正しさの検討
「いまわたしの目に映っているものは、本当にそれ自体を捉えたもの」なのでしょうか。哲学者たちはこの問題に取り組んできました。デカルトはこの問題に〈神〉を持ち出し、カントは「そんな問いは人間の認識の限界を超えているんだよ」とある意味でデカルトを擁護しつつ、そのうえで「人間は『それ自体』とかじゃなくて現象を扱うことならできるよ」と科学を保護しました。これを受けて、客観それ自体を人間の手に取り戻そうとしたのがヘーゲルであって、「認識を鍛え上げていけば客観にたどり着けるやで」と言いました。
わたしたちは〈客観それ自体〉に一致しているような〈主観〉(認識)を「正しい認識」と呼びます。客観的な正しさ、というのもこれに類するものでしょう。
わたしたちが「これって正しいのかなあ」と問う時、少なくともそれが倫理的な正しさである場合を除けば、こうした客観との一致が問題とされているような気がいたします。たとえば体温計で体温をはかるとき、27℃と表示されたら「正しくねえだろ」というでしょう。それは「わたしの〈本当の〉温度はこうであるはずがない」という判断です―――正しい認識、客観的な正しさ、本当の〇〇。そして真理。真理に「たどりついた」という表現も、どうにもこのようなことがイメージされているのかもしれません。
しかしこのような客観的な正しさは、わたしたちをむしばみます。
もしすべてを疑うなら、わたしたちは自分の足場を失ったように思い、自らの行動のすべてを、無意味なものにしてしまうでしょう。そうでないにしても、もし真理が「たどりつく」ものであるなら、その仮想的にたどりついた真理は決定論を暗示しており、わたしたちの生はすべてあらかじめ決められていて、やはり自らの行動をまったく無意味なものにするでしょう。決定論的に見るなら、わたしたちに自由というものはおよそなく、あったとしても「不可知である」という点においてのみ保証される自由でしかないでしょう。
わたしたちはわたしたちの自由を保証し、なおかつ、理論による進歩を信じ続けるために「量子力学」を持ち出すかもしれません。量子と呼ばれる微小な世界では、すべてが確定的に定まるとは限らず、むしろそのような不確定さを基礎として成り立っているからです。このゆらぎが、わたしたちに自由をもたらすかもしれません。
ここに、自由論が錯綜する一つの理由がある。われわれはここで二つの議論のレベルを区別しなければならない。一つのレベルは、世界をシンボル化することは認めつつ、決定論的にシンボル化するかどうかで立場が分かれるものである。量子力学を頼みにするタイプのリバタリアンは、このレベルで議論している。だが、そもそも世界をシンボルのレベルだけで捉えることに反対し、そこに自由の余地を見出そうとする考え方もある。
科学というものは「正しさ」を前提として成り立っています。実験というのも、科学者界隈で認められた「正しさの規準」であり、「正しさ」を前提として「規準」をクリアするかどうかに焦点があたっています。そしてやはり科学哲学においては、この前提とされた「正しさ」の議論が起きています。
しかしそもそも、この「正しさ」を土台として決定論を避けるという意味で自由を保証するという方向で、いいのでしょうか。わたしたちはすでに壁に突き当たっており、「どこかで(論理的に)間違えてしまった」のではないでしょうか?
そのどこかとは、そもそもこの主観と客観の問題なのではないでしょうか。客観的なものなど存在するのでしょうか。
懐疑論を斥ける
わたしたちはもう一度始め直さなければならないのでしょうか。つまり、「あれって、わたしの見てるコレと同じでいいのかな?」という問いに戻らなければならないのでしょうか。
そもそもこんなことを問題にしたのは、ある疑いが原因です。「わっ、びっくりした。ヘビかと思ったらロープかよ!」と突っ込む人に対して、「もしかしてあなたの見ているすべてのことも、幻なのではないでしょうか」と囁く人がいたのです。いや、違うだろうよ……と言いたいのですが、根拠がありません。それで「あたし、ちゃんと物を見れてる?」と問うハメになったのです。
この懐疑論者は何を言っても「いま、〇〇って言ったけどそれって夢じゃないの?」と言ってきます。そこでデカルトは「この世界が夢だろうが見てるものが全部幻だろうが、我(コギト)だけは残るよね」として、そこを出発点としました。
🥕「いま、〇〇っていったけど夢じゃね?」
🐳「夢かもしれんけど、夢を見てる俺はいるくね?」
🥕「ウッ」
という展開にできたわけです。そこから客観と一致できるよ問題に取り掛かるのですが、結局神様を持ち出してしまいました。現代のわたしたちからすれば到底納得できる話ではありません。というか、神様を持ち出さなければ解決できないことを認めてしまったようなものです。この原理的不可能さがカントにおいてビシッと整備されるわけですが、……。
いや、しかし、なんで「我」しかない状態から「客観と一致できるよ問題」に取り掛かってしまったのでしょうか。客観ってなんだよ。我しかねえんだろうが……と、だいたいこういう感じで来たのがフッサールでした。
🐳「で、まぁ客観とは原理的に一致しないってわけだ」
🍎「でもその客観を夢かもしれんって言ってなかったか……? 我だけでしょ?」
つまり、せっかく疑い得ないものに達したのに、その状態をキープせずに元の場所に戻ってしまったわけです。フッサールの現象学はデカルトの「我」を徹底するという立場をとるわけです。そこにはもう、客観はありません。
あるのはただ、「〈それ自体〉があるよ!」と叫ぶ自分だけです。
どうしてわたしたちは客観というものを確信してしまえているのか?
それを問うわけです。
※これが「自分に閉じこもるわけではない」ことは、現象学の初手から暗示されるように思われますが、また機会があれば記事にまとめます。
我の徹底
いずれにせよ、わたしたちは出発点を得、神様しか出入りできないような架空の世界を相手にしないで済む方法をフッサールから学ぼうとしています。ここで起こる哲学理論は、わたしたちの手に届く、実感できるものであるはずですし、それが期待できます。
ここでどのような「決定論」が跋扈するのかはわかりません。しかし、すべてのレールが敷かれているようなものにはならないでしょう。わたしたちに歩く余地を残してくれているでしょう。駅の周囲には町があってそこには〈倫理的ー正しさ〉の住み場所になっているかもしれません。主観ー客観の世界では、「価値」は「客観的事実」の背負ってもらわなければなりませんでしたが、ここではむしろ、価値こそ町の主役かもしれません。*1
わたしたちを縛る客観の神様は消え失せました。
いきなり雷を落として「間違ってるぞ」と言われる心配はありません。「うっかりしていた」はあっても、いわば「世界から騙されている」ことはないのです。にんじんはここに、自由の可能性を見ます。
とはいえ、決定論を斥け自由を得ることは、責任の発生を意味するように思われます。わたしたちは神様から「間違っておるぞ」と落雷を落とされない代わりに、自分の面倒を見ないといけなくなったのかもしれません。わたしたちは泥酔して路上で露出する自由を持っていますが、逮捕されます。そこまでキツいやつじゃなくても、たとえば職場でテーブルに足をあげたら「なんやねんこいつ」と思われるかもしれません。
わたしたちには従うべき慣習とマナーがあるのです!
わたしたちはそこで、〈主観ー客観〉ではなく、〈個人ー集団〉の激突を見ます。
これまで長くにんじんブログで取り上げて来た「人間関係の困難」はここに結実するのです。「やりたいことやったもんがち♪」な世界にも、社会的な制限があり、ムカつくやつを殴ったり殺害したらブタ箱です。会社でむかついても、社会で生きるには我慢しなければならないこともあります。でも! 残業時間で過労死するほど付き合ってやるいわれはないし! ———わたしたちはどこまで社会に溶け込めばいいのでしょうか? ああ、新たな問題の発生。