていたのです――――そんななか、大航海時代にまったく異なる別の文化とぶつかったら、抵抗するのは当然の流れです。

  •  そして今も、それは続いています。宗教について研究するのは、布教のためです。はっきりとした目的があります。とある宗教学者が「キリスト教というのは超自然の絶対的宗教などではなく、伝播過程でいろいろの宗教を吸収しながら大きくなってきた歴史的宗教だ」というようなことを言ったところ、大学にいられなくなりました。
  •  キリスト教はこういうことを「品位の傷害」と受け取ります。カール・バルトは宗教研究に拒否的で、だいたい次のような意味のことを言っています。

世界の「諸宗教」の研究に熱心な諸君よ、君たちがそのようにしたいのならば、それもよかろう。ただし、その場合キリスト教のみは、その研究の対象から除外してもらいたい。もし君たちが、あれらの低劣なものを研究し続け、しかもそれらを「宗教」の名で呼びたいのなら、私どもキリスト教は、それらとは全く異質な存在なのだから、その「宗教」というジャンルからははずしてもらおう

日本の自然崇拝、西洋のアニミズム―宗教と文明/非西洋的な宗教理解への誘い

 

 

日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

山岳信仰 - 日本文化の根底を探る (中公新書)

 

第四章 歴史上の宗教の「発見」

第五章 ヨーロッパが見た他宗教とその理論

第六章 日本固有の宗教

 というわけで、キリスト教徒たちが日本という「極東」の国の宗教をいかにして見るのかを確認しておきましょう。彼等は私たちの宗教を「アニミズム」ということばに当てはめます。結論からいえば、それを私たちに当てはめるのは不適当だと思います。

  •  アニマというのは、何らかの霊的な存在を表します。動物はアニマルといいますが、それは動物のなかにあって動物を動かすものを「アニマ」として想定しているからです。
  •  アニミズム理論は19世紀末に活躍したエドワード=バーネト・タイラーである。彼によれば、未開人が霊魂を信じた理由の一つは「死」だろうと推測します。死んだら冷たくなって、うごかなくなるため、この衝撃が霊魂の観念をうんだのだとしました。
  •  「身近な人間の死」から霊魂の存在を信じ、「人間以外のあらゆるもの」に霊魂の存在を拡張していった……というのがタイラーの話の流れです。
  •  「日本人が自然の中にあるもの一切に魂が宿っていると考えている! これはアニミズムだ!」というわけです。とはいえ、私たちはたいていそんなものを信じてはいませんし、信じてはいなかったでしょう。しかしそれでも、「日本人が自然を崇拝する傾向をもっている」点は、日本人学者においても異議はあまり出てきません。というか、日本人の宗教の本質だかなんだかについて語ろうとすると、必ずと言っていいほど自然崇拝と言い出す始末です。
  •  しかしそもそも、自然を崇拝するって何を崇拝しているのでしょう。自然というのは人の手が加わっていないようなものとも読めますが、そんなものはどこにもありません。たとえば樹齢何百年のナントカとか世界遺産のナントカ山地とかはありますが、ああいうのだけ数えたらどれほど「自然」が少ないことか―――――「自然を守れ!」という言葉もそうですが、自然ってなんなのだろうというのは考える必要があります。水田や畑は自然でしょうか。
  •  ちなみに、キリスト教は最初から「自然の管理」を打ち出しています。自然は人間の役に立つように神様が作ってくれたのだというわけです。

 さて、それでは日本人の実際の様子に目を向けてみることにしましょう。それは「山への崇拝」です。

  •  19世紀末にイギリス人が日本に来て、「日本アルプス」という高山地帯を歩き、地域を紹介する本を書きました。彼は「日本アルプス」を発見したのだとして上高地では祭りもひらかれています。
  •  とはいえ、そのイギリス人が何を発見したのかはいまいちわかりません。日本アルプスは富山、長野、岐阜にまたがる高山地帯ですが、彼が来る以前に日本人がその存在に気づかなかったわけはありません。だとすると、彼がすごいのはそこを登頂してみせたことなのでしょうか。いいえ、そもそもその山々は古くから崇拝の対象となっており、頂上にはお社があります。
  •  何が言いたいのかというと、「山」に対する観念が日本人とイギリス人で違っていたということです。このイギリス人宣教師にとって登山はスポーツの一種としてあった。一方、歴史上の日本人登山者はその山を崇拝の対象としていた。登山は宗教的実践だったわけです。
  •  日本人の山々の崇拝は相当な前から見られたでしょうが、それが一定の形を得始めたのは外来の宗教———山に対する崇拝それ自体ではないもの――を必要としました。つまり仏教です。
  •  そもそも本来的な仏教は山はもちろん自然物に関心などありません。しかし伝播の過程で、その土地の伝統的主教を取り入れ、同化していったのが仏教です。キリスト教は他宗教を排斥しましたが、仏教は自分たちを浸透させるためにそこの「崇拝」を取り込んだのです。神社のような施設をほかの宗教と比べてみると、なんと自然の要素を感じることでしょうか。

 日本人の「山への崇拝」は仏教の要素によってもともとのあり方が見えづらくなっています。仏教は古くから国教として、政府の政策に絡めてその地位を確立してきました。それ以前にどんな風だったかをみるのはなかなか難しいことです。たしかなのは、そこには呪術的なものがあり、仏教という国際スタイルを定着させたい政府にとっては邪魔だったということです。その様子は明治維新以前にもたしかにあったはずの「医学」をすっかり捨て去り、「西洋医学」を国際スタイルとして定着させたことを考えれば納得がいきます。

 ところが、政府の宗教政策が仏教を広める中で、伝統を守り続けてきた人々がいます。彼等の登場が私たちの目に見えるようになるのは12世紀頃のこと。彼らは「山伏」と呼ばれます。彼等は誰もいない山の中に住み着き、そこで寝起きし、そのなかで生活しました。このようにすることで、人並外れた能力を身に着けることができると考えたのです。自然が与えてくれる力を全身で吸収するこの宗教的実践方法を「修験道」といいます。

 さて、山伏が目立ちだしたということは、仏教にとっては脅威です。というわけで、仏教はこの動きに積極的に対応し、山岳の修行場を開拓し始めました。いわば仏教による山伏の””囲い込み””です。ところがどれほど仏教による組織化が進んでも、山伏には非仏教的な雰囲気が残りました。それはやはり、彼らの崇拝対象が「自然」であるというところなのでしょう。

第七章 日本人の自然崇拝

 山伏のような人々はともかく、「日本人全般が自然を崇拝している」といわれるのは妙に感じられます。でもそれは、日本人の自然崇拝がいかにも宗教だという形をとってはいないからです。人々は常に自然のイメージを心に抱き、そのイメージと関連させる形で、生きていくスタイルを作り上げてきました。日本人の自然崇拝は根本思想なのです。

  • このことは詩文学等の領域で見出すことができます。また日本庭園、盆栽、植物、生け花等もそうでしょう。たとえば盆栽をみてください。自然の中にある松のミニチュア版です。欧米人には常軌を逸しているように見えるでしょう。あるいは、道端の、アスファルトの隙間にある小さな地面にたくさん草花を植えてみたりします。自分の家が狭くても、花を飾ったりします。
  •  医薬品に関しても、私たちは「自然なもの」を好みます。ビタミンCを得るために錠剤ではなくミカンからとろうとするのです。人工の医薬品を警戒し、たとえ効き目が劣るとしても漢方を使ってみようという気がするのです。製薬会社の宣伝は、いかに「生薬」であるかを競います。
  •  また、キリスト教文明圏では、意思決定の一歩はその人が踏み出すものです。どんなに環境が苦しく迫ろうが、それをするかどうかはその人の完璧な自由だと考えられています。一方で私たちの生活は「仕方がない」があります。
  •  自然な心情とか、「自然性」を重んじます。親が子どもをいつくしむ気持ちは自然のものなので、多少不都合があっても、許容すべきだろうという考え方もあります。また、酒の席でぽろりと言ってしまうような自然な心情の表出のほうが重みがあります。論理的だとか理性的だとかより、その人の心からの気持ちのほうが重大なのです。アメリカでは酒を飲んでもまるで飲んでいないかのように振る舞わなければなりません。理性は保たなければならないので、酔ってはいけません。しかし日本人からすると、「酒を飲むと酔うのは当たり前なのに何のための酒を飲んでるんだ?」という気分がします。

 西洋思想の流入によって、伝統的な考え方が「恥ずかしい」という気がされだしています。たとえば見合い結婚もそうです。昔は自分が選んだものとは関係のない相手と成り行きで結婚させられたりしたものですが、正直、若者たちの手に余っているようです。

男女両性がお互いの意志を確認し合い、自分たち以外の外の要素を一切排除して、結婚の決心をするというスタイルの恋愛は、まだ戦後に輸入されて、最近ようやく市民権を得たばかりの、いわば孵化したばかりの幼い思想であって、我が国の若者たちの手に余ります。結婚のために、二人が共同して意志を決定していく際のプロセスや、恋愛にまつわる様々なルールなどは、何一つ身についていません。

日本の自然崇拝、西洋のアニミズム―宗教と文明/非西洋的な宗教理解への誘い

  自分の意志のみによって人生の大事を決定していくこと。

 私たちはまだこれを自分のものにしていません。大学の専攻もわからず、なんとなく大学に入り、なんとなく職業を選び、なんとなく働き続けることなどよくあることです。

 

 

 大事なことをいいます。自然崇拝における「自然」というものは、山だの川だのといったものには限られません。ものの考え方の自然、感受性の自然、そのような内面的なあり方にも用いることができるものです。

 

日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

山岳信仰 - 日本文化の根底を探る (中公新書)

 

第八章 「人間中心主義の宗教」と自然崇拝

 「日本人の自然崇拝」は「人間中心主義の宗教」とは根本的に異なります。さらに踏み込んでいえば、キリスト教とは原理的に異なります。すなわち、キリスト教文化圏で発達してきた宗教学理論では日本人の自然崇拝は掴み切れないのです。何が言いたいかといえば、自然崇拝研究にアニミズム理論は役に立たない、ということです。

  •  アニミズム というのは 霊的な存在を表すラテン語のアニマに由来するもので、原始的な民族は山川草木の自然物に霊的なものが宿っていると考えていると解釈したのでした。これはタイラーが提唱した理論です。
  •  さて、タイラーはこうもいいました。「アニミズムっていうのは宗教の一番初めの段階だ」つまりは、こういう意味です。「アニミズムにすら達してない民族は人間じゃない」この考え方にはダーウィンの進化論の影響があります。宗教学においても、人々は””原初の状態””を追い求めていたのです。

 でもキリスト教は進化論をまったく受け入れていなかったはずです。そうだというのに、キリスト教は進化論をその根底から支えていたのです。それは彼等の「直線的な時間」観念です。今という価値ある状態に辿り着くためには、どこかから始めなければならないのです。低級な状態から高級な状態へ。*1

  •  アニミズムという自然宗教が最底辺に置かれたのは何故でしょう?
  •  自然宗教が人間的精神を全く含まないからです。なんでそれが低級かっていうと、そもそも低級とか高級とかを決める尺度が「人間とどれぐらいかかわりがあるか」だからです。もっともっと高級なのは、未来の目標を与えるようなものでしょう。理想の人間像、理想の人間社会……トップに君臨することになるのは、キリスト教文化圏では当然、キリスト教です。
  •  ヘーゲルキリスト教にいくつかの不純な要素を見ていたのかもしれません。彼はさらにピラミッドを一段積み上げ「絶対宗教」という名前を与えました。でも注意しなければならないのは、絶対宗教というのは不純物を取り除いたキリスト教であって、別のものではない点です。この序列構造はだいたい各地共通のものです。
  •  というわけで色々ありましたが、要するにアニミズムは最底辺です。つまりアニミズムと見なされている日本人の宗教は最底辺です。自然性というものを彼らは低級のものと見るからです。そういう風に見るのは仕方ないにしても最底辺とまで言われる筋合いはありません。せめて横に並ばせてはもらえないもんでしょうか。

  さて、自然vs人間といったような構図になってきてしまいました。ここでキリスト教が「人間中心主義」であることを確認しておきましょう。この点は少々わかりづらい。というのも、キリスト教には絶対者がいるからです。絶対者は、それのみが唯一絶対です。じゃあ人間なんて除外されたものなのでは、と思ってしまいます。が、まったくそんなことはありません。

  •  「神は人間を創造した際、それを自分の似姿に創造した。」「すなわち、この世界で、神のあり方を分け与えられて存在しているのは、人間の存在唯一つのみだということです。」
  •  聖書の記述を実証的な側面から考えれば、事情はまったく逆でしょう。つまりこうです。「もしも、猿が神を作ったとすれば、その神は猿の姿形をしていることだろう」
  •  聖書の書き出しには「始めにロゴスがあった」と書いてあります。ロゴスとは人間の言葉のことです。神は人間にしか関わりません。鈴虫の発する音色はロゴスではありません。

 人間中心主義の宗教は「自由」「平等」「博愛」などのさまざまな価値を生み出してきました。人類ははじめからこんな思想をもっていたくわけではありませんし、理想としていたわけではありません。強い者、豊かな者が繁栄を享受するのはあたりまえのことでした。

 そこへイエスがやってきます。彼は貧者や弱者に対して「貧しい者は幸いである」といいました。なぜかというと、心が清らかで神から愛してもらえるからです。この考え方は当時、衝撃的だったはずです。反旗を翻すものです。強者がなんだ、弱者がいじめられていたらみんなで団結してぶっ倒してしまえ、神が認めてくれてるんだぞというわけです。これまで体の弱いものは当然死んでいくものとされ打ち捨てられていましたが、弱者にも救済される権利があると訴えたのはイエスでした。これが今日の基本的事件、つまり生まれながらにしてみんながもっている権利の思想の根本となりました。

 キリスト教が作り上げた価値は徹頭徹尾、人間のためのものです。そしてその宗教における絶対者は必ず、どれだけ超越的存在だとしても、あらゆる点で、「完成された人間」の特徴を所持しています。

第九章 俗信、もう一つ別の種類の「人間中心的宗教」

 さて、自然崇拝をみてみましょう。自然存在と人格的な神のイメージというものはなかなか重なり合いません。たとえば富士山にはコノハナサクヤヒメという神様が充てられたことがありますが、こうした作業は政治的文化的に日本を統一しようとした政策の結果であり、富士山は富士山であって人間存在と共通の原理をもったものではないのです。

  • そもそも神道の神社には人間の似姿をした像はありません。非人格的な自然の崇拝という、まことに特異な宗教形態といえるでしょう。ただし、「非人格的な存在に対する崇拝」は世界的にはもちろん日本の他にも例があります。
  • 仏教は人格的なもの(ブッダなど)と非人格的なもの(法)の二面性を持ち合わせています。釈迦は亡くなるときに「これからは私のいうことじゃなく、法を理解し極めて行けばいいから心配しなくていい」といいました。

 でも、日本人にもたくさんの神様がいたはずです。これは非人格的な存在を崇拝するというさっきのポイントと矛盾しているように思われます。

 私たちはなんだかよくわからないながらも、ガランガランと鈴を鳴らして、賽銭箱に金を投げ入れて、なんとかかんとか祈ります。ご祭神なんか知りません。というか神社にいってそこで何がまつられているか知っている奴は感心されます。祈りの内容は家内安全、商売繁盛などの極めて現実的なことがほとんどです。そこで「現世利益的宗教」とも呼ばれたりします。

 祈る以上は叶えてくれそうないい感じの存在を想定しているわけですが、それをよく知らないにしても、なんかいればいいじゃんみたいなものだとしても、少なくとも富士山ではないでしょう。富士山などの山々は、家内を安全にしてくれるどころか何もしてくれやしません。だからこそ、なおさら「自然崇拝」と「現世利益的宗教」というのはちょっとちぐはぐな感じがしてきます。

  •  神道という言葉を聞くとすぐに「神道の歴史とは天皇の歴史で~」と言い出す人がいます。が、神道の神様が天皇だけというのは誰も納得しません。神様はそれこそおびただしいほどいるわけで、『古事記』『日本書記』といったものに登場する神様の他にも、天皇家以外の豪族もいます。たとえば奈良にある春日神社は藤原氏の神社です。地域集団、その土地の神様に向かってそれぞれ祈りを捧げいました。こういう意味では、民衆にとってその神様の起こりがなんであろうが、祈って家内安全になりゃあそれでいいのです。神社は由来というよりも「地域」的なことです。その地域の人はその神社に行くわけです。
  •  キリスト教的にみると、日本は多神教に分類されがちです。でも祈っている当人たちも、誰に祈ってるんだかほとんど誰もわかっていません。熱心な人はともかく、ふつうの感覚からすると初詣に行く近所の神社で「誰を祀っていて・どういう経緯でそんなことになって・どんな人だったのか」なんてどうでもいいのです。正体なんか別に気にしていません。毘沙門天神道だと思ってお参りする国、それが日本です。
  •  唯一はっきりしているのは、やはり家内安全、商売繁盛、平穏無事、大学合格……祈りの内容だけです。そういう方向でいうと、神社はお祈り施設です。
  •  はっきりしてるのは祈りの内容と書きました。でも実はこれも危うい。ふつう、神社のお祈りには切羽詰まったものはまったく感じられません。家内安全と祈る人の家内はたいてい安全です。商売繁盛を願う人の中で、””悪くすると明日にも倒産して一家心中””と言う人はなかなかいません。さらにいうと、「切羽詰まったひとの神社頼み」というのはなかなか起きません。日本ではたいてい、切羽詰まった悩みは裏道に頼るのです。
  •  裏道例:「占い」。裏道例2:「いちこ、いたこ」(霊能者)、裏道例3:「陰陽師」 いろいろ裏道には名前がありますが、「あの人は占い師であの人はいたこであの人は陰陽師で」などと区別されていたわけではありません。

 こうした裏道の持つ力というものは、いわゆる””超自然的な””といわれるような、「自然」「宇宙の法」といったような非人格的なものに拠っています。そのように見れば、現世利益的宗教といえども非人格性の特徴が強いといえるでしょう。

 

ここでおわり

 著者本人が書いているように、『できるだけ視野を広げて見』たおかげで『一つ一つの問題に関する突っ込み方が、浅くなってしまったうらみがあります。』。そしてまた、結局、『宗教の定義に関しても、終いに、はっきりとしたものを提示することはできませんでした。』。この自己評価はかんぜんに正しいものです。

 しかし日本人の自然崇拝について広い視点で見ることができるため、次の本に向かうための大きなモチベーションになります。

 

日本人の自然観

日本人の自然観

 

 

*1:とはいえ、実際のダーウィン進化論は「完成」に向かって進んでいるわけではない。現在の生物は完成しているわけではなく、適応しているだけである

にんじんと読む「フッサールの現象学(ダン・ザハヴィ)」🥕 ②志向性という概念

志向性という概念

 志向性というのは対象と作用との根本的な結びつきのことであり、「意識は~についての意識である」という風な標語もある。だがそれは一体どのような結びつきなのか。

 最もシンプルに思いつかれるのは客観主義的なものである。対象に向けられているというのはその対象から影響を受ける場合だけだという。太陽が熱く感じられるのは太陽が熱を放っていてそれが私たちに影響を及ぼしているためであり、この見解によれば、志向性は世界の中の二つの対象の間の関係ということになる。だがこれは支持できない。なぜなら、私たちはペガサスについて考えることができるが、そんな対象は存在しない。私たちは落ちているロープをヘビに見間違えることができる。つまり、「対象」が存在しなかろうが、依然として志向的なのである。

 すると今度は逆に主観主義的な解釈を支持したくなる。つまり、志向性とは意識と意識対象の間の関係であり、対象がいつも存在するわけではない以上、まずそれは心の中の対象ということになる。その対象というのは意識が作り出したものであり、すなわち対象はすっかりぜんぶが作用の管理下にあるわけだ。(1)そう考えると対象の同一性は作用の同一性に完璧に依存することになる。だが明らかに異なる作用が同じ対象を志向することがあるし、私たちは昨日も今日もリビングに「同じ」テーブルを見るのであって、昨日のあの瞬間のテーブルがたった一度しか経験できないわけではない。しかも、これが正しいとすると私とあなたで「テーブル変えない?」などと会話することさえできない。―――この解釈が犯している誤解は、心理主義が犯している根本的な間違いに基づいている。(2)テーブルはいつも、ある一側面から見られる。テーブルそのものが全体として目の前に現れることはない。現出するものと現出そのものは区別されなければならない。これは『作用の所与の様態と対象の所与の様態の差異』である。もし対象がすっかり意識に含まれているなら、この区別は消え、意識にわからないことなどなくなる。また、私たちが空想するペガサスという対象が、まさにテーブルと同じ地位において語られることとなるだろう。

 では志向性とはどのような関係のことなのか。ほかにどんな選択肢があるのか。

 そもそも意識の外部に対象があり、意識には対象の像が浮かんでいるという区分は、なぜそれが同じものだとわかるのかという問題を孕んでいる。そもそも二つは定義上、異なるもののはずだからだ。だからそもそもこういう風に、二つの存在者を前提する時点で、話はおかしくなってしまう。

 外部に対象があって心にその像ができるというが、この特性は自然なものではない。それができるというのは、そのように解釈することができるということである。すなわち、『絵画は、像を構成する意識にとってだけ像である』ということだ。ナポレオンの肖像がナポレオンになるのは、そういう風に見るやつがいてこそである。そういうわけで明らかに、なにかをなにかに代表象させるというのは別の知覚を前提としており、なにかを知覚するために代表象させないといけないような理論はすべて間違いなのである。言い換えれば、経験は心的表象によって媒介などされてはおらず、まさに目の前に現前している。

 志向性は二つの存在者を前提しない。対象が存在しなくとも、見ることは志向的でありうる。たとえそれが錯覚で、対象がほんとうはなかったとしても、それはその対象に向かっているのである。志向性は対象によって触発されるものではなく、単純になにかに向けられているというそれだけにすぎないが、私たちはこれによって二つの存在者の存在を前提し主観と客観の一致という困難に出会う必要はなくなる。これだけで十分なのだ。