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にんじんと読む「菜根譚」前集1

棲守道徳者、寂寞一時。
依阿権勢者、凄凉万古。
達人観物外之物、思身後之身。
寧受一時之寂寞、毋取万古之凄凉。

道徳に棲守する者は、一時に寂寞たり。
権勢に依阿する者は、万古に凄凉たり。
達人は物外の物を観、身後の身を思う。
むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄凉を取ることなかれ。

人生に処して、真理をすみかとして守り抜く者は、往々、一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。(これに反し)、権勢におもねりへつらう者は、一時的には栄達するが、結局は、永遠に寂しくいたましい。達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す。そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しくいたましい権勢におもねる態度をとるべきではない。

菜根譚 (岩波文庫)

 菜根譚は「道徳に棲守する」ことからはじまる。一番はじめだということもあって、この章はよく頭に残って、かなり好きだ。特に「真理を住処とする」という表現はすばらしい。真理は住まうものなのであって、宝箱に入れて保管するものではない。手を伸ばして獲得するものではなく、そこに生きるものなのだ。このような真理観は認識論的にも正当化されるものと信じているが、まぁ、そこは中国古典なので、たとえば『論語』などと同様に論証などは行われない。その代わりに「権勢に依阿する者」を出してきて、ほらそうでしょう? と囁くだけである。物足りないといえば物足りないが、西洋風の論証が書かれてあるのを期待するのは無駄だろう。

 しかしなぜ真理を住処とする者に対して、いわばその逆にあたる者が「権勢に依阿する者」なのだろう。というのも、おもねりへつらおうが内心では真理に棲守しているかもしれんではないか―――と思うのは、まず一次的には、完全に誤解だろう。これは真理というものをどう考えているかが現れる。つまり、「おもねりへつらう」ような奴はいくら内心で正しいことをぐちぐち言っていようがなんの関係もないのだ。「わかってんならじゃあやれよ!!」ということを強く強調する、「実践」というものに重きを置く、これが東洋風である。近似的にいえば、真理とはよき習慣だといえる。当然のように、なぜそれが正当化されるのかについては一切答えられないわけだが。

 しかし二次的には、つまりこの一時的な勘違いを乗り越えてなお、「養わなければならぬ家族がいるならおもねりへつらうことは責められることだろうか」といったような疑問を提出することもできる。たしかに、どうもこういう話の中に登場する奴らは、どいつもこいつも人間関係が希薄である。どこか超然としている。それでいていざとなれば死ぬことも厭わぬようなところもある。

 とはいえ、向こうとしても「おもねりへつらうな」というのを道徳規則として語ったわけではないだろう。彼が言っているのは永遠に寂しくいたましい道を選ぶなということである。そして「おもねりへつらう」ことはそれを導く。導かないことに対してまで、口を挟むことはないのではなかろうか。