にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

自分への還帰

 コンビニでカップラーメンを買いながらこう考えた。

 

 「ああ健康に悪い。

 

 でも健康に悪いってのは生きてる証拠だね。

 生きてる証拠ってそう考えるといろいろ溢れてるんだ。

 

 そう思うと生きてる証拠ってありふれたもんだし

 別に大したもんじゃないな」

 

 それからこうも考えた。

 

 「おっ、あれは〇〇校の制服だな。裕福な子どもたちが登校していくね。

 自分も大学まで行かせてもらったし、

 お金のことで親が困ってる様子も見たことがないから、

 裕福ながわのお野菜なんだろうな。どもじんです。

 

 裕福であること、裕福と思っていることは良い影響があると読んだことがあるな。

 自分にもし子どもができたら裕福だと思わせてやりたいもんだけど、

 こんなカップラーメンを食わせてるようじゃいけないな

 やっぱり弁当を持たせてやりたいもんな 作るのめんどくさいけどさ

 

 娘なんかできたらかわいいだろうな でも娘が結婚するとかなったら多分泣くなぁ

 いやでも娘が茶髪にしただけでもショック受けるか

 染髪なんてやりたいようにやらせりゃいいのに 止めるのはわがままだしなあ

 でも悲しいのは事実なんだよなあ

 

 息子だったらどうしよう あんまり興味ないもんな男なんて

 学問をやったら やっぱり一時期は頭でっかちになるかもしれんなあ

 一過性の純粋主義というか、

 ただしさみたいなものがやたらと気になって、

 よのなかとうまく触れ合えなくなっちゃうんだよな

 そういうのを乗り越えて みな おとなになるんだろうけど

 いや、ならない人もたまにはいるけどね ただしさの奴隷みたいな。

 そういう息子に対して 寛容でいてやるのが 親なんだろうけど

 自分はうまくやる自信がないなぁ

 うちの親はよくやったもんだよ

 ありがたいはなしだね そういう親の行動も、そういう親がいることもさ」

 

 ラーメンを食べながら こうも思った。

 

「自分が持ってるコアの問題を、『親問題』って名づけるのは

 ちょっと名前としてどうかなあという気がしてたけど、

 少し呑み込めた気がする。

 

 生まれて来ていちばん最初に出会う他人が 一般には親なんだもんな

 いや、最初に出会う他人、という表現は正確には誤りだな。

 だって そのときには 自分 がいないんだから。

 自己を認めるためには他者からの視線が必要だし、

 他者を他者とするためにはやっぱり自分がいるだろうから、

 自分と他人は まったくではないにしろ 同じ時点でうまれないとおかしいものな。

 他我を、自我とみなして理解しているというのは誤りで、

 けっきょく ふたつはおなじようなものなのかもしれない。

 場面場面に応じて 行動が変わっていくのは

 そのつどの自分と他者にたいして 自我と他我があるからかもしれない。

 でも自我はいつもおなじ物的対象、じぶんに帰属するから

 それがまぎらわしさのタネになっているのかもね。

 

 だから、そのいちばんさいしょの発生が、親。

 こっちも生物だから やっぱり状況に対処するし 適応しようとする。

 そうしているうちにじぶんが形づくられる。

 いちばん最初のじぶんが、親で、

 いまじぶんがいいと評価するものも、悪いと評価するものも、

 いろんなものをふくめて 吸収するんだろう。

 特に子どもはその時々の文化だとか、社会的慣習をそのまま受け入れるしかないし。

 実存の中立的な態度っていうか……。

 

 あたらしい他者と出会っても やっぱり最初の自分と矛盾した行動は

 きほんてきに避けるだろうし ちょっと年齢を重ねたら ますますそうなるだろう。

 だからちょこちょこと改変はされるにしても

 コアの部分、最初の発生のところはなんにしても残ってて、

 その上に重ねるみたいに自分を積み上げていくから

 最後にはコアが見えなくなってしまう。

 自分に関する「あれ?」という感じは、

 結局掘っていくとここに辿り着く気がする。経験上ね。

 で、それを親問題と呼ぶ。自分の究極的な問題。

 

 自分は子どもにどう接するべきなんだろうね。

 子どもなんかできねえだろっていう悲観はともかくとして。

 娘がかわいいからって、茶髪にするなとか、あんまり言っちゃかわいそうだよな。

 それは親の「純粋」という概念を押し付けることになるし、

 「純粋なほうがいい」っていう価値観も押し付けることになるし、

 二重の押し付けだよな。

 二重ってのは、ひとつのなかに二つ折りたたまれてるって意味でさ。

 そういうのが子どもの『自己存在了解』みたいなものになるんだろうな。

 そういうのがのちのち歪みになってあらわれるんだろうけど、

 それを歪みと呼ぶのも、今の自分たちの勝手だよな。

 かんぺきな親以前に、かんぺきな人間像がないんだからさ。

 そういうのも絶対多少は残っちゃうし、

 そのあたりも『親問題』の難しさなのかも。残すつもりがなくても残しちゃうから」

 

ラーメンは食べ終わった。汁まで飲んでゴミ箱に捨ててこう考えた。

 

「親問題は自分の中に含まれているから、かくされているわけではないんだけど、

 ふつうの感覚で行けば『隠れてる』って表現がただしいと思う。

 たぶん、どんなところに就職したいかとか

 そういうところにも顔を見せてると思うし。

 

 本屋さんになりたい。本が好き。静かなのが好き、知識を得るのが好き。……

 って重ねていくたびに、掘っていくたびに、近づいていく気がする。

 たまに斜めに掘ったりして 時間がかかったり

 親とは関係ない岩にぶつかることもあるだろうけど。

 どうして静かなのが好きなのかってなって、ウッって詰まったら、

 多分そこからは頭をフルに回転させないと掘れない。

 問い方はいろいろある。たとえば、静かじゃなかったらどう思うかとか、

 前にうるさくって嫌になった経験を思いだしてみるとか、

 いちばん古い記憶はなにかとか。

 コアに突き当たったら、たぶん問題はほとんど消えてなくなるんだろうね。

 一生かけても、全部取りだせないかもしれないけど」

 

 上に組み立てるより、掘っていく学問が好きです。